特殊音楽の世界6「デレク・ベイリーと関西NO WAVE/ノイズの誕生」

今回はいつもと趣向を変えて書きます。

70年代末から80年代初頭にかけて関西で生まれた新しい音楽にデレク・ベイリーがどう影響を与えたか、自分の体験に沿って書きたいと思います。

まずデレク・ベイリーって「誰?」という方も多いと思いますがので、まずは彼の動画を。

ベイリーはノン=イディオマティック・インプロヴィゼーション(既存の音楽語法に依らない即興演奏)の開祖と言われる人です。これって実はものすごく難しいことですよね?あらゆる音楽技法から自由になろうと最も不自由なことを選んだ人です。

京都に昔「どらっぐすとぅあ」という変なスペースがあって70年代末に非常階段のJOJO広重くんや美川俊治くん、ウルトラ・ビデのBIDE(ヒデ)と私が初めて出会った場所でもあります。

78年の京大西部講堂でのデレク・ベイリー初来日コンサートにはどらっぐすとぅあの仲間たちと同じ場にいました。

でも実はベイリーがどんな人なのか、どんな音を出すのかみんなそれほど知らなかったんですよ。当時はあまり知られてなかった特殊な音楽を紹介していた間章氏が招聘していたこと、そしてキャッチフレーズの「極北」に惹かれていったんです。「極北」って一体なんのこっちゃ、と今では思いますが当時は「極」がつくものにみんな弱かったんです。

で、見に行くと先述の動画のような演奏。ショックを受けました。でもね、そのショックを「フレーズやリズムをちゃんと演奏しなくても成立するんや」のはずが「ちゃんと演奏できなくてもいいんや」という都合のいい解釈にしちゃったんです。

ちゃんと楽器を弾けなくても演奏していいんや、それでも既成の音楽にない新しい音楽を作ることができる、という都合のいい解釈をしてたんですね。

しかし勘違いとはいえ、彼のあらゆる規制の音楽から自由になろうという姿勢とそのストイックさは十分に受け止めていたんですけどね。

そしてそれは当時出てきたばかりのパンク/ニュー・ウェイヴの、不必要な技量の否定、場も流通も自分たちの手で、というDIY精神と見事に合致しました。

当時の京都は主にブルース/フォークをやるライヴハウスが数件しかなかった状態でした。新しい音楽をやろうにも場所がない状態でした。そこでヒデ君や後に一緒にウルトラ・ビデを結成する故コウイチロウ達と一緒に、自分たちのやりたい音楽を自分たちの手でやろうとヒデくんの自宅ガレージでビデ・ガレージ・コンサートを定期開催(78年に5、6回開催)しました。

オープン・リール・レコーダー2台でロング・ディレイ装置を作って、来た人全員で演奏したりとか当時としては斬新なアイデアでやってたんですが、もちろん上記のような勘違いが元なので内容はろくなもんじゃありませんでした。

今考えるとアレに普通にお客さんが来てたことが一番すごいかな。

既成の音楽の語法に乗っ取らず、どこからも解き放たれた音を目指したベイリーの音楽は、当時のブルース/フォーク全盛の京都の音楽を古臭いと感じていた若者には、勘違いしていたとはいえとても輝いて聴けたんです。少なくとも私はそうでした。どこまでいったとしても外国の音楽のコピーにしかならない音楽よりも自分たちの手で自分たちの音楽を、パンク/ニュー・ウェイヴの大きな波を被りながらそう思いました。

既成の音楽の枠組みの中での成熟を目指すのではなく、自分たちは自分たちの音楽を好きに作っていけばいいんだ、という確証をその時得たと思います。

そしてそれはその後私がINU、ウルトラ・ビデ、アーント・サリー、SSの関西NO WAVEという全くそれまでの関西、いや日本にはなかった音楽に関わることに繋がっていくのです。

それはノイズ・ミュージックを創出した非常階段のJOJO広重くんは美川くんも同じだったと思います。もちろん他の音楽の影響もあったと思いますが、デレク・ベイリーの音楽と姿勢はノイズという新しい音楽を想像する力を与えてくれたと思っています。

新しい音楽は、狭苦しいジャンルの影響下で起きるのではなく、音楽への向き合い方を考えることから生まれていくのだと思います。

その後、私はベイリーの京都ライヴの主催を2回ほどできました。デレク個人の人となりも演奏の素晴らしさも伝えたいところですがそれはまたの機会に。

 

F.M.N.石橋

:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。