特殊音楽の世界7「番外編、ビート・クレイジー展」

今回は番外編です。特殊音楽の話ではありません。

80年代から90年代にかけて京大西部講堂を中心に連続イベントを仕掛けていたビート・クレイジーという企画団体がありました。

80年代から活性化した日本のパンク/ニューウェイヴ、そしてハードコア・パンクを語るには絶対に欠かすことはできない団体でした。

ビート・クレイジーは当初5人で始まったのですが、すぐに2人抜けコンチネンタル・キッズの故ラン子さん、現ロック・ア・ゴー・ゴー企画のしのやん、 VAMPIRE!の和田くんの3人体制で継続しました。

西部講堂は、行ったことがある方はご存知だとは思いますが音響機材もないし照明機材も満足にありません。屋根のある野外といってもいいくらいの場所で、しかもキャパは1000人くらいの場所です。なので会場設営から実際のコンサート運営まで多くの人手が必要になります。

そういう場所で多い時には2、3ヶ月に一回は大きなコンサートを企画していたのです。

ビート・クレイジーの当時のイベントの様子を少し。ラン子さんとしのやんがいたコンチネンタル・キッズのライヴ・シーンです。

その時代を代表するパンク/ハードコア・バンドはほとんどビート・クレイジーのイベントに出ていたと思います。

 

継続のための必須条件である経費削減のいろんな工夫やターゲットをはっきり決めた情宣力など、ビート・クレイジーの特筆すべきことは沢山ありましたが、何よりラン子さんのカリスマ性とバンド側へのホスピタリティが完璧であったことが観客も含めた多くの信頼を勝ち取った一番の理由だと思います。

 

でも一番特徴的だったことはそんなことじゃなかったんです。

何がすごかったかというと「シーン」の作り方でした。

西部講堂の横に今はないクラブボックスがあり、そのひと部屋を西部講堂の運営側が会議室として使っていたんです。しかし月二回の昼間しか使われていなかったこともあってビート・クレイジー側がミニ・ライヴ(キャパ50人くらい?)の会場をして使うようになりました。

毎週土曜の夜に開催されたイベントはrock a gogo clubと称され関西の若いパンク・バンドが多く出演しました。初期のS.O.B.や少年ナイフも出演したと思います。

実は西部講堂はイベントがある時以外は人が居ずひっそりしています。しかし毎週末にはパンクスたちが集合する場所ができたのです。しかも二、三ヶ月に一度は大きいコンサートもあります。次第にライヴやコンサートがないときでもパンクスたちが集まってくるようになりました。

ビート・クレイジーはそういう若い子達のバンドをrock a gogoに出したりコンサートでのスタッフとして仲間に入れたりしていました。

若いバンドの育成、スタッフの確保、そしてでかいコンサートの運営、そして自分たちのバンドの活動を同時に行っていたのです。

「シーン」とはこうやって作られるのか、と関心しました。

しかも、何より特筆されるのは全てのパンクスたちが皆楽しそうにしていたことです。スタッフ確保、と書きましたが決して若い子を利用しようとしたものではなく、仲間になった全ての人が楽しんでいました。自分たちが「シーン」の真っ只中に居るということを皆意識してたと思います。西部講堂やビート・クレイジーを自分たちの「場所」と思っていたんです。

 

そういう「シーン」を何もないところから作ることを、しかもただの「場」であり自主管理空間でもある西部講堂のようなところでやったところは今に至るまで他にはないと思います。日本の音楽史でも特筆されるべきことですがそれを検証した人は今まで誰もいないと思います。

 

そんなビート・クレイジーの資料展が行われます。
6月24日~7月16日に三条猪熊通下るのギャラリーgreen &gardenで「BEATCRAZY&TREMATODA EXHIBITIN」というタイトルで行われます。

http://green-and-garden.net

入場料金500円(予定) バッチもしくはステッカー付き、現在検討中らしいです。

初日の6月24日の19時より、しのやん、VAMPIRE!和田、デヴィッド・ホプキンス、そして私の4人でのトークショーがあります。

詳しくはgreee&gardenまでお問い合わせください。

 

F.M.N.石橋

:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。