<気分はどうだい?> Vol .8 1969年。19歳、何もかもが面白かった

ここ最近音楽に関して言えば50周年の記念としていろいろな特集が組まれたり、多くのリイシューものが発売されたりしています。世界中の若者を中心に世の中の意識、価値観が大きく変わった60年代最後の年、1969年。その時代をリアルタイムで体験、経験できたことは僕の人生にとって唯一の大きな出来事だったのかもわかりません。自分のやってきたことを振り返れば、この時代の影響が最も大きかったことに改めて気付かされます。今回はそんな1969年、19歳の頃の話を少し・・

あの頃の仲間たちに・・・・

アルチュール・ランボー

1969年、この年、東京大学は入試を中止した。ビートルズはホワイトアルバムとイエローサブマリンとアビーロードを発表し、ローリング・ストーンズは最高のシングル『ホンキー・トンク・ウイメン』をリリースし、髪の長い、ヒッピーと呼ばれる人々がいて、愛と平和を訴えていた。パリではド・ゴールが退陣した。ベトナムでは戦争が続いていた。女子高生はタンポンではなく生理綿を使用していた。」 69 sixtynine / 村上龍 より

最近の音楽雑誌の広告を見ていたら雑誌<ロッキン・オン>が「Welcome to 1969 ロック・ビッグバンの時代」という特集を組んでいたので、久しぶりに駅前の本屋さんで購入しました。中身といえば知ってることばかりでしたが、同年代の評論家たちの現在の読者への文章が面白かったです。で、今一度<1969年の出来事>というのをネットで月ごとに確認しながら振り返ってみました。時代は高度成長期であり、集団就職のピークで、そして都心部の大学では学生たちが組織した全共闘を中心とする大学闘争の季節であり、まさに新旧世代の価値観がぶつかりあった時代だったのです。僕の学校でさえ高校から大学に上がる時(高校から大学はスライド制でした)学園封鎖で6ヶ月間学校に行けませんでした。ノンポリ(”nonpolitical”の略で、1960 – 70年代の学生運動に参加しなかった学生を指す用語)だった僕は当時やっていたバンドのリハやアルバイトに明け暮れていました。もちろん意識は学生に共鳴しているわけなのですが、鉄パイプを持ち機動隊と対峙したことはありませんでした。大阪駅前ではデモ隊が投げた火炎瓶が燃え、戦車のような放水車が出動し学生と機動隊がやりあってる中、友人がバイトをしている大阪駅前第一ビルのジャズ喫茶へ行ったものです。そんな混沌とした時代、僕はといえば64年のビートルズの衝撃的な出会いから、さらに音楽にのめり込んでいった頃だったのです。

60年初頭、ヴェンチャーズなどのエレキ・ブームがあり、学生達を中心とするフォークソング・ブームがあり、当初は高校の友人と二人組のフォーク・グループを組み(と言ってもピーター&ゴードンなどのコピーを・・)そして1969年の頃には5人編成のフォーク・ロックのバンドをやっていました。ドラムやエレキを使用していても、まだ友人の伊丹の家で練習をしていたのですが、今のように器材が充実したリハ・スタジオなどはなく、どのバンドも練習場所には苦労していていました。エレキ・ブームの頃それらは騒音と言われ、社会問題にもなり、禁止する学校もありました。この頃はほとんどのバンドがアマチュアで、後にプロとなって活動するグループも毎日放送の公開ラジオ番組<ヤングタウン>などに出演していました。(もちろんオーディションがあって誰でも出れるわけではなかったのですが)僕達もこれらの番組や、所属していた音楽サークル(神戸ポートジュビリー)が神戸の国際会館で開催していた定期的なコンサートに出演したりしていました。当時、毎日放送のスタジオは大阪千里の丘陵にあり、眼下には70年に開催される万博の施設が建設中でした。司会は現在の桂文枝師匠、オリジナルをやっているグループはまだいなく、僕たちは早川義夫氏のいた<ジャックス>のコピーをやっていました。そして、多分この頃だったと思うのですが、ザ・バンドの68年のデビューアルバム「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」を当時まだ大阪におられた瀬尾一三氏(後に中島みゆきなどのプロデューサーに)の家で初めて聞かされたのを良く覚えています。新しい欧米の音楽情報は限られていたため誰かの勧めで新しいシンガー、バンドを知るしかなかったのです。欧米のグループのレコードは輸入盤専門店で入手、何ヶ月も後に発売になる日本盤のレコードは買わなかったし、日本では発売されないレコードもありました。僕の場合は大阪、阪急東通りにあった<LPコーナー>でそれら輸入盤を・・もちろん即このアルバムも購入することになります。

今回のロッキング・オンで取り上げられ.ている69年リリースされた洋楽アルバムのほとんど、レッド・ツェッペリン、CSN、キング・クリムゾンのファースト、ライブ・デッド、フェアポート・コンヴェンション、ザ・バンドやビートルズの「アビーロード」などは全てリアルタイムでこの店で買いました。さらに日本で公開された映画や、小説、芝居などにも敏感に反応し、今だ考え方のどこかにこの頃の影響があるように思います。自由に自分の好きなことをやる。共鳴する作家やいろいろなクリーター、音楽家はすぐわかるようになりました。しかし現在のようにネットで世界中の情報がリアルタイムで見れる時代ではなく、例えば、この時代を象徴するイベントだった69年8月にニューヨーク郊外で行われた<ウッドストック・フェスティバル>なども翌70年7月(米は3月に)になってやっと『ウッドストック/ 愛と平和と音楽の三日間』というタイトルで映画が公開されることになります。(今だったら生中継されているはずです)そして、そのドキュメンタリー映画(サントラ・レコードも)はロックをやっていた連中、スタッフなど音楽業界に大きな影響を与え、日本におけるイベントやロック的な状況が加速されることになります。

僕は70年代に入ると堀内孝雄(後に谷村新司とアリスを結成)とバンドを組むようになり、練習場所も大阪心斎橋にあったヤマハのエレクトーン教室用のスタジオを借りるようになります。ここには難波にあった喫茶「ディラン」の連中や、後にプロとして仕事をやっていくことになる、雑誌ライター、カメラマン、イベントスタッフなどが集まり交流が始まります。ヤマハが主催したイベント「8.8.ロック・デイ」(1973年から)や、あの「春一番」もまだ開催されていませんでした。現在もプロとして活動している多くの連中がここにいました。とにかくこの1969年という年は(67年~69年までの怒涛の3年間)60年代を締めくくるにふさわしい充実した濃い1年だったように思います。ごく一部の若者が支持していた“ロック(的文化)”が世界レベルで巨大化してゆく前兆の時代。多くの若者が意識革命を経験し、音楽、映画、アート、演劇、ライフスタイルなどが大きく変わろうとした時代だったのです。あれから50年、カナダでは今年10月に当時のロック、反体制のシンボルだった大麻(マリファナ)が解禁になります。アメリカ全州、イギリス、フランスも近い将来に・・。時代はどんどん変わっていくのです。次号へ・・