気分はどうだい? Vol .9 そして、1970年・・

そして1970年、大阪万博が・・。

正式名称は日本万国博覧会(World Exposition , EXPO70)3月15日から9月13日までの183日間にわたって世界77ヵ国が参加、戦後、高度経済成長を成し遂げ経済大国となった象徴的なイベントとして、大阪府吹田市の千里丘陵で開催されます。空前絶後の6421万8770人の入場者数を記録。もうずいぶん昔の話なのに、この時の出来事はやたら鮮明に覚えています。20歳、成人、大人?になって一ヶ月が経ったそんな時期・・

前回のコラムでも書いたのですが当時やっていたバンドで、この丘陵にスタジオのあった毎日放送のラジオ番組「ヤングタウン」に出演していたこともあって、会場建設の進行状態を観ることが出来ました。太陽の塔、そしてその大屋根が付いたときもよく覚えています。始まってからは色々なパビリオンに出演させてもらったり、土産物屋でバイトをしていた友人のところに遊びに行ったり、とにかく会期中は結構行きました。

とりわけよく覚えているのはカナダ館の水上ステージ(写真下)。友人のバンド共々、何回か出演しました。ブッキングをしていたのは後に<アリス>などの事務所<ヤングジャパン>を設立する細川健氏。どのくらいの回数、出演したのか、ギャラはどうだったのかとかはあまり覚えていないのですが、館内2階ににあった大きな部屋でくつろいだり、友人のバンドのライブが向こうのTVで紹介されることになったり、行くたびにカナダの象徴である楓のピンバッチをもらいました。

そして、このカナダ館のステージには当時日本でも「風は激しく」などで知られていたカナダ出身のフォーク・デュオ<イアンとシルビア>も出演することになり連日観に行き、メンバーとも話をする機会を得ました。彼らは前年の69年にカントリー・ロックのバンド<グレイト・スペックルド・バード>を結成していてそのバンドでの来日だったのです。もちろん代表曲でもありニール・ヤングが尊敬しているイアン・タイソンの曲であり、あのラストワルツでも歌っていた「サムデイ・スーン」などもやってくれましたが、殆どがトッド・ラングレン・プロデュースの前年アンペックスからリリースしたファースト・アルバムからの楽曲でした。もちろんそのアルバムにはサインをしてもらいます。で、今から考えればこの時のメンバーが凄かったのです。ギターにエイモス・ギャレット。マリア・マルダー「真夜中のオアシス」のあの奇跡のギターソロ・・後のエイモスのインタビューによるとこの<グレイト・スペックルド・バード>が最初にカントリー・ロックをやったバンドで、 ザ・バーズがカントリー・ロックをやり始める前のことだったと言っています。ドラムにはN.D.スマート2世。元マウンテンの初代ドラマーとして前年69年のウッドストックに出演、後ほど出た映像には彼もレスリー・ウエスト、フェリックス・パパラルディと共に写っています。この時のサインにもマウンテンと書いてXをしています(笑)。で、スティールギターにバディー・ケイジ。彼はこのバンドの解散後すぐに<ニュー・ライダース・オブ・ザ・パープル・セイジ>に参加。グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアが兼任していたペダルスティールを以降担当することになります。ベースはジム・コレグローヴ。そしてイアンとシルビア・タイソン。何十年か後にこの時の音源を友人にもらうことになるのですが、それを聴くと素晴らしい演奏と共に当時の情景までがクリアーに思い出されました。彼らはあの映画として公開された列車に乗って全米を横断、ライブをする「フェスティバル・エキスプレス」にも参加、この来日メンバーでの演奏を観ることが出来ます。バンドは結局1枚のアルバムを残して解散。直後エイモスは<ハングリーチャック>に、さらにポール・バターフィールドの<ベターデイズ>に・・そしてドラムのN.D.スマート2世はグラムパーソンズのツアーバンド<フォールン・エンジェルス>にエミルー・ハリスと参加することになります。69年から70年にかけては米ロックの世界も大きく変化し色々なシンガー、グループが登場してくるそんな時期であり、巨大なビジネスとして発展していきます。このカナダ館のステージにはブラス・ロックの<ライトハウス>も出演したのですが、それは観ることが出来ませんでした。この<グレイト・スペックルド・バード>のライブ、全国から、後に音楽関係の仕事をする連中や、ミュージシャンも結構観に来ていたみたいです。

あとマイク真木&前田美波里さんが司会をやっていた<電気通信館>にも出演しました。現在のNTT 、日本電信電話公社のパビリオンです。でかい3面マルチスクリーンがあり、観客参加の4元生中継などがおこなわれ、未来の商品としてのテレビ電話やワイヤレス・テレホン、データ通信の端末機器なども展示されていました。現在、それらはすべて現実のものとなり商品化されています・・

そして8月23日、万博ホールで全国各地から選ばれたアマチュア・ミュージシャンだけのコンサートが開かれることになります。名古屋からは後にプロとしてデビューする<チェリッシュ>、京都からは「ばんばひろふみ」の<ジャッケルズ>、そして後に<アリス>が歌ってヒットする「今はもう誰も」のオリジナルで既に関西では名を知られていた<ウッディー・ウー>などが、そして北山修が作詞し、杉田二郎が作曲した楽曲「戦争を知らない子供たち」が初めて歌われることになります。バックを演奏していたのは友人達の<ナウ!>という大阪のグループ(東芝から瀬尾一三のアレンジでシングルを出しています)、そしてその模様がライブアルバム「戦争を知らない子供たち」として発売され、同年11月5日には、「全日本アマチュア・フォーク・シンガーズ」名義でシングルカットされます。さらに翌年2月には<ジローズ>がシングルとしてリリースし大ヒット。現在もこの時代、世代を代表する曲になっています。このコンサートには僕も参加しているのですが、ホール屋上で撮影したジャケット写真には他にもアマチュア時代の高山厳など懐かしい出演メンバーの顔を見ることが出来ます。

期間中、この万博ホールでは色々な外タレがコンサートを行います。よく覚えているのが<フィフス・ディメンション>この時代を象徴する曲「アクエリアス」が大ヒットした彼ら、内容は素晴らしいものだったのですが、ステージ上のPAはまだすごく貧弱で、シュアーのヴォーカル・アンプの100㍗が4発と、ステージ前にモニターが2発あっただけでした。(今回の写真、カナダ館出演時のグレイト・スペックルド・バード、右、僕らのグループを見てもわかるように、アンプは国産のエーストーン、そして小さなPAです。)この頃のホールでのコンサートにおいても依然としてホール付帯のマイクとスピーカーだけでやっていました。現在では当たり前のあのコンサートPAなどはなかったのです。しかしこの万博以降状況は徐々に変わり、翌71年になると来日したピンク・フロイドやグランド・ファンク・レイルロード、レッド・ツェッペリンなどのコンサートPAシステムが日本の音楽業界に大きな影響を与えることになります。(この時期、来日グループのPAはほとんどが海外からの持ち込みであり、それらが公演後日本サイドに売却されるケースが多かったのです)

つい先日も修復された太陽の塔の内部が一般公開され、大きく取り上げられた万博ですが、その太陽の塔、イサムノグチの噴水、エキスポタワー、大屋根、アメリカ館の月の石など70年万博に関しては僕自身、本当に色々な思い出があり、後に関わることになる仕事仲間もこの万博に関係していた者が多く話は尽きないのです。1970年代の幕開け、学生運動も下火になり、日本全体がさらに大きな祭りの中に突入していった時代。「人類の進歩と調和」・・まだ夢のある、いい時代だったのかもわかりません。