死ぬまでに読みたい音楽本101冊 第9回 「ニール・ヤング自伝 ニール・ヤング(著)奥田祐士(翻訳)」
ボブ・ディランどうだったでしょうか? 今のセットだと「シングス・ハブ・チェインジド」「ドント・シンク・ツワイス ,イッツ・オール・ライト」「ハイウェイ61」「シンプル・ツィスト・オブ・フェイト」、一曲おいて、フランク・シナトラのカヴァー曲というなかなかいいセットなんですが。「ブルーにこんがらがって」「廃墟の町」もやるし。
4月27日のイタリアを最後にディランとしては珍しい5、6、7月という時期に三ヶ月のライブを休んでいるので(レコーディングしてるような気もしますが。近年さすがにライブの本数も減ってきてますね。2016年は1月、2月、3月、5月と休んでます。今回みたいにオーストラリアが組めなかったのか、日本の前か後かはアジアのリゾートで休んだのか、どっちか分からないですが)、セットが変わっているかもしれませんが、でもまっ、多分一緒でしょう。
フェスなのに結構あっさりしたステージでびっくりされた方もいると思います。僕も十年前くらいにグラストンベリーで見て、びっくりしました。イメージが悪いので誰にも言わなかったのですが、グラストンベリーの時はヘッドライナーの時間に出てなかったので、ディランの人気も落ちたんだなと思っていたんですが、ディランの要望だったんだなとフジのスケジュールを見て気付きました。すごいおっさんですね。横綱になったらヘッドライナーとしての立場を気にするもんなんですが、そして、そうやってみんな仕事をなくしていくものなのに、ディランはそういうことを気にしないところがさすがです。やっぱ神様ですね。
もう一人の神様、ニール・ヤングはどうするんでしょうかね。自伝『ニール・ヤング自伝』で“66歳、もう昔みたいにロック出来ない”と書いていたので、ニール・ヤングも73歳ですよ。
みなさん、知っているかどうか、知らないですけど、ニール・ヤングとボブ・ディランってマネジャー一緒だって知ってました。エリック・ロバーツです。『ニール・ヤング自伝』の中にもエリオット・ロバーツのことが出てきます。ニール・ヤングとジョニ・ミッチェルを作ったというか、守った人です。ボブ・ディランの自伝でエリオット・ロバーツのことが出てきてびっくりしました。ニール・ヤングを作ったような人をボブ・ディランがマネジャーに起用するかと思ったのです。
ニール・ヤングは自伝の中でこう書いてます。
“60年代の終わりから70年代のはじめにかけて、わたしは長いあいだ、ボブ・ディランを聞かないようにしていた。そうしないと彼に取り込まれ、いきなりコピーしはじめてしまうんじゃないかと思ったからだ。過度の影響を避けるための、意図的な行為だった。わたしはある意味スポンジのような男で、なにかを気に入ると、そのなにかに影響されるあまり、ほとんどそのものになりきってしまうのだ”
その通り、僕はニール・ヤングはずっとビートルズになりたい人と思ってました。でも性格が悪いからバンドでうまくやれずに、一人でやってしまう人と思ってました。
“やがてはボブをコピーしてるんじゃない、単に影響を受けただけと割り切って、ハーモニカを吹けるようになった。ディランの歌詞は地図の国名のように、風景の一部になっている。彼のサウンドを真似ようとする連中もいるが、その手の音楽を聞かされたたびにげんなりする。わたしを真似ようとする連中もいて、現に父親などは「名前のない馬」をわたしの曲だと思っていた!(おい、ちょっと待ってくれ!あれはわたしだったのか?OK、大丈夫。もう自分を取りもどした。危なかったぜ!)”
これ最高のギャグでむちゃくちゃ笑いました。「名前のない馬」とはこれですね。
僕が子供の頃は日本ではこのアメリカというバンド名がキャッチーだったのか、ニール・ヤングよりもアメリカの方がよくラジオでかかってました。ガロとかアルフィーとかが3人組なのはこのアメリカの影響なんじゃないのと思ってしまいます。アメリカ、ヨーロッパだとピーター・ポール&マリーみたいな3人組って完全にダサいというイメージがあったと思います。男は黙ってドラムも入れて、4人とか5人でバンドというのがかっこいいスタイル、もしくは海外はライブで食えるので、バンド・スタイルにしないと(踊らせないと)営業がとれないということがあったと思いますが。ニール・ヤングのいたバッファロー・スプリングフィールドの初仕事はウィスキー・ア・ゴー・ゴーで一週間のブッキングですよ。初ライブから一週間押さえられるんですよ。ストリップか!、ほとんどそれと同じ営業形態なんでしょうね。バンドの名前じゃなく、ある程度遊びに来る客がいる。人間ジュークボックスをやらないといけないけど、それに勝ったバンドは鍛えられ、生き残っていく。日本もゴーゴー喫茶やディスコがあった時代はそうだったと思うのですが、そんな時代また来ないのですかね。来ないよ。
アメリカ、あかんすよね。しかもこの曲、全米1位だったニール・ヤングの「ハート・オブ・ゴールド」を蹴落として、全米1位になったんすよ。今だったら絶対大炎上して、ヒットしなかったと思うのですが、あの頃はメディアの伝達も遅かったんでしょね。今は誰もアメリカという3人組のこと話題にもしないですよね。すごい大層な名前なのに。
性格が悪いからバンドでうまくやれず、と書いてしまいましたが、ニール・ヤングも大人になりましたね。
というか、エリック・ロバーツが「ディランからマネジャーの話きてるんだけど、やっていいかな?」という相談に、よく「いいよ」と答えたと思いまよ。神様からの提案、断れないですか。両方神様ですけどね。ボブ・ディランの自伝も面白いですが、このニール・ヤングの自伝も最高ですよ。
初めてクレイジー・ホースとやった時の話とか、涙が出るくらい感動します。
書いていいんでしょうか?
“ベッドの近くのケースには、ギターが入っていたーわたしが関係を持った女性たちの大半に言わせると、ちょっと近すぎる位置にあったケースだ。わたしはギターを取り出して弾きはじめた。Eの弦をどっちもDに下げる、Dモーダルという好みのチューニングに合わせたままになっていた。そうするとちょっとシタールに似た、だが実際には異なるドローン音を出すことが出来る。しばらく弾いているうちに、「シナモン・ガール」ができた。歌詞は最終的なヴァージョンとちがっていたが、コード進行はその場であっという間に出来た”
この後、「ダウン・バイ・ザ・リバー」「カウ・ガール・イン・ザ・サンド」が出来ていくんですけど、そこの描写は読んでみてください。たった半日でこれら名曲3曲が出来たって過ごすぎます。
後、自伝には「シナモン・ガール」が誰かあっさり答えてくれてます。小話として、よく出来たストーリーですが、ボブ・ディランみたいにもったいぶらないところがいいですね。
しかし、「シナモン・ガール」「ダウン・バイ・ザ・リバー」「カウ・ガール・イン・ザ・サンド」は、最高のロックンロールですよね。いまだに僕はこれ聴いたら天国に行けてしまいます。
「フゥ〜」ていう声を聴くといまだに泣いてしまいます。