<気分はどうだい?> Vol .10 ・・1971年、箱根、「原子心母」・・ text : Isao Matsui 

この1970年シリーズ?も一応今回で終えようと思っているのですが、69年、70年、そして71年・・最も自由であらゆるものから影響を受けた時期、まだ、いわゆる社会人でもなく、就職のことなど全く考えなくていい時期・・かといってバンド活動でプロになろうとは全く思ってはいませんでした。一緒にバンドをやっていたべーやんこと堀内孝雄(彼がアリスやソロとしていまだに活動してるから名前を書けるわけなのです。プロとしてやっていけなかった連中のほうが多かったわけですから)はもうこの頃プロでやっていく決心をしていたみたいです。(正解でしたが)で、今回は最も記憶に残っている71年8月7日の箱根アフロディーテ・コンサートのことを・・・

すごい見出し。ある週刊誌に載った谷ステージでの観客の中に(前列の白トレーナー)

右上:会場での写真、堀内孝雄と。

 

<箱根アフロディーテ>はニッポン放送の主催で71年の8月6日と7日に開催されます。僕がやっていたグループはサブステージに出演ということで参加することになります。どのような経緯でそうなったのかは未だにわからないのですが、とりあえず箱根に行ったのです。(結局は颱風の影響で出演は出来ずでしたがコンサート見ることは出来ました。)場所は箱根 芦ノ湖にあった 当時は「成蹊学園乗風台」と呼ばれていたところで、芦ノ湖東側の湖畔で、山のホテルと箱根園の間に位置してました。71年の海外ロック・アーティスト達の来日ラッシュに伴う日本でのロック・ブーム。(2月ブラッド・スウェット&ティアーズ、4月フリー、6月シカゴ、7月グランド・ファンク・レイルロード、9月レッド・ツェッペリン、10月エルトン・ジョン。72年はさらに多くのバンドが来日します。)これに対応する形でニッポン放送が主催した本格的な野外コンサートでした。野外ということでは第 1回全日本フォーク・ジャンボリーや、翌70年の第2回が先駆けなのですが、海外からロック・アーティストを呼んでの大規模な野外コンサートは、これが最初ではなかったのではと思います。山の上に大きなメインステージがあり(客から見上げる位置)そして谷底にあるサブ・ステージにはモップス 、ハプニングス4+1、成毛滋 & つのだひろのユニットに高中正義がベースとして参加(フライド・エッグというバンド名はまだなかった頃)”ジャズ系では菊池雅章クィンテット、佐藤充彦トリオ、そして、メイン・ステージには渡辺貞夫セクステット、かぐや姫、長谷川きよし、トワ・エ・モア、赤い鳥、本田路津子、ダーク・ダックスなどが(パンフに載っていた出演者。僕らはサブステージのロック系ばかりを観ていた記憶が)全体の雰囲気ははロック・コンサートの雰囲気とは違いました。メイン・ステージ後半の出演順は1910フルーツガム・カンパニー、ナベサダ、バフィ・セント・マリー 、そして最後にピンク・フロイドでした。長い長~いサウンド・チェックの後、あのSEが入り「原子心母」が始まり「グリーン・イズ・ザ・カラー~ユージン斧に気をつけろ」「エコーズ」「シンバライン」「神秘」の6曲を演奏します。「エコーズ」は当時未発売で新曲でした(「エコーズ」そして9日の大阪フェスでやった「吹けよ風、呼べよ嵐」が収録されてるアルバム『おせっかい』(Meddle)は1971年11月11日のリリース)森に囲まれ背後には芦ノ湖、霧が流れる大自然の中、霧がステージへ寄ってくる場面も見られるなどの自然の舞台効果、十分なライティング機材も使えず、この箱根の自然が演出した予期せぬ舞台効果も相まって、後々に語り継がれることになる伝説のコンサートになるのです。後日、当日箱根からラジオの生放送があったという話や早朝リハを行ったというお話、そしてこの時の録音がニッポン放送の倉庫に(未だ出てきませんが)あるなど未だにいろいろな情報が出てくるのです。あと、PAのことなのですが前回のコラムにも書いたのですがこの時もピンク・フロイド が “WEM” の PAを日本に持ち込み。日本のヒビノ音響がサポートしたみたいです。

<伝説の「箱根アフロディーテ」でピンク・フロイドの音響を手掛ける=ヒビノの社史より・・ http://www.hibino.co.jp/50th/history/foundation/chronicle/1-8.html

後の記録写真を見るとミキシング・コンソールはステージ上の右端、リック・ライトのキーボードの横にあったようです。さらに凄いことにこの来日時のピンク・フロイドをコンサート・クルーが撮った8ミリ映像があったのです。それには来日時の飛行機から羽田空港の到着ロビー、貴重なステージでの演奏シーン、会場からの箱根芦ノ湖、会場の様子、オフステージ、記者会見、そして9日の大阪へ向う新幹線での様子などがインサートされており、唯一無二の大変貴重な映像となっています。この映像はテレビ埼玉の音楽番組「サウンドスーパーシティ」で放送され(映像の音源「原子心母」は1970年のベルリン録音のもの)この映像はその後、長い間(当時家庭用で録画できる機材がなかったため)ブートでしか観ることができなかったのですが、2016年11月11日に発売された27枚組限定ボックス『The Early Years 1965-1972』にこの映像が収録されオフィシャル・リリースされました。そして箱根のあと連中は大阪に移動。9日、唯一のホールコンサートを大阪フェスティバルホールで行います。サラウンドPA、照明、演奏、圧倒的に素晴らしい内容でした。このコンサートに関してはまた機会があれば・・

「全日本アマチュアフォークコンサート」(1971 / 日本ビクター)ジャケットに懐かしい連中が・・

で、僕たちといえば、翌日、結局全国から来ていたアマチュアのグループをまとめてビクターのスタジオでREすることになります。<シモンズ>やばんばひろふみの<ジャッケルズ><高山ひろし(高山厳)>センチメンタルシティロマンスの中野督夫がいた<赤ずきん>などがレコーディング。そして、この録音がビクターから「全日本アマチュアフォークコンサート」というタイトルで発売されます。前回の万博の実況録音でもそうなのですが、この手の音楽に関してはまだ<アマチュア>ということが重要であり、多分この70~71年が今のJ-popにつながる、アマチュアがプロになっていく(職業としてバンド活動をするということ)ターニングポイントになった年なのかもわかりません。学生時代にバンドをやっていた大半の連中(団塊の世代)は卒業を機にいわゆる一般企業に就職した時代。歌謡曲や演歌においては芸能界的なものは確立していたものの、やれフォークやロックだといったジャンルの学生あがりのグループはレコード会社もそれらを受け入れる音楽事務所もなかったのですが、この時期これらバンドの動きと連動するかのように新しい今までの芸能チックな事務所とは一線を画すマネージメントの事務所やそれらのコンサートを主催するイベンターもこの時期に全国に設立されるようになります。そして、欧米の音楽と呼応するように日本の音楽全体が大きく変わっていきます。箱根から50年近く経ち、自分自身も40年近く音楽の仕事をやってきたのですが、これから日本の音楽がどこへ行こうとしているのか凄く興味のあるところです。

*ピンク・フロイド、箱根(1971.8.6~7)、大阪(1971.8.9)も何種類かのブートがでています。資料として是非(客が静かなので、クリアーな音源が多いです。ただし「エコーズ」など長い曲ではテープ交換ためフェードアウト・インになってる場合が・・)

< Pink Floyd “Atom Heart Mother Tour”, Japan’71>