気分はどうだい?> Vol .11 「そこにはROCKがありました・・」

この連載コラムVol .4で以前書いたエッセイを再掲したのですが、それらを今読むと書いていたその時の感情がまざまざ、いきいきとして面白いのです。本人も色んな意味でまだ若いし(笑)。で、今回は2001年の11月号の雑誌「大阪人」の原稿を再掲することに。17年前に書いたエッセイ。(この文章には出てこないけれど、人が、そしていろんなものが、いっぱいなくなっている)この間に日本も、大阪の街も随分と変化しました。ここに出てくるこの店も今は無く、当時の商店街の面影も今は全くありません。掲載写真の日付は2001年の4月13日。この年にはボブ・ディラン6度目の来日公演があり、3月7日、大阪厚生年金会館に行ったのをよく覚えています。当時はまだ、大阪や神戸にあった町のレコード店も健在でしたが、パッケージの中心は完全にCDの時代へ移行し、輸入CDなども大手のCDショップが席巻するようになり、姿を消す店も増えていきました。東京ディズニーシーやユニバーサル・スタジオ・ジャパンなどが開園したのもこの年のことでした。そしてアメリカにおける911のテロ、しだいに世界は混沌とした異様な時代に突入していきます。何かが、世界の価値観というかバランスが崩れていこうとする年でした・・2001年。

 

■ <LPコーナー>は2003年3月に閉店。

 

「その店は、阪急東通りの東の端。アーケードが切れるちょっと手前にある。名前を<LPコーナー>といい、この場所で営業を始めて今年で35年になる。外から見ると、普通の町によくあるただのレコード店である。ところが、ここはそんなレコード店ではなかったのだ。何故かというと、僕が10年近く毎週のように通いつめた、つまりレコードに大量のお金を注ぎ込んだ店なのだ。この店に初めて行ったのは、1967年、17歳の頃だった。大阪の郊外に住んでいた僕は、レコードといえば、2駅程先にある町のレコード店でごく普通のごとく、当たり前の事として日本発売の洋楽レコードを買っていた。当時、僕の愛読雑誌は「少年マガジン」と「平凡パンチ」とそして「ミュージック・ライフ」だった。ある日「ミュージック・ライフ」の広告欄に<LPコーナー>を見つける。そしてそこに<輸入盤>という文字を見つけたのである。<ジミ・ヘンドリクス>の<アメリカ盤>のレコード・ジャケットが小さく出ていた。<直輸入盤!>である。発売一週間位でそのレコードが大阪で買えるのだ。今でこそタワーレコードやHMVやヴァージン・メガストアで当たり前だが、当時は何か凄くドキドキする言葉だった。日本、しかも大阪に入ってくるロックの情報なんか限られたものだった。僕は早速場所を調べ、電話をかけ、梅田に行き、そこから阪急東通りをひたすら歩いた。今と変わらず、客引きのおばちゃんが立っており、人だらけで、喧騒渦巻く場所だった。そこに<LPコーナー>はあった。入り口はごく普通だが、店の中に入るとすべての棚にJAZZとロックの輸入盤が溢れていた。感動した。多分、対応に出てくれたのは、ここから随分長い間つき合うことになる大谷満氏だった。そして、<ザ・ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス>の<アー・ユー・エクスペリエンスト>を買うことになる。初めての<直輸入盤>である。それを家に持って帰ってターン・テーブルに置いた時の感動は今でもよく覚えている。ビニールでパックされたジャケットを開ける時の何ともいえない興奮、その中の空気までがアメリカだという思い込み。これが<LPコーナー>との出会いで、あっという間にレコードは1000枚近くになった。この店は元々、先代の社長がジャズが好きでレコードを輸入したのが始まりで、ファミリー全員が店に出ていた。アット・ホームで、レコードへの愛情が強く感じられた。そして兄弟で一番下の満氏が僕の担当というか、専属になったわけである。しばらくして分かった事だが、現在もプロとして活躍している、当時大阪にいたかなりのミュージシャン達がやはり、ここと、心斎橋にあった<坂根楽器>に金を注ぎ込んでいた。

 

■雑誌「大阪人」は1947年に創刊、2012年4月2日発行の5月号増刊をもって休刊。

 

<バーズ><ラヴィン・スプーンフル><グレイトフル・デッド><バッファロー・スプリングフィールド><モビー・グレイプ><ジェファーソン・エアプレイン><ドアーズ>等のアメリカ。<ヤードバーズ>から<クリーム><レッド・ツェッペリン><ジェスロ・タル><ピンク・フロイド>等のイギリス。とにかく買った。この頃、欧米のロックはどんどん変化し、どのグループも世界的な名声を得る前であり、商業的に巨大化する寸前だった。60年代後半は、音楽にも独特の熱気と自由があった。<モンタレー・ポップ・フェスティバル><ウッドストック>の映画が公開され、ロックがどんどん加速していった。アメリカン・ニューシネマもそれに、拍車をかけた。「卒業」「イージー・ライダー」「真夜中のカウボーイ」「明日に向って撃て!」「いちご白書」。そんな中、僕はレコードを買いまくった。最も入れ込んでいた時期。いろいろな音を受け入れ、いろいろな物事を吸収したかった時期。70年になり<ジミヘン><ジャニス>がいなくなり、よど号事件があり、三島由紀夫が死に、<ジョン・レノン>がソロ・アルバムを出した。その年、僕とはいえば、<クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング>の「デジャ・ヴ」そして<ニール・ヤング>の「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」を聞きまくっていた。今年のある日、久しぶりに店によって満氏に会った。相変わらずの口調、笑顔。今でも店の中は昔のままで、音を聞かせてくれたターン・テーブルの位置も変わっていない。ハード・ロックがかかっていた。店を出ると、アーケードのスピーカーから、突然ギター一本のディランの唄が聞こえてきた。僕は煙草に火をつけ、聞き終わってから歩き始めた。」

 

<風に吹かれて> ③

雑誌「大阪人」2001年11月号より

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神戸ラジオ関西でディレクターをやっているアナログ・レコードに特化した2時間の生番組もこの10月から5年目に突入、不思議な大きな流れを感じます。もし、この店がなかったら、僕は今に続く音楽の仕事はやっていなかったと思うのです。そこにはROCK がありました。雑誌では取り上げられない、ラジオではかからない、日本での発売のないレコード達がいっぱいありました。それら大半がヒットとは無縁でした。そして消えていきました。