特殊音楽の世界16「オーガナイザーとネットワーク」

今回は特殊音楽のオーガナイザーや地方ネットワークの成り立ちや歴史について書いてみます。

公共支援に基づかない特殊な音楽のインディーなオーガナイズは70年代のフリー・ジャズを中心に始まったと思います。

これは、まず中央に招聘も兼ねたメインのオーガナイザーがいて、その企画を地方の主催者にギャラ経費込みで「売る」ということが一般的でした。

あるミュージシャンの熱狂的なファンがその地方の主催者になる場合が多かったと思います。ですから採算取れなくて少々の借金を背負ってもやりたい、という人が主催していた場合がほとんどでした。

中央のオーガナイザーとのつながりだけでやっていたのでネットワークもその繋がりだけで形成されている、閉塞的とも言えるネットワークだったんです。ある中央のオーガナイザーとのコネクションがない音楽はそのネットワークには決してひっかからないからです。

どんなに頑張っても地方でほとんど知られていないような来日フリー・ジャズの公演は赤字が出ます。一回やれば数十万の赤字を背負うわけです。それで皆そのうち潰れていくんですね。

81年くらいからそういうネットワークにいた自分も恥ずかしながらそうでしたね。潰れなかったのはフリー・ジャズ以外の音楽にも関心があったからです。

80年代半ばには非常階段等のノイズやハード・コア勢は自分たちで地道なネットワークを作っている真っ最中でした。

それこそネット環境もないに等しい頃ですから郵便やFAXで地道に作っていったんです。それはそれまでのフリー・ジャズ界のネットワークよりも明らかに開かれたものでした。どうしてそう言えるかって?それはその後のそれぞれの音楽の充実度や発展具合を見れば明らかでしょう。

そういう状況を大きく変えたのはジョン・ゾーンが日本に住んだことでした。

90年代に日本に住みだしたジョンが最初に言ったのはギャラの平準化でした。

今では信じられませんが、それまでは海外からくるミュージシャンは偉い、なのでギャラが日本人よりも高くても当たり前、しかも現地でもらうギャラよりの日本でのギャラは高額でもOK、ということが常識でした。

それをジョンは「なんで〜、おんなじところに出て一緒にプレイするから同じギャラでしょ〜。」場合によってはチャージバックでもOKだったしギャラも「向こうでもらっているのと同じくらい」とそれまでの常識からすれば格安でした。

ジョンの日本滞在が及ぼした影響はそんな金銭的なシステムのことだけではありません。ブルース・バンドから山塚アイ(当時)まで自分が興味のあるところに積極的に参加する姿勢は、それまでのフリー・ジャズの大物達の硬直した姿勢とは全く違っていました。

いや違った、硬直していたのはミュージシャンじゃなくてオーガナイザーの姿勢の方だったんです。
ジョンの当時の精力的、と言うよりも暴走に近い垣根を超えた活動についていけない硬直した地方オーガナイザーはその時に淘汰されたと言ってもいいかもしれません。

ジョンが日本に滞在していた頃の動画です。

ついでに、ジョンのネイキッド・シティに山塚アイが参加していた時の動画。

もう一人、忘れてはいけないのが故トム・コラです。トムは日本には住んだことがありませんが83年にフレッド・フリスとのスケルトン・クルーで来日して以来、日本での活動を重要視していました。

スケルトン・クルーの動画です。二人だけでヴァイオリン、2台のドラム、ベース、チェロ、トリガーにつないだサンプル音源を同時に演奏しています。

88年、89年にはじゃがたら/コンポステラの故篠田昌已やシカラムータの大熊ワタル達と共にピヂン・コンボ(F.M.N.からリリースしてます)を結成。セッションではなく一つのバンドとして活動していました。

そのピヂン・コンボのライヴです。

トムは「山谷—やられたらやりかえせ」ニューヨーク上映実行委委員でもありました。

この映画についてはここで説明するのは字数が足らなすぎます。興味にある方は毎年定期的に上映回が開催されているので映画を一度みてください。上映実のサイトです。http://www.anerkhot.net/yama_jyoeii/

また私のこの映画に関するブログもあります。内容がかなりハードですがもしよければ読んでみてください。
http://fmn.main.jp/wp/?p=2831

トムは日本の上映実行委が(またライヴ・ツアーのブッキングも)小さい飲み屋や喫茶店に集う人たちの地道なつながりがネットワークを形成していることに驚き、コーヒーショップ・ネットワークと名付けました。

もちろんそんなネットワークは前述したように実は脆弱で、ここの経済的事情や気持ちの問題ですぐに雲散霧消の状態になってしまい、また新たにネットワークを作ると言う繰り返しが常でした。

しかしながら日本人とは違う視点で市民レベルでのネットワーク、しかも地方と地方のネットワークのことを再考させてくれたとても重要な人物でした。

中央と地方というようなある種の上意下達のような関係ではなく、地方は地方なりのオーガナイズのやり方を模索することが大切だということを気づかせてくれたのだと思います。

90年代にはいるとまた状況が違ってきます。オーガナイザーとミュージシャンの関係も変わってきます。機材の問題やDJ/クラブ・カルチャーにも関わってきます。また様々な音楽史ではほぼ無視されていますが、今の関西の音楽にも影響を与え続けているF.B.I.(フェスティバル・ビヨンド・イノセンス)の事にも触れなければいけません。これについては字数がたらないのでまた次回以降に。

ここでお知らせです。4月13日(土)に空間現代の運営するスペース「外」で松村正人さんの「前衛音楽入門」の刊行記念イベントでトークが行われます。松村さんのトークのお相手として私も出演します。空間現代のライヴもあります。

詳しくは外のサイトをご参照ください。

http://soto-kyoto.jp/event/190413/

 

 

F.M.N.石橋

:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。

(文中敬称略)