気分はどうだい? Vol .18 『 1985年、渋谷 』
- 2019.05.01
- COLUMN FROM VISITOR
- 1985, 令和, 平成
1985年、仕事の場を東京にシフトした。
ある社会学者が書いた「1985年」という新書の帯には
「プラザ合意、ゴルバチョフ登場、阪神優勝、日航機墜落、金妻、スーパーマリオ・・」
この年、日本も世界も大きく姿を変えた———。とあります。
友人の紹介で家は渋谷の桜丘町にあるマンション。と言うよりは3階建てのアパートのようなところ、渋谷の南口からは陸橋を超えて向こう側に渡り坂道を歩いて10分くらい。で、そこは古くから渋谷で陶器の店をやっていた会社の元社員寮。友人の紹介だったこともあり家賃も安かったのです。一階はその会社の事務所になっていて皆気さくないい人たちばかりでした。仕事ですぐ近くにあった<ロッキンオン>に行くと、編集部が入っているバカでかいビル「渋谷インフォスタワー」から住んでいた2階の部屋の窓がよく見えました。2000年に入って久しぶりに昔マネージメントをしていたバンドの再稼働ライブに行った時、今も編集部にいるI女史が「まだありますね、あのアパート」と言ってくれたのを思い出します。暫くはあったみたいです2008年頃までは。

そしてこの桜丘町の大部分が大規模再開発で消滅するのです。最近のニュース写真などを見ると大きなビルも含め、かなり解体作業が進んでいます。メインのいわゆる渋谷のど真ん中はもうすでに大きく様変わりをしているのは知っているのですが、国道246を渡ったこの町はずっと開発されずガラパゴス化していて、昭和の雰囲気がいたるところに残っていたのです。
住んでいたアパートも今ではでかいマンションになっていて、このコラムを書くにあたってグーグルマップを観て調べても桜丘町一体が変わりすぎていて全く分かりませんでした。目当てにするビルや店そのものがないから・・唯一その<ロッキンオン>が入っているビル周辺だけに少し面影が。
東京に移るきっかけとなった大阪出身のLというバンドの事務所が青山に、その後自分で起こした会社の事務所が渋谷1丁目のビラ・モデルナというマンションに。で、その後いたA氏の事務所が渋谷エッグマンのすぐ近く、最後にいたプロデュース集団の会社が赤坂の高橋是清翁記念公園の横、日本コロムビア本社のすぐ近く・・すべて渋谷から歩いて通えるところでした。
もちろん仕事に関しては色々なことがあったのですが、それとは別に住んでいたころの普段の生活のことがいろいろと思い出されるのです。

喫茶マックスロード、南国酒家、ヤマハエピキュラス、ライブハウス屋根裏、ライブイン、エッグマン、渋公、NHK、代々木ホコ天、ハンズ周辺の中古レコード店、古着屋、タワーレコードの最初の店、数知れずの飲み屋、ラーメン「喜楽」、BYG、道頓堀劇場、のんべい横丁、宮下公園、ファイヤー通り、台湾料理のタイナンターミー 、まだあったリキパレス、井の頭線ガード下、棟方志功の絵があった洋食屋、ガード下のとんかつ屋、東急文化会館、五島プラネタリウム・・等々
書き出すときりがないし、記憶も段々と曖昧になってきているのですが。でもこの1985年と言うのが今から思えば必然で、すごいタイミングだったのかもしれません。団塊の世代が30代後半を迎え、バリバリに仕事していたバブルがはじける前の時代。IT前、音楽業界ではアナログレコードがCDにとってかわられる時期。あの糸井重里氏のコピー「おいしい生活」が色濃く残るそんなまだ日本全体が何かに向かって大きく変動しようとしていた時期でした。昭和の終わりの約5年、そして平成が始まっての5年・・東京にいてそれらを体験できたことは大きなことだったのかも分かりません。
そして1995年、インターネット元年の年、あの震災の後大阪に戻ることに。
10年間住んでいた渋谷の街の記憶はもう頭の中だけになってしまいました。
当時の渋谷は東京のど真ん中にもかかわらず住みやすく友人も多く大好きな街でした。
時代は平成から令和に・・「過去」がドンドン消えていきます、人も街も記憶も。
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渋谷・桜丘町大規模再開発「最期」の姿 (渋谷経済新聞)