気分はどうだい? Vol .19 「ツアーの始まり」

学校を卒業後、ドロップアウトもすることなく読売新聞社傘下の広告代理店へ。そして1980年12月8日、あるプレゼンの仕事を終え帰社するとその会社が入っていた新聞社のビルの入口に「ジョンレノン射殺される!」の号外が貼ってあった。翌日辞表を提出して結局音楽の仕事に・・ここが始まりでした。

友人が岡山で70年代に設立したイベンター(コンサート・プロモーター)<夢番地>という会社の大阪を任されるように。設立当初はまだフォークっぽいアマチュアーの時代の雰囲気を残すバンドやシンガー達が主流でまだまだメジャーで巨大な当時のレコード会社と契約しさらにレコードをリリースしている連中は少なかったのです。そんな連中のコンサートを自分たちで主催し始めたのが<イベンター>と呼ばれたこれらの団体でした。同じような会社がほぼ同時期全国各地に設立されそれぞれのエリアでコンサートを主催するようになります。

<夢番地>大阪は当初表向きとしては「中島みゆき」のファンクラブとして発足。岡山に本社のあった「夢番地」のメインのエリアは中国地方と四国だったのですが大阪に進出する足がかりとしてファンクラブというかたちで事務所を立ち上げたわけです。つながりの強かった<アミューズ>や<ジャパン・レコード>も同事務所内にありました。大阪にはすでに大手の<キョードー大阪>そして外タレ中心の<ウドー音楽事務所>や<協和企画><民音><ソーゴー大阪>があり、当事京都で活動していた<サウンドクリエーター>も大阪に進出して来ることになります。コンサートのエリアは関西2府4県、そして姫路をくわえた兵庫地区で、ライブハウスではなくホール主体のコンサート主催を業務としていました。

 

82年浜田省吾ファイナル、82年アルフィーのコンサート音源

 

70年代初期、音楽業界は依然、演歌、歌謡曲の時代で大手のプロダクションが力を持ちこういった学生あがりのフォーク系のアーティストにはメジャーなマスコミ(新聞、ラジオ、もちろんTVなど)はほとんど振り向きもしなかったわけで、活動の場はコンサートだったのです。(ライブハウスと呼べるものは全国に少数)しかし東京に進出し活動しメジャーからレコード出すにはこれらプロダクションに所属することも必要だったのです。夢番地がやっていた「浜田省吾」も最初はホリプロだったし「アルフィー」も田辺エージェンシー、芸能プロの雰囲気がただよう事務所にコンサートの交渉に行ったことを思い出します。そのためこの時期、芸能界系とは一線をきす多くの音楽プロダクションが設立されることになります。

70年代中頃から全国のイベンターがそれぞれのエリアで自分たちが共鳴するアーティスト「吉田拓郎」「中島みゆき」などを筆頭に「アリス」などのコンサートを小さな会場からやり始め(1974年アリスは年間304本のコンサート)、それが全国的に大きなパワーになり後のニューミュージックのブームにつながることになります。アリスの事務所<ヤングジャパン>にしても大阪から東京に進出し、今までの芸能界にはない展開をやろう(やらざるをえない)としていた時期だったのです。

それぞれのエリアでやっていたイベンター自主によるコンサート、その主催していたアーティスト達が当事の音楽シーン(観客動員)で支持を得て目立つようになり、音楽雑誌「GB」「新譜ジャーナル」などがメインで取り上げるようになり、それまでの日本の音楽シーンとは違う展開になっていくのです。今とは違いそれぞれのイベンターが独自のチケットを印刷し、ナンバーリングをして実券をプレイガイドに持っていき発売後は毎日その残券(売れ枚数)のチェックをするのです。もちろんチラシも、ものによってはポスターも作り街中に貼ったりもしました(現在では無理ですが)現在のようなレコード会社との宣伝連動などいっさいない時期でした。

 

83年アルフィー大阪城野音2日間。TBS <ベストテン>で中継され一気にブレイク・・

 多くのアーティストがツアーをするようになると全国のイベンターのネットワークも出来、特定のアーティストのツアーは東京のイベンターが中心になり所属事務所との交渉、計画に当たるようになりました。東京にあった<メロディーハウス>(後のフリップサイド)がその中心で、北海道は札幌の<WES>、東北は仙台の<ミュージック・ギルド>(ここから別れたGIP)、北陸、新潟、長野エリアの金沢に本社のあった<FOB>、東海地区は名古屋の<サンデーフォーク>、中国、四国地方は<夢番地>、九州は博多の<くすミュージック>と<BEA>との連動により各アーティストがスムーズな全国ツアーを実施(トランポや制作経費の分担)できるようになり、イベンターも企業として成立出来るようになったのです。(いくつかの会社は無くなり新たなイベンターが現在も各エリアで活動しています)

 80年代に入るとニューミュージックのブームが定着し、ラジオやTV、特に1978年から始まったTBS・TV <ザ・ベストテン>などのチャートを独占、当初からやっていたアーティストのコンサートにおける動員もさらに大きくなり、単独の野外コンサートが出来るまでに成長します。その後J-ROCKが市民権を得、CDの時代へ。プロダクション、レコード会社、そしてイベンターにおいてもコンサートのありかた、そのビジネスが大きく変わっていった時代だったのです。現在におけるコンサートのノウハウ、システムなどはこの頃にほぼ出来上がっていたように思います。日本という市場、土壌の中での音楽ビジネスの変遷・・欧米のシーンと邦楽の大きな差を感じながら・・

次回はこの続き、ライブハウス黎明期のことなどを・・