気分はどうだい? Vol .20 「追憶のライブハウス、京都」

ライブハウス黎明期の話を色々と雑談、曖昧になっていた記憶を掘り起こすことに。

現スマッシュウエストの南部裕一氏、そして元東芝EMIの洋楽宣伝(1972年入社)をやっていた瀬古英雄氏に当事の話を聞いてみた。70年当事、南部氏が活動していた京都を中心に・・

70年代の初期、関西においてはまだ現在ライブハウスと呼ばれるような場所はなく(ディスコなどの箱バンぽい出演)ロック喫茶みたいな店があったのですが、まだまだイベントが主体で、春一番(1971年~)やヤマハが主催していた8.8ロックデイ(1973~)、京都のMOJO WESTが円山音楽堂で主催していた(「フラワートラヴェリンバンド」「村八分」や「PYG」「麻生レミ」などが出演)イベント(1971~)などに多くのバンドが出ていました。特にロックバンドの形態を取るバンドはPAも必要だったし、フォークシンガーのようにどこでもライブが出来る状況ではなかったのです。まして、機材を積みツアーを組んで全国のライブハウスを回るような状況になるには80年代にはいってからで、さらに各地にそこそこのライブハウスが出来、さらに前回書いたようにレコード会社が邦楽のロックに興味を示す時期になってやっと単独でツアーを展開できるようになります。

2003年に作った<関西ミュージシャン相関図> @ラジオ関西レコード室

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松居―京都、僕は学生の頃、71~2年頃かな、知り合いのバンドが出ていたりしたので客として円山野外音楽堂のイベント等に何回か行きました。大阪の<春一番>とは出ているバンドも内容も全く違うイベントでしたね。後期のグループサウンズがいわゆる邦楽ロックと言われるようになったグループなどで、デビュー前のガロとかを観ましたね。まだ京都に加藤(和彦)さんもいたしね。南部さんが地元(京都)のラブハウスに行き始めたのはいつ頃?

南部―初めて<拾得>に行ったのは78年かな・・で、<磔磔>にも、もともと水島さんがここを持っていたお医者さんから頼まれて始めたと思うんやけど、74年頃かな、・・当事僕はミニコミを作っていて拾得や磔磔にアーティストのインタビューを取りに行ってたんです。で、その後79年に「B’52」のライブをやらせてもらった。当事招聘をやっていた麻田浩氏のトムズキャビンの仕事でした。京都はそれまでに元憂歌団のマネージャーの奥村ヒデマロさん達がユニオン・シャッフルという事務所で多くのブルースのバンドのイベントを拾得や磔磔でやっていて。で、僕はいわゆる京都のニューウェーブなどインディーズと呼ばれていたグループをメインにいろいろやり始めたんです。(*南部氏は団塊の世代から6年ほど後の世代、70年初期の関西フォーク、ブルース、ソウル・ブームの後)

松居― 瀬古さんが初めてライブハウスに行ったのは?

瀬古―僕は東芝72年の入社なんですが、当時は大阪に会社があって、しかも洋楽の宣伝やったからあまり邦楽グループが出てるライブハウスには行かなったですね。ホールのコンサートを観に行くことが多かったかな、最初に拾得に行ったのは76年9月の<エリック・アンダーソン>。でも厨房の食器を洗う音がライブ中も聞こえていてあまりいい印象がなくて、ライブハウスはあまり行かなかったですね。大阪は外タレはほとんどがホールでやっていたから・・

松居― 南部さんは京大西部講堂でも色々やってたよね。

南部―そう西部講堂は79年、最初は和田哲郎(琴桃川凛)の「連続射殺魔」と東京からの「リザード」をやりました。この年7月の初来日もトーキング・ヘッズも西部講堂であって、観に行きましたね。で、当時は東京ロッカーズと呼ばれた連中が結構関西に来ていましたね。で、こちらは関西ノーウエーブという名称をつけて同志社大学の教室で「アーント・サリー」「SS」「INU」「アルコール45%」「連続射殺魔」とかをやりました。

松居― <サーカス&サーカス>とかは

南部―サーカス&サーカス、後に<CBGB>という名前になり今はもうないけど。79年頃、やはりここでは町田町蔵の「INU」や「アーントサリー」「P-MODEL」とかを見に行った。80年になってからはクラブモダンというディスコで現在FM COCOLOにいる古賀と知り合った。僕らはポリスを西部講堂でやったことが原因で西部から追放されたんだけど、「DEVO」を京都教育文化センター、「THE JAM」、「ラモーンズ」を京都会館でやってた。彼が大阪の寺田町にあった<スタジオあひる>の杮落としでで「ラモーンズ」をやりたいって言って来て京都の次の日にやった。

松居―昔イベンターの頃、80年代、中島みゆきさんのコンサートを京都会館でやったのですが、終演後みゆきさんが<サーカス&サーカス>に行きたいと言い出して遅い時間に行ったことがありますね。なんか思うとこがあったのかわからないのですが・・ベランダみたいな2階席があってね。まーどこのライブハウスも狭かったけど。あとは<ビッグバン>ですかね

南部―ビッグバンは>は時代的には少しあとですね。河原町三条のボックスビルの4階。83年のこけら落としで「スージー・アンド・ザ・バンシーズ」を僕たちでやりました。

松居―ギターはロバート・スミス?

瀬古―そうですね。大阪は厚生年金会館でした。そういえばキュアー、今年のフジロックのホワイトステージ3日目のヘッドライナーですね。キュアーだけ観に行こうと思ってるんですが・・

南部―あ、フジロック、オレンジカフェにあの「CINAMON」が出演するんで是非来て下さい。名古屋ELLの茂さんにずっと前から頼まれてたんです(笑)

松居―僕は此処<ビッグバンは>に初め行ったのは6人編成だった頃の「BOØWY」(当時はまだ「暴威」という表記)のライブ。当時ビーイングが原盤制作していたラウドネスのコンサートを主催してたんで・・「BOØWY」や「マライア」もビーイングがやってたから・・

南部―80年代に入って東京からのバンドのツアー、大阪は「バナナホール」神戸は「チキンジョージ」そして京都は「ビッグバン」という流れが出来ていましたね。

瀬古―僕はここで「ローザ・ルクセンブルグ」観たかな・・

松居―で80年代に入ってからは・・

南部―81年に<スタック・オリエンテーション>を設立し「EP-4」のツアー製作などをやるようになりました。「ノーコメンツ」や「ZIG ZAG」なんかも・・・。

松居―僕は南部さんの<スタック・オリエンテーション>のことは当時から知っていたけど、初めて会ったのは90年の花博でしたね。「カエターノ・ヴェローゾ」「デティ・クルニア」「シェブ・ハレド」とかのライブを松下電器の<国際陳列館」というパビリオンでやった時・・いろいろ協力してもらいました。この手のアーティストの日本での招聘先を紹介してもらったり。6ヶ月間プロデュースしてたんですが、毎月すごいメンバーなのにフリーで50人位のキャパで、ギャラもいいなりでしっかり払いましたけど(笑)

松居―でも、今もまだ現場に居ることは凄いね。

南部―なんにもしてないけどね(笑)

瀬古―あと10年位は・・ね。

70年代京都というと何故か思い出してしまう本。ジャック・ケルアック「禅ヒッピー」(1972)ジェイ・マキナニー「ランサム」(1988)

京都は昔から神戸や大阪と違い独特の雰囲気を持ってる街で70年代初期ファッションビル<バル>の近くにあったロック喫茶「ポパイ」や四条にあったジャズ喫茶の「ダウンビート」にも良く行ったし、イベント終わりで白川通にあった簡易のバーとかに行くとやたら多くの外国人ヒッピーがいたのを覚えています。70年代など少し前のことのように思うのですが既に50年近くも経ってることにいつも驚くのです。そして、お互い数十年やってきた音楽の関わりを数時間で話しするのは無理なわけで、またゆっくり話をしたいとは思っています。今だに3人とも音楽の仕事に関わり、しかも南部氏などは今だに「ナパーム・デス」の東北ツアーやハードコアー系の来日アーティストの現場を担当、もちろん今年のフジロックフェスティバルにも・・で、瀬古さんは現在<東芝EMI>終焉までの検証、実録を執筆中、楽しみです。