特殊音楽の世界21「特別編;どらっぐすとぅあのこと」

今回はいつもと違い70年代末の京都の話をします。小さい波のような動きと人の繋がりがどのようにできていったか、ネットのない時代の話ですが、今動こうとしている人達に何か参考にでもなればと思い書いてみます。

申し訳ないですがそのため毎回ある動画のリンク等は今回ありません。連載の6「デレク・ベイリーと関西NO WAVE/ノイズの誕生」の続きと補完のようなことになります。

ずいぶん昔のことなので記憶違いもあるかと思います。当時の関係者で「そうじゃないよ」と思い当たる方がいたら教えてください。お願いします。

旧遊郭街に近い、京都千本中立売のポルノ映画館のある路地の奥の白いアーチ型の小さいドアを開けると床だけでなく壁も天井も紫の絨毯で覆われた、中腰で歩くのもやっとなくらい天井の低い二層フロアの「カンパニア・スペース」、ほとんど真っ暗闇で薄暗い照明が床面にあり1,2階満員になっても15人も入れない、どらっぐすとぅあはそんな場所でした。

どらっぐすとぅあの入り口と中がこれ。

元々全共闘世代のオーナーが当時の仲間と作ったフリースペースだったらしいですが私たちがいる頃はカンパ性の喫茶店のようなものでした。

ただプログレや前衛音楽の珍しいレコードがたくさんあり、それが目当てでスタッフになったりお客として入り浸ってました。もちろん自分たちでも手に入れたレコードを持ち込んで仲間内で情報交換もしていました。

どらっぐすとぅあのマッチ。

当時はパンク/new waveが出だした時代だったので前衛音楽やプログレやインプロのレコードと同じようにそれらのレコードも同時に楽しんでいました。

そのどらっぐすとぅあで出会ったBIDE(その後ウルトラ・ビデを結成、現在ヒデ名)は、BUSを何回言っても「ブス」としか読まないようなアホな17歳のヤンキー高校生だったけど何故か現代音楽や前衛音楽が好きで、自分でもミニマル・ミュージックを作っていました。何より機材をたくさん持っていてフェンダー・ローズ・ピアノやG-ampやB-amp、オープンリール・デッキも2台、当時の最新シンセも数台所有しており、この機材のおかげでフットワーク軽くなり色々なことができたのは連載6で書いた通りです。

JOJO広重くんも非常階段本で似たようなことを書いていますが、BIDEの家に遊びに行った時に見た、クセナキスやシュトックハウゼンの貴重なレコードが裸のままでコタツの足の下に下敷きになっている光景がその後の自分の音楽に対する姿勢を決定づけました。

BUSも読めない高校生が、難しい(と世間では思われている)現代音楽のレコードを雑に扱っている、それだけの光景なのだけど、音楽に対する余計な構えや思い込みがいかに無意味であるのか、知識や教養以前にその音を面白いと思える感性がいかに重要か、そう思うようになりました。

でも貸してたレコードまでコタツの下敷きにはして欲しくなかったなあ。

どらっぐすとぅあではもう一人忘れてはいけない人物がいます。のちにウルトラ・ビデのメンバーになった故コウイチロウ。彼は美術高校に通う関東出身の高校生でとにかく音楽に限らない幅広い知識の持ち主で電気工作も得意で自作のシンセも作ったりしていました。

無意味で無価値なものに面白さを見つける不思議な感性の持ち主でSCUMの概念が日本に拡まる以前にSCUMを実践していたような人間でした。ただやっていることはとても面白く、その発想の奇抜さと着眼点の確かさに大きく影響を受けました。コウイチロウに「下らねぇ〜(笑)」と言われると何故か嬉しくなったものです。

ビデ・ガレージ・コンサートのリハーサル時の写真。ビデとコウイチロウ。

    話は前後しますが関西NO WAVEの東京ツアーのポスターは、シルクスクリーンができた私の作ったクソつまらない下地に、コウイチロウがスプレーでNO WAVEと大きく書いたものでした。どらっぐすとぅあの二層になった客席のまた上の上階が事務所兼作業所みたいな部屋で、そこで作っていました。数枚しか作らなかったのでもうどこにも残っていないでしょうね。シルク印刷ではなく下地のコピーにスプレーはたくさん作った覚えがありますがそれも残ってないですね。グラフティ・アートが日本で一般的になる以前の話です。ただコウイチロウはグラフティ・アートから影響を受けたのではなくNEU!のジャケットからインスパイアされたのでした。当時仲間たちの最大のアイドルはNEU!でした。ちなみにNO WAVEと名付けたのもコウイチロウです。

ある時、コウイチロウがどらっぐすとぅあに自作のシンセを持ってきたことがあります。それは自称「タッチ・シンセサイザー」、電極を鍋につけて鍋を触る指の面積や場所で音が変わるというものでした。ただ、アースをちゃんと取ってないので時々感電します。4〜5人で中華鍋を囲んで「ピィ〜」「ガァ〜」と音出して感電しながら「下らねぇ〜」と笑っていました。

無教養だけど優れた感性と並外れた行動力のあるBIDE、高い知能と技術と誰も真似できない発想力のあるコウイチロウという一番年下の二人に当時の仲間たちは大きく影響を受けました。

特に非常階段/インキャパシタンツの美川くんはコウイチロウと会っていなければ演奏を始めることはなかったのではないかと、勝手にそう思っています。

そうやってみんなで楽しく遊んでいたのですが、ある日BIDEが「“どらっぐすとぅあ“ってただの憩いの場所でええの?」と言い出しました。

「レコード聴いてるだけちごおて(違って)なんか自分らでおもろいことやろや」と言い出したんです。

これにはスタッフ間で賛否両論起こり、結局BIDEの話に乗った派閥が優勢になり否定派は結果的に去っていくことになったのです。

で、何をしたかというと、まだ知らない音楽に出会うため広く自作のテープを公募しテープ・コンサートを定期開催すること、(当時関西カウンターカルチャーの象徴でもあったプレイガイド・ジャーナルに記事もしくは広告を掲載してもらいました)、そして応募者にどらっぐすとぅあ内でライヴを行ってもらうこと、の二点でした。しかしこれで元々少なかったお客さんがますます減っていくことになるのですが。

テープはかなりの数が集まったと思います。そして面白いバンドも人もたくさん見つかりました。非常階段でのちに過激なパフォーマンスをすることになる岡くんがドラムをやっていたガラパゴスという素晴らしいバンドもテープ募集で知ったと思います。(誰かの紹介だったかな?)

センスあるドラマーである岡くんが非常階段で演奏もせずにペンキ被ったりミミズ食べたりしてることに正直ちょっと何してるんだ、みたいな悔しい感情がありました。でも非常階段とスターリンの合体バンド「スター階段」のライヴの時に(その時私は舞台監督)舞台袖で岡くんが納豆とミミズを混ぜてるのを見た時に「何してるの?」(非常階段にその問いもおかしいですが)「決まってるでしょ、食べるんですよ」と満面の笑顔で答えられた時になんだかスッキリしました。岡くん、本当に好きなことを好きなようにやってるんだと。それまで過激なパフォーマンスばかりが表に出る非常階段に否定的な感情もあったんですがあの笑顔で全てが納得できたような気持ちになりました。

美川くんが持ち込んだテープが、中学の同級生である故林直人くんの在籍していたINUの前身バンド「腐れオメコ」のテープでした。これを初めて聴いたときの衝撃は忘れられません。キャプテン・ビーフハートがファウストをバックに歌っているような、ギターがミニマル・ノイズにしか聴こえない強烈なリフに吠えるようなヴォーカルという特徴的な音もそうですが、何より「メシ喰うな」の歌詞には驚きました。これを17歳で書いたのか、とただただ驚きでした。

ちなみにINUも最初は「犬」と漢字表記だったはずです。それを東京ツアー(だったかな?)のフライヤーを作るときにコウイチロウが「INUにしたらNEU!ぽくてかっこいいじゃん」と勝手に変えました。それを林くんが気に入ってその後はINU表記になったと覚えています。フライヤー作るときに勝手にバンドの名前変えるって本当に適当ですよね。

ここで人繋ぎの達人林直人くんの話も書かないといけませんが、どうもこの話長くなるようです。東京と京都とを繋げてくれた工藤冬里くんや現スマッシュ・ウェストの南部くん、吉祥寺マイナーの話と数年間に出会った多くの人のことと怒涛のペースでの出来事などお伝えしたいことがまだまだあります。そしてそれは人の繋がりも含め今も形を変えて続いています。

この先もしよければこの話を続けていきたいと思います。記憶が薄れる前に。

(いつもと違い敬称略ではありませんが、それはこのときに知り合った人たちは皆「くん」づけだったからです。5~6歳くらい歳は違ってたんですが誰でもタメ口の「くん」付けでした。歳は関係なかったな。)

※写真は当時どらっぐすとぅあのスタッフだったJOJO広重くんと第五列のGESOくんに提供していただきました。ありがとうございます。

 

F.M.N.石橋

:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。

(文中敬称略)