第21回 『ハウス・ミュージックーその真実の物語』ジェシー・サンダース(著)東海林修(翻訳)市川恵子(翻訳)

『ハウス・ミュージックーその真実の物語』ジェシー・サンダース(著)東海林修(翻訳)市川恵子(翻訳)
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スマッシュ・ウエストさんがやられているコンサートではダンス・ミュージックに関するものが少ないのですが、僕はロックよりダンス・ミュージックの方が好きなディスコ野郎です。ライブハウスよりディスコの方が自由な感じがしてたからです。

1977年に映画『サタディ・ナイト・フィーバー』を観て、これはディスコに行かないといけない思った僕は勇気を出してディスコに行きました。14歳か15歳の時です。よくディスコになんか行ってたなと思います。その頃の僕はプラモデラーになるのが夢で毎日模型を作りながら、今は世界の海洋堂として有名な模型屋さんに通って、勉強がおろそかになって、塾の成績がどんどん落ち、塾の先生に怒られて、頭が丸坊主だったので海洋堂でのあだ名は一休さんでした。

丸坊主の子供をディスコはよく入れていたなと思います。三千円払えばどんな奴でも入れていたのがあの頃のディスコだったのでしょう。今でいうカラオケですね。三千円て今から考えれば1万円くらいするような気がするのですが、三千円払えば飲み放題、食い放題でした。

ディスコ・フリークの阪急ファイブで働くお兄ちゃん、お姉ちゃんたちは弁当箱みたいなの持ってきていて、「ここの飯は黒服の奴らがオシッコかけてるから食うたらあかんぞ」と言いながら、冷凍のピラフ、焼きそばを持って帰って、朝ごはん昼ごはんにしてました。その頃の僕はご飯と紅ショウガしか食べれない子で、そのオシッコがかかっているピラフのエビとかグリーンピース、コーンをよけながら食べてました。でもあのピラフたまに食べたくなるから不思議なものです。フジロックの時に泊まった苗場プリンスの朝食でそのピラフを出していたような気がするんですが、それを食べた時にあっ、ディスコの時のピラフやと懐かしく思い出しました。

ドリンクはケミカルで作られたオレンジ・ジュースに何の酒が入っているのか忘れたんですが、それを飲んでました。その頃は酔っ払うなんて感覚が全く分からなかったので、そんなお酒を何杯飲んでも酔っ払うような感覚がしなかったです。そんなことよりも僕は最新のステップを踊ることが大事でした。当時は大ディスコ・ブームで、金持ちのお兄ちゃんお姉ちゃんたちは、毎週金曜日に東京のディスコに行って、そこで最新のステップを覚えてきて、土曜日の夜に大阪でそのステップを披露すると、それがその店の踊りになるというようなスタイルでした。

僕はその時はもうパンクだったので、ポゴ・ダンスをしたり、ディーヴォのプロモーション・ビデオに出てくるような痙攣ロボット・ダンスをしてました。しかし今から考えると14歳の子供がいてもみんなよく気にしなかったなと思います。時間は9時頃だったので夜店に子供がウロウロしているくらいの感覚だったのですかね。僕は6時くらいから行って親にバレない10時くらいに家に帰ってました。親には塾に行っているふりをしていました。行っていたディスコはかまやつひろしさんがプロデュースしてたと銘打っていたジェイルハウスと名前を忘れてしまったお店に行ってました。

僕はディスコで可愛がられた経験ないんですが、同窓会で友達に会った時、「お前、ディスコ、顔パスやったよ」と言われてびっくりしました。記憶って消えていくもんなんですね。けっこうオシッコを入れる黒服の兄ちゃんたちに可愛がられていたのかもしれません。よく思い出すのはこの時、お姉ちゃんたちに「セックスやらせて」とお願いしたらやらしてくれたんちゃうんかなということです。なんでそんなこと気づかなかったんでしょうね。あの頃はセックス しか考えなかったのに、そういう場に行ったらそういうことを考えられないくらいウブだったんですかね。

顔パスだったから中学生の一番の不良たちをディスコに連れて行っていたみたいです。そいつが「どうやって踊ったらいいか分からん」と言ったら、「そんなん適当に踊ったらいいねん、かっこいい踊りしたらこいつらマネしよるから」と行って俺が適当に踊ったらみんなが本当にマネしたという逸話を聞いてびっくりしました。嫌な子だったんでしょうね。そりゃセックス させてもらえないわと思いました。

そうこうしてたらベタなディスコじゃなくニューウェイヴ・ディスコというのがあるという情報が入ってきました。それが心斎橋の西端にあったパームスというディスコです。

この頃、お金をどうしてたかというと、自動販売機のお釣りのところを見たら結構釣銭を忘れている人が多いんですよね。当時は自分の家から梅田まで歩きながら自動販売機の下や、お釣りの所をチェックしてたら2千円くらい溜まったんです。みんなお金余ってたんでしょうね。今はそんなことないですからね。コジキのおっちゃんも自動販売機チェックしてる人あまり見なくなりました。ディスコが当時三千円って(二千円だったかもしれませんが)、今と変わんないですよ。日本がどれだけデフレなのかという象徴です。バブルも通過したのに、今のクラブが2千円って。40年前のディスコが飲み放題、食べ放題で三千円って。そりゃみんな食えなくなっていきますよ。

なんとかしなあかんで日本、そんな話じゃありません。僕が体験したディスコよりちょっと後のお話、そんなディスコからハウス・ミュージックという音楽が誕生した時代の話を書いた本『ハウス・ミュージックーその真実の物語』という本が出ています。ジェシー・サンダースというハウス・ミュージックをよく知っていた人でもあまり聞かない名前なんですが、実はこの人が初期のハウス・ミュージックの原型を作っていったのです。“その真実の物語”という副題が実にふさわしい内容の本です。ハウス・ミュージック、そのシーンが手に取るように分かる本です。ロックもそうですが、なんでも新しいカルチャーが形作られていく物語は本当に読んでいて、楽しい。みなさん、読んでみてください!で、今もどこかでこんなことが行われているんですよ。お金があったらその場所にいたいですよ。またあの空気を肌で感じたい。

大阪のディスコ・ブームの時もそうでしたよ。混沌としてて楽しかった。何も生まれなかったですけど。

ハウス・ミュージックを知っている人なら、フランキー・ナックルズというハウスのゴッド・ファーザーの名前を知っておられると思いますが、この人、バブルの時、大阪のディスコ(もうクラブって行ってたかな)、ゲネシスの箱DJやってたんです。昔は大阪もバブルやったな。木曜日だったか、ゲネシスに行ったらお客が僕だけで、フランキー・ナックルズに「お前ほんまにフランキー?」って訊いたもんな、あれはいったい何やったんやろう。日本人の男と半年くらい好き気ままにやりたいと思ったのか、何なのか。ギャラが良かったんだと思うけど。NYからシカゴに行って、ハウス・ミュージックという音楽を作った男も、さすがに大阪は変えられへんねんやなと思った。

日本ほんまにあかんで。
その10年後くらいには大クラブ・ブームも来るんだから、いいか、僕もそこに関わったんだからな。

で、僕は日本を変えれたか?どうなんでしょうね。ちょっとは変えれたかな。

でも、すぐに元どおりになるよね。それが日本だ。

『ハウス・ミュージックーその真実の物語』を読めば、フランキー・ナックルズだけがハウスを作ったんじゃないんだというのがよく分かります。