特殊音楽の世界22 「特別編の2;78年頃の京都インディーシーンと同志社大学の関係」

まず前回の訂正を二つ。

 

非常階段/インキャパシタンツの美川くんはコウイチロウと会っていなければ演奏を始めることはなかったのではないか、と前回書きましたが、コウイチロウと出会う前に美川くんはすでに演奏を始めていました。ただ、コウイチロウから受けた影響がとても大きかったことはご本人も認めておられます。

 

もう一つ。INUの名前の由来ですが、2008年刊行のハードスタッフ12号の林直人くんインタビューによると、ドラムの西森くん(故人)のネコ案、町田くんのイヌ案で決めかねていたところアルファベットにした時に3文字で決まるからINUにした、との発言を見つけました。

 

ただ2代目ベーシストの西川成子さん(結成当時は在籍していませんが)も字面がNEU!みたいでかっこいいから、と言っていたという話も出ています。NEU!を連想させるということをやはり皆どこか意識していたと思います。

 

でもこのインタビュー、林くんの思い違いもいくつかあり(例えば関西NO WAVEツアーの仕切りを私が全部やっていたという発言は完全に思い違い。次回以降の連載で詳しく書きますが会場ごとに担当を決めていたと思います。)結局INUと名付けた由来は諸説あり、ということになるかもしれません。それで思い出したのですがINUの極々初期のフライヤーでのメンバー表記、ヴォーカル:犬、ドラム:猫の表記のものがあったと思います。

 

さて本題に入ります。前回で書いた通りどらっぐすとぅあでテープ募集をしたところ思ったよりも反響がありました。それで応募してきた一人に頭士奈生樹くんもいました。そのうちそんな応募してきた人たちとどらっぐすとぅあスタッフの間で、お互い誘い合ってスタジオに入って何らかの音を出したり、バンドを作ったりをいうことが自然発生的に起こりました。

 

その一つにBIDE&IDIOTがあります。

 

BIDEのキーボードにIDIOT(IDIOT O’CLOCK、リラダンズ等々、現高山謙一)のヴォーカル、野生の脅威:中塚さんのドラムでs-kenスタジオでs-kenさんのイベントにも出演しました。s-kenさんには散々な評価を受けましたが、ミニマル・パンクみたいな感じで面白かったんですけどね。特に中塚さんの音楽に対する独特のセンスはこのユニットに限らず目を見張るものでした。音楽から早くに離れられたのは残念でした。

 

BIDE&IDIOT、東京ツアー時の写真。一人置いて左から高山謙一、BIDE(ヒデ)、私。

BIDE&JOJOも同じようなセッションユニットでした。

シンセ&ベースでクラウス・シュルツェのような音を出すユニットで、数回ライヴをやっていたと思います。なぜか同志社大学の学園祭での野外ステージでも演奏しています。それは掘宗凡という前衛茶道家の茶事とのセッションというわけのわからないものでした。

 

女装の茶人で当時の京都ではちょっとした有名人だった堀さんもBIDEの知人でした。BIDEの顔の広さはちょっと不思議だったな。

 

その時のBIDE&JOJOの写真。

 

昼間のこのステージの後、別の教室でコウチロウと冨家大器くんが参加したウルトラ・ビデ(この時はまだバンド名はありませんでした)の実質初ライヴが行われています。覚えてないけど数十人居た観客が、最後私一人になったそうです。なんか面白かったのだけは覚えているのだけど。

 

ところでなぜそんな適当なユニットが学園祭の大きなステージに出られたかというと、BIDEの家庭教師が同志社の映画サークル「同志社プロダクション」の部長で学園祭実行委にもいたのでそのコネですね、一言でいうと。

 

BUSも読めないBIDEに家庭教師がいたことも驚きですが、どうも二人でタバコ吸っていただけで勉強なんて全く教えていなかったそうです。

 

その時の学園祭のステージに一緒に出ていたのが吉祥寺マイナーで主に活動しており竹田賢一さんも在籍していたファクトリー。これもBIDEの推薦で出演決定。しかし一高校生の推薦で出演者を決めるか?適当やな、同志社学園祭実行委。

同志社学園祭時のファクトリー。

 

同時代音楽という不定期刊行の本を通じて竹田さんに興味を持っていたし、またコウイチロウからの情報で東京にマイナーという変わった場所があるという話は伝わっていて、東京の面白いシーンと繋がりをつけようと、BIDEは多分思っていたのかもしれません。

 

時期は思い出せませんがその前後に、コウイチロウと私とBIDEで最初にマイナーを訪問しています。私はその時観たガセネタと不失者に人生最大のショックを受けたのですがその話も次回以降に。

 

東京に、というよりもマイナーに何度か行った時に毎回のように宿泊させてくれたのが、この学園祭で知り合ったファクトリーのギタリスト大木さん(故人)でした。とても面白いギタリストだったのに若くして亡くなられて大変残念でした。大木さんのところでなければ天国注射の昼の主催者の一人でもあったK子さんのやっていた新宿ハバナムーンにお世話になっていました。ハバナムーンのことも機会があれば次回以降に。

 

BIDEの家庭教師が同志社の学生だったことや私や広重くんも同志社生であったこと、そして私達よりもちょっと遅れてどらっぐすとぅあのスタッフになったルーメン広田くんも「同志社プロダクション」に在籍していたこと、そういう要素が重なって以降も同志社でイベントやる事が多くなりました。

 

当時の京都はライヴ・ハウスも少なく、企画するために関西NO WAVE4バンドのデモ・テープを持って行っても「もっと勉強しなさい」と断られるか、こちらの方が古臭いブルースやフォークと一緒にやれるもんかと逆に敬遠するかで、京都では銀閣寺のサーカス&サーカス(のちのCBGB→現アンダースロー)でしかライヴをやれませんでした。やらなかった、という方が正しいのかも。誤解があるかもしれませんがINUやアーント・サリーでさえ、当時30人もお客が入れば万々歳といった状況だったんです。

 

当時関西カウンター・カルチャーの象徴だったプレイガイド・ジャーナルもアーント・サリーを「学芸会」と揶揄するのが精一杯でした。当時のメディアで唯一応援してくれていたのは情報誌HIPの編集者で現FM802の古賀くんくらいでした。

 

今はもうありませんが同志社の新町校舎に学生の演劇公演が多く行われている新町別館という小ホールがありました。当時、連続射殺魔(以後、連射と略)というバンドのマネージャーをやっていた現スマッシュ・ウェストの南部くん(同志社大生)が、もっとまとまったライヴをやる場所を確保しようということで新町別館に目をつけたと思います。違うかな?最初は連射側からコンタクトを取ってきたのですが、連射が出ないイベントもだんだん南部くんが協力してくれるようになりました。

 

関西NO WAVE東京ツアー凱旋(どこが凱旋?と今では思いますが)ライヴや工藤冬里&礼子さんのNOISE「天皇」発売記念ライヴも新町別館で行いました。

 

ちょっと脇道に。その同志社プロダクション在籍のルーメン広田くんがどらっぐすとぅあに連れてきたのが現ちんどん通信社の林幸治郎くんでした。彼は立命のデキシーランドジャズクラブを勝手にちんどん愛好会に変えて、自主的に商店街でちんどんをやっていましたが、学校から怒られて進路を迷っている最中でした。ちんどん復活(というか若い世代が入るきっかけを作った)の西の功労者である林くんと、東の功労者である故篠田昌已くん(JAGATARA、コンポステラ等々)との出会いは私にとってとても面白い事でした。篠田くんのことは、非常階段のメンバーでもあった谷口守さんのことと絡めて次回以降に詳しく書きます。

 

文章ばっかりなのでここで一つ動画を。時期はその学園祭のだいぶ後、3年後の81年になりますが同志社の学園祭での非常階段のライヴ。これ、確か広田くんの伝手で教室抑えたと思います。(学校向けの)主催も確か「同志社プロダクション」だったかと思います。

画質もいい完全版のDVDがアルケミーから出ています。そちらを是非。

 

広重くんが参加していない唯一の非常階段のライヴです。ここで私はPA担当。PAとは言っても、当時安く借りられ簡単なライヴではみんな使っていたYAMAHAのyesというヴォーカル・アンプ程度の簡易PA。ミキサーも6chしかなかったと思います。

 

同じ教室で変身キリンやハニー&コスチュームのPAをやった覚えがありますがその時かどうかは不明。「非常階段A story of the KING of NOISE」によるとこの日の他の出演者は変身キリンやINU、チャイニーズ・クラブ、アルコール42%、コウイチロウ+堀田善範とありますが他のバンドのことはなぜか一切記憶に残ってません。

 

ここでミキサーを守っているのが私。最初から林くんのシンバル水平なげで(絶対やったらダメですよ。死人が出ます。林くんはちゃんと人のいない方に投げていました。)シールドが切れてPAの音出ていません。

 

興奮してハサミで自分の手を傷つける客や、酔っ払って3階から飛び降りようとする林くんを止めたりとかPAとは全く関係ないことをやっていました。映像でミキサー卓から離れている時はそういうことをしてたわけですね。

 

しかし映像を観ると非常階段の皆さんも結構冷静で、ミキサーのある机には手を出してないのがわかりますね。なんかかなり楽しかった覚えだけはあります。

 

この時、当然だけど学校からひどく怒られたと後で聞いたけど大丈夫だったのかな。それに機材の弁償は誰がしたのか?借りたのは私だけど弁償した覚えがない。

 

長くなったので続きはまた次回に。

 

次回は林君との出会いと関西NO WAVE東京ツアー(正式名称は“青春の東京ツアー”でした)のことを中心に書いていきたいと思います。

 

文中の写真は第五列GESOさんから提供していただきました。

 

F.M.N.石橋

:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。