特殊音楽の世界23「特別編の3;林直人と青春の東京ツアー」
- 2019.10.01
- COLUMN FROM VISITOR
まず前回の訂正から。記憶があやふやなことも多く、この連載で関係者から証言を掘り起こし正しい事実を残す、ということも連載趣旨の一つなので今後もなにかと訂正があると思いますがご容赦ください。
前回記事中の、同志社での野外コンサートを学園祭時のことと記載しましたがそうではなく同志社、京大、立命館の学園祭チームと学生文化団体組織の有志が行なった「流乱火山帯」というイベントでした。
当時の実行委でもあった櫻井篤志さんからご指摘いただきました。映像作家でもある櫻井さん、現在、京都でlumenギャラリーという映像専門のギャラリーをやっておられます。
掘宗凡さんとBIDEたちを引き合わせたのも櫻井さんでした。
実は今回の内容に関係する写真がありません。写真がないと寂しいので前回で書いたBIDE&IDIOTのs-kenスタジオでのライヴ写真を上げておきます。
(写真は第五列GESO氏より提供していただきました。)
70年代末に大きく動いた関西の音楽シーンにとって、故林直人くんの存在はとても大きなものでした。林くんが一体どういう人間だったか、以前書いたブログのリンク貼ります。気が向いた時に読んでもらえばいいですがこういう人でした。http://fmn.main.jp/wp/?p=2542
林君とどらっぐすとぅあが結びついたきっかけになったコンサートがありました。78年10月に西部講堂で行われた「ブランク・ジェネレーション」です。同名の映画上映、東京ロッカーズの各バンドと関西からはBIDE&IDIOT、SS、そして後にINUに加入する西川成子さんがいた「BLANK GENERATION」(コンサート名と一緒ですが単なる出演者で主催者ではないです。)他。成子さんは、INU時代ではフレットレスで有名でしたけどこの時はまだ普通のフレット・ベースでしたね。関西勢では一番演奏がしっかりしていたような記憶があります。主催者はS君、S君はどらっぐすとぅあにコンサート協力を頼んできて、それで私もステージ・スタッフをやることになりました。BIDE&IDIOTは開場時の演奏で、手伝ったおまけみたいな扱いでしたね。
当時、東京ロッカーズという新しい音楽のムーブメントが関東で起こっていましたが、関西では新しい音楽をやるバンドもその時点ではほとんどありませんでした。それで生で観る東京ロッカーズにそこそこ期待していたんです。でもフリクション以外は旧態依然としたロックにしか思えなくて「なんだ、これ」という気持ちでした。これはどらっぐすとぅあの仲間たちも同じような感想だったようで「SSやBIDEたちの方が絶対おもろかったやん」と話していました。
そのころのSSのライヴ映像。単独で東京に行ってた時だと思います。
そんな時に林くんと中学の同級生である美川君が林くん主宰のミニコミ「アウトサイダー」を持ってきたんです。
そこには「ブランク・ジェネレーション」に出演した関西勢のバンドに関して痛烈な批判が書いてありました。でもそれは音楽に対しとても真摯で前向きな文章で、林直人という人物に興味が湧きました。何よりちゃんと見てくれている人がいる、と言うことが嬉しかったですね。
コンサートの内容はともかく「ブランク・ジェネレーション」は関西の新しいバンドに逆の意味で大きく影響を与えたと思います。「あれよりも俺らの方が面白いことができる」多分そういう気持ちが強くなったと思います。
同年11月にはPhew主催で神戸女学院で「Punky Reggae Party」が開催、出演がAuntSally、腐れおめこ、アルコール42%他。Phewとbikkeが知り合うきっかけを作ったのも林くんらしいです。
この頃から、いわゆる関西NO WAVE東京ツアーの話が出てきたのではないかな?
同年12月にギャルソンで腐れおめこ、ウルトラBIDE、AuntSally(出演予定のバンドがキャンセルで急遽出演)等が出演した「神経切断!GIG」が行われますが、その少し前に東京ツアーの打ち合わせで林くんと大阪で初めて会った記憶があります。初対面の印象は「えらいキビキビした人やな〜、めっちゃ事務作業できるやん。」その後どんどん印象変わるんですが。記憶にはないですがその後もPhewや町田くんが京都に来たりBIDEやSSシノヤンや広重くんが大阪に行って打ち合わせしたり、といったことが続いたようです。
INUのメンバーと最初に会ったときのことも忘れられません。東京ツアーの打ち合わせで結成直後のINU(腐れおめこを解散し林くんが加入)と会うことになり梅田のLPコーナーの前で待ち合わせ。なぜレコード屋の前か、って?お互いの知っている場所がレコード屋しかなかったからです。共通点がそこしかなかったんです。携帯もメールもFAXもない時ですからね。連絡は電話のみ、の時代です。
初めて会った町田くん、ペラペラの革ジャンに溶接用のゴーグルをサングラス替りにしてしゃがんでタバコ吸っていました。「これが“メシ喰うな”の歌詞を書いたヤツか。」
そのままレコード店の前で打ち合わせしていたら苦情来ました。当たり前ですね。その後場所を変えたけど。
INUのメンバーでは林くん以外ではドラムの故西森くんと話すことが多かったですね。西森くん、不思議なドラムを持っていてバスドラの中にフロアタムやタムがマトリョーシカ状に入れることができて、しかもシェルも薄くて軽いので背負って運べるというドラムを使っていました。もちろんポコポコした貧弱な音しか出ませんがあの音のINUも好きでした。
西森くんがINU脱退後に結成したUPメイカー(ユーピーメイカー)は林くんの主宰するアンバランス・レコードからシングルを出しています。日本初のレゲエバンドということでしたが、最初かどうかはともかくとても早い時期にレゲエをやっていましたね。ギターはINUの2代目ギタリスト、小間慶太くん。小間くんのことは次回以降にまた詳しく書くことになると思います。
UPメイカーは、これも次回以降に書くことになるミニ西部講堂ともいうような京大尚賢館(現在焼失)で80年代に連続イベントを私がやっていたときに出演してもらったことがあります。
話を戻します。
そして翌79年3月には東京4箇所5公演の東京ツアーが始まるのです。林くんと初めて会ってから4カ月足らず、場所の確保も含め今では考えられないペースの速さです。
主催はどらっぐすとぅあとアウトサイダー。各バンドは多分無視していたと思いますが正式ツアー名は「青春の東京ツアー」林くんとコウイチロウの歪んだユーモアが発露したタイトルです。フライヤーも各バンドで作っていたんでいろんな種類があったと思います。「青春の東京ツアー」って書いてあるフライヤーを使いたくなかったのかもしれません。
各会場でゆるく担当を決めていたと思います。吉祥寺マイナーはBIDE(ほぼコウイロウがやったかな?)、キッド・アイラック・ホールは私、屋根裏と福生チッキン・シャック(2days)は林くんだったかな?
しかしツアーはいい加減すぎてひどいもので、特にキッド・アイラック・ホールは単なる貸しホールでPA担当がいるわけでもありませんでしたが、当日そのことを初めて知る始末。しょうがないので私が人生初のPAのオペをやりました。PAって言ったって前回の連載でも書いたYAMAHAのyesです。単なるヴォーカルアンプと6chのミキサーがあるだけです。オペもSSのトミーさんから「もっとTreble上げて!」と言われても「Trebleってなんなん?Tついてるからこれか?」とつまみを適当に回す、といったようにひどいものでした。もちろん照明も会場備え付けのライト付けっ放しです。そのときの録音がアルケミーから出ているSSのライヴ盤です。音悪いのは録音のせいだけじゃなくてそういう事情です。すみません。
駐車場のチェックもしない、チャージ・バック率も当日初めて訊く、といったような今から考えたらとんでも無くいい加減なツアーでした。
それでも各会場満員、そこそこ好評でした。
各バンドが単独で東京でライヴしたときよりも4バンド集まってツアーをすることで関西のオリジナリティがアピールできたのかもしれません。何しろ4バンドとも内容でいえば全く関連性のないバンドでしたから。それだけいろんなタイプのバンドが揃うと、今までどこにもない音が関西で次々と生まれている、という印象を強く残せたのだと思います。
東京ツアー中に一番印象に残ったことがあります。マイナーでのライヴの前日(かな?)同じマイナーでガセネタのライヴがありツアー中のメンバーも見に行っていました。
ガセネタが終わると(多分)アルコール42%のスタッフとしてついてきていた若い子が「こんなん誰でもできるやん」と漏らすと、会場にいた灰野敬二さんがすかさず「できるならやってみろ!」と鋭い声を出しました。
その声の、間髪いれないタイミングの良さと鋭さが実はツアー中一番印象に残っているんです。
次回も続きます。次回はロック・マガジンや吉祥寺マイナーのことも書ければ。
F.M.N.石橋
:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。