特殊音楽の世界24「特別編の4;ロックマガジンと吉祥寺マイナー」

前回にも間違いがありましたのでまずお詫びして訂正させていただきます。

INUの2代目ベーシスト、西川成子さんの在籍していたバンド「BLANK GENERATION」について、成子さんの担当楽器はベースと書きましたが本当はキーボードでした。INUでのフレットレス・ベースの印象が強くて間違えてしまいました。

その前回で触れたイベント「BLANK GENERATION」の映像がありました。この前半部分です。

 

また、INU2代目ギター、小間慶大くんの名前を慶太と書いていましたが正しくは慶大です。

小間くんに関しては次回以降、関学大との関係や工藤冬里くん、大熊ワタルくんや篠田昌已くん等が音楽を担当していた劇団「風の旅団」の話の中でも詳しく書くことになると思います。

それと関西NO WAVEという呼称ですが、ここでは東京ツアーに行った4バンドとそのバンドから派生した各バンドのことを称しています。本当は4バンドでの東京ツアーの時だけの呼称なんですけどね。関西NO WAVEという名前が一人歩きしてEP-4まで含まれるようなことをネットで見ますが、ここでは前述したような限定で書きますのでご了承お願いします。

先日ロック・マガジンの阿木譲さんが主宰していたVanityレコードの全作品が再発されましたね。70年代末から80年代初期におけるロック・マガジンの影響力はとても大きなものでした。ジャーマン、new wave、パンクから現代音楽に至るまで独自のアンテナで様々な当時の世界中の先鋭的な音楽を紹介していました。

ロック・マガジンに関してはいろんなところで多く語られているのでここでは詳しく触れませんが印象深かったことを一つだけ書きます。

Vanityでカセット作品をリリースしていたとき、ウルトラ・ビデのコウイチロウにも声がかかりました。コウイチロウは大阪のロック・マガジンまでの京阪電車の車内の音を録音し、それをそのまま自分の作品として提出しました。一切の編集もなし、車内の音をそのまま録音したものだったと覚えています。結果として不採用、発売されることはありませんでした。阿木さん自身は内容を気に入ってたらしいですが、リリースに至らなかったのは販売に耐えないと思ったんでしょうか?

当時とても影響が大きかったことがもう一つありました。

京都のレコード店、十字屋(現JEUGIYA)のレコード仕入れ担当を、のちにZEROレコード(少年ナイフ、須山公美子等をリリース)を立ち上げる平川晋さんが担当していたことです。

ロック・マガジンで紹介された入手しづらいと思われるレコードが十字屋に行けば大抵手に入りました。すぐなくなりましたけどね。なのでどらっぐすとぅあ内のみんなで貸し借りしていました。今では考えられないかもしれませんがCANのようなグループでさえ知られてない時代でした。ロック・マガジンでさえ最初CANをキャンと、ホルガー・クツカイをヘルガ・シューカイと間違えていたくらいです。ロック・マガジン→十字屋というラインは当時の京都の若者にとってはとてもありがたいものでした。(大阪ではLPコーナーだったかな?)

情報だけ妄想化するのではなく、情報を得るとほぼ同時に音も聴けたのです。ネットのない時代にこのスピード感はとても貴重でした。自分の中での「音楽」がどんどん進化していく感覚でした。関西で新しい音楽が徐々に萌芽していく中、関東でも東京ロッカーズのような通常のロックの流れを組むものとは全く別の異形の音楽が生まれていました。

その音楽の中心にあったのが吉祥寺マイナーでした。

マイナーがどういうところだったかはwikiか書籍「地下音楽への招待」を参照していただければと思います。

マイナーの店長佐藤隆史さんは、灰野敬二さんの1stアルバムや山崎春美さんのTACO等をリリースするピナコテカ・レコードも主宰されていました。マイナーのことは、第五列のGESOくん(私と入れ替わるようにどらっぐすとぅあのスタッフを辞めていましたが交流はありました。)や関東出身であるコウイチロウから「東京にとても面白い場所がある」と知らされていました。

コウイチロウ経由(冬里くん経由もあったかな?)で送られてきたマイナー出演者のカセットがどれも信じられないくらい面白く(特に面白かったのが火地風水という女性4人組と灰野さんでした)、マイナーと関係しながら何かできないかと思うようになりました。

そしてとにかく行ってみようとBIDEとコウイチロウと3人で何度か行った覚えがあります。最初に行ったのはまだマイナーにカウンターもありテーブルや椅子がライヴの邪魔になるので階段に片付けられている頃だと思います。

そこで観た灰野さんの不失者とガセネタは今までで一番ショックを受けたライヴでした。

もう記憶もおぼろげなのでこれから書くことが正確な記憶なのかどうか自信はありません。ただ自分の中ではこう残っている、ということです。それをそのまま書いてみます。

不失者が登場すると会場の照明がほぼ真っ暗に。ドラマーは190cmはありそうな長身で腰に刃渡り15cmはありそうなナイフを携帯。ベースはガセネタの浜野純くん。一番前の椅子に座っていたが初めてライヴで恐怖を感じる。全生命をかけて聴かないと音に負けて死んでしまうんじゃないかという恐怖。その時の映像はもちろんないし年代もずっと後だし同じメンバーでもないけど印象が一番近いのがこれかな?

 

ガセネタ。座ってずっと同じリズムを奏でるベース。ウィスキーをラッパ飲みして痙攣するヴォーカル、ヴォーカルがアンプの角で割った壜の飛んだカケラをニコニコしながら避けて叩き続けるドラム(佐藤さん)。そして何より浜野くんのギター。どうしてこんな音が出るのだ?指から血を噴き出しながら出てくる音が信じられなかった。ベースの大里さんが書いた「ガセネタの荒野」にある通りたった1本のギターで2本の手で5本の指で6本の弦でどうしてこんな音が出るのだ。。

この時に受けた衝撃を上回るものにはまだ出会っていません。

こんな記憶だけどこれが正確かどうかはわかりません。ただその時に受けたなにかはずっと今も続いています。

マイナーは他にも白石民夫さんが主催していた、毎日通常ライヴが終わった10時から開催された「愛欲人民十字劇場」や、トイレでのパフォーマンスと常識では考えられない面白そうなことがたくさん行われていました。

「天皇」という素晴らしいアルバムを出したNOISEというバンドで活動していた工藤冬里くんともこのころ知り合ったと思います。冬里くんが京都と東京のマイナーとのつなぎ役になってくれたようなところもあったと思います。冬里くんは「関西はみんな仲が良くていいな」と言っていましたが、京都でも普通に意見の違いによる衝突くらいはあったんですけどね。ただ東京、特にマイナーのシーンと違ったのは、東京では知識や知性が重要視されているに思えたけど、京都では(どらっぐすとぅあに限りますが)どれだけ「アホ」かが重要視されていたことだと思います。この場合の「アホ」の説明は難しいのですがfunnyではなくてbizarreやstrangeの方が近いかもしれません。

何しろ、動きの中心には現代音楽やフリージャズのレコードをコタツの足の下に裸で置いてbusをブスと読む高校生のBIDEがいたんですからね。インテリジェンスが優位に立つことなんか最初から意味がありませんでした。ただbizarreやstrangeの基準は厳しかったと思います。表面的に奇をてらったものは相手にされませんでした。今から考えれば知識も知性もあるGESOくんや美川くん、抜群なbizarreセンスの持ち主であるコウイチロウという土台があっての「アホ」さ優位でした。

冬里くんはなぜかそういう「アホ」をなんとなく好んでくれていたのかどらっぐすとぅあとの交流は東京勢の中でも特に深かったと思います。以前の連載でも書いた同志社大学新町別館でのNOISE「天皇」発売記念ライヴもそうした交流から生まれたものだったと思います

次回は非常階段の初期メンバーでもあった谷口守さんとじゃがたら、コンポステラの篠田昌已くんのことに絡めてマイナーについての追記をしたいと思います。

またかなり昔のことなので今回も記憶違いがあるかと思います。その場合はご指摘ください。よろしくお願いします。

 

 

F.M.N.石橋

:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。