特殊音楽の世界25「特別編の5谷口守さんと篠田昌已くんのこと」
- 2019.12.03
- KYOTO
今回はどらっぐすとぅあで出会ったいろんな人たちの中でも一番の奇人、そして個人的にかなり影響を受けた谷口守さんと、彼を通じて知り合った故篠田昌已(JAGATARA、コンポステラ等々)くんのことを書きます。この二人のことと絡めて80年代の音楽文化の意外な繋がりを明らかにできればと思います。
谷口さんはある日突然にどらっぐすとぅあに登場しました。日本でも有名なザッパ・フリークでフランク・ザッパ京都公演時のスタッフでもあり、大文字山にZの火文字を灯したという無茶苦茶な情宣要員でもあったそうです。
谷口さんが出すどらっぐすとぅあ内イベント企画のアイデアも奇妙なものが多く、コウイチロウが出すような一見奇妙でもちゃんと筋道があるようなものとは全く違ってました。でもわけわからなくて面白かったんですけどね。
一番変だったのはフランチャイズ・バンド制度。「涙のラーメン」というこまどり姉妹の曲から名前を取った「涙のラーメン・ジャンプ・バンド」という名前のバンドを各地で好き勝手に作る。本人たちが思うジャンプ・ミュージックならば内容は問わない、というもの。もう意味がわかりません。本当にいくつかバンドができて確か東京支店(本店は京都。それ以外の場所のバンドは支店ということになります。)には田端満くんもいたんじゃないかな?
音楽はジャンルを問わずやたら詳しく、谷口さんからホット・ロッド/サーフィン・ミュージックの楽しさを教えてもらいました。
最初期の非常階段にも参加していましたね。というかその頃の非常階段は来るものは拒まず(本人たちからしたらそうじゃなかったのかもしれないですが。)みたいに思えたので勝手に参加していたのかもしれません。
谷口さんのザッパ・フリーク仲間に細野晴臣さんの泰安洋行等のジャケット・デザインでも有名な八木康夫(現ヤギヤスオ)さんもいました。多分谷口さんを通じて非常階段を見た八木さんが、当時有名な音楽雑誌「プレイヤー」で連載してたコラムに非常階段のライヴ写真を載せたことがありました。
同時期にライヴ時の写真を掲載したある写真雑誌と、このプレイヤーの記事が非常階段を「変態バンド」として全国に認知させたような気がします。ノイズ・バンドではなく変態バンドですね。ノイズ・ミュージックという概念が今以上に理解されていなかった時代です。
谷口さんは80年代末から90年代最初にMSIから再リリースされたザッパの諸作品のライナーも書いていました。そのライナーがすごかったんです。
「We’re Only It For The Money」にはカフカの「流刑地にて」を読んだ後に聴くこと、という注意事項があるのですが、それを守るためにCDに小説1冊分全文掲載したんです。他のCDも、アメリカ文化史&文化評を交えながらザッパの活動と歌詞を詳細に解説した毎回5~60ページものライナーが付いていました。その音楽が生まれた文化と政治状況を説明しながらその音楽の成り立ちを解く、ライナーであれくらい内容が濃く幅広いものには以後出会ったことがありません。昔の映画やTVに出てくるTV宣教師と共和党に代表される右派との関係等、これで初めて知ったことも数多くあります。
ある日、突然谷口さんから「東京にPUNGO(パンゴ)という面白いバンドがあってそのメンバーが二人京都に来るから泊めてやってくれないか。」と言われました。その二人が1週間ほど関西に滞在するというので、自分は他の場所に行って二人に鍵を預けて部屋を自由に使ってもらうようにしました。
そのうちの一人が篠田昌已くんでした。PUNGOの動画は残っていません。音源はネットにも上がってますしCDもあるので是非聴いてみてください。メンバーは向島(菅波)ゆり子さん、佐藤幸雄さん、石渡明廣さん、久下恵生さん、今井次郎さんとPUNGO後もそれぞれ素晴らしい活動をされています。
文章が続いたんで篠田くんの死後に纏められたドキュメンタリーを。
全く面識のない人間に部屋の鍵を預けるということが篠田くんにとっては信じられないことだったらしく、それで信用してもらえたのか以後も何かと連絡を取るようになっていました。
しかし特に親しくなったきっかけは篠田くん、現シカラムータの大熊ワタルくん、そしてINUの2代目ギタリストでもあった小間慶大くんが音楽をやっていた劇団「風の旅団」だったかもしれません。この劇団のことは次回以降の西部講堂居住時代の話でまた詳しく書きます。ちなみに「風の旅団」の初代音楽担当は工藤冬里くん、2代目担当が篠田くんたちでした。
篠田くんたちはまた「山谷〜やられたらやりかえせ」の音楽を蠱的態という名前で担当しています。
この映画のことは以前F.M.N.のサイトで書いていますので良かったら読んでください。へヴィーな話ですが。
ここで動画を。篠田くんと大熊くんたちとトム・コラのバンド「ピヂン・コンボ」のライヴ映像です。このライヴ。F.M.N.でCD化されています。よければどこかで買ってください。
トム・コラは「山谷〜やられたらやりかえせ 」のニューヨーク上映実行委の一人でもありました。
ドキュメンタリーにもあるように篠田くんはチンドン屋さんもやっていたのですが、ほぼ絶滅しそうだったチンドンを、関西ではちんどん通信社の林幸治郎くん(以前の連載で書いた通りどらっぐすとぅあで出会った一人です。)と関東では篠田くんの二人が偶然ほぼ同時期に若手導入のきっかけを作り、結果的に復活させたというのはとても面白いことだと思います。篠田くんがチンドンに入ったきっかけは偶々路上で見たチンドンのサックスの音が素晴らしくてその場で弟子入りを志願したということらしいです。
もう一つ動画を。篠田昌已ユニットのライヴです。
篠田くんにとってはやはりJAGATARAも重要なバンドだったようで二人で話している時にもJAGATARAの話はよく出ていました。というかほとんど江戸アケミさんの話でしたね。
ある時篠田くんの家に泊まった時に見せられたのがこの映像。
労働者の町である横浜寿町での野外ライヴの様子です。(全映像の一部ですが)
その時に篠田くんにこのライヴの素晴らしさを力説されました。
JAGATARAの活動もこのライヴで変わっていくだろうとも。
もっと少人数でも気軽に動いて路上にもっと出て行こう、みたいな話をアケミとしたんだ、と嬉しそうに言っていました。その半年後、アケミさんは亡くなってしまうんですが。
篠田くんもその後92年に亡くなりました。
次回は西部講堂でのイベント「クロスノイズ」、そしてポリス事件(とは何か?)以後では西部講堂での初来日ミュージシャンであったフレッド・フリス公演(私の初海外ミュージシャン主催)そして居住することになった経緯等々西部講堂周辺のことを書く予定です。
F.M.N.石橋
:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。