特殊音楽の世界26「特別編その6:ドッキリレコードと変身キリン」

まず前回の訂正とお詫びを。

 

前回の文中で田畑満くんの名前を間違っていました。彼が高校生の頃からの長い付き合い(次回以降で予定している西部講堂編でその辺りのことを書く予定です。)なのに申し訳ありませんでした。

 

もう一つ訂正を。谷口守さんの、フランチャイズ制バンドを「涙のラーメン・ジャンプ・バンド」と書きましたが、正確には「涙のラーメン・カルテット」でした。「カルテット」は構想のみで活動実態がなかったと思い違いをしていました。「ジャンプ・バンド」の方が構想のみで活動してなかったようです。

 

いろんな方からの証言で「涙のラーメン・カルテット」は東京支店(八木康夫さん:現ヤギヤスオさん在籍)、その中でも高円寺支部に西荻支部があり、ディスロケーションの岡崎豊廣さんが在籍していた名古屋支店もあってライヴ活動も結構やっていたようです。そういえば「涙のラーメン・カルテット」のカセット作品があったことを思い出しました。ジャケットはヤギさんが書いていたんじゃなかったかな?まだ持っている方いるかな。もしいらっしゃったら教えてください。

 

前回の予告では西部講堂に関わり出す前後のことを書くといいましたが今までの連載で大切なことを書き忘れたので今回は補足編とします。

 

関西NO WAVEでは忘れてはいけない「ドッキリ・レコード」のことを書くのを忘れてました。「ドッキリ・レコード」がどういうものだったかについてはここでは詳しく書きません。先日、SS、変身キリンのメンバーだった竹野くんのお店Annie’s Caféで約40年ぶりに聴きました。思ったよりも聴けましたね。もっとひどい出来だったと思い込んでいました。特にINUと変身キリンは今聴いても十分インパクトありました。

 

「ドッキリ・レコード」の制作に関して私は関係していません。制作元の必要レコードは町田くんが代表だけどジャケットの制作や中のインナーのデザイン等、制作は竹野くんや成子さん、須山公美子さんたちがやっていたようです。

 

「みんなでレコード作ることになったし。○日に〇〇で録音するし石橋くん、遊びに来てや。」とある日突然BIDEが言いました。その頃は東京ではテレグラフ、関西では林直人くんのアンバランス・レコードや阿木さんのヴァニティとインディー・レーベルが産まれだした頃だったんですがそれでも自分たちでレコードを作るなんてなかなかハードルが高いことでした。

 

「へえ、すごいね。」と気軽な感じでウルトラ・ビデの録音場所へ遊びに行きました。録音場所って言ったって、予算がないからレコーディング・スタジオじゃなくてリハ・スタです。そこでBIDE手持ちのオープンデッキで一発録りです。スタジオに入った途端BIDEから「石橋くん、何してんの?遊んどったらアカンで。」といきなりミキサーを任されることに。BIDEは毎回こういう調子で人を巻き込むのが得意でしたね。もちろんこんなど素人が一発録りのミキシングしても碌なものになっているわけもなく、その後コウイチロウが色々苦労した編集でなんとか形になったように覚えてます。予算がないから他のバンドもリハ・スタで録音したけどどうしても納得のいかないバンドはちゃんとしたスタジオで録り直したようですね。

 

ドッキリ・レコードに参加している変身キリンは関西のpunk/new waveに一つの新しい潮流を作ったバンドでした。今は作家として活動している本田久作くんを中心にその後INUに加入する北田くん、非常階段、渚にての頭士奈生樹くん、IDIOT O’CLOCK高山謙一等々その後の関西の音楽を支える数多くのメンバーが出入りしていました。

 

ドッキリ・レコードでの変身キリンを。

punk/new wave創成期に、文学の香りを取り入れて繊細で洒落た歌の世界の流れをその後の関西に作ったのは変身キリンであることは間違い無いと思います。本田くんと共に変身キリンの世界を作っていたと言ってもいい須山公美子さんはロック・マガジン周辺で初めて名前を知ったと思います。その頃のロック・マガジンは単に音楽誌というだけでなく、編集部に出入りする人たちやその周辺で様々な人のつながりを創り出していました。

 

須山さんも北田くんも当時関西学院大学生でしたが、関学は80年代の関西の音楽にとって重要な役割を担っていました。INUの2代目ギタリストの小間くんも関学生でしたし、ダウザーの長嶌くんと初めてあったのも彼が関学生の時でした。関学については、これもまた次回以降の西部講堂時代のことで詳しく書きます。

 

須山さんは変身キリン解散後、ソロになり多数の作品をリリースしておられます。その中でも優秀なエンジニアであった故藤井暁くん(彼のことも西部講堂編で詳しく書きます)が録音し佐藤幸雄くんプロデュースで、前回でも触れた篠田昌已くんや佐藤幸雄くんたちが参加した「夢の始まり」は歴史に残る大傑作です。その中から1曲。

 

話を戻します。

ドッキリ・レコードの売り上げを持って町田くんは東京に行ってしまいます。INUの活動も東京中心になるわけですが東京に行って数ヶ月で解散してしまいます。

 

当時、ドッキリ・レコードは関西ではほとんど見向きもしてもらえなかったと思います。以前も書きましたが関西での新しい音楽の動きはほとんど注目されませんでした。関西でのカウンタ―・カルチャーの象徴でもあったプレイガイド・ジャーナルがアーント・サリーを「学芸会」と揶揄していたことは前にも書きました。当時の関西では関西発のpunk/new waveは正当に評価されていませんでした。INUが当時関西での(今で言う)フェスに呼ばれるようになったのは彼らが東京に行ってからでした。つまり中央で評価されるようになってようやく見向きしてくれたわけです。なのでドッキリ・レコードは当時全く話題にならなかったと思います。

 

そんな中、突然KBS京都からラジオで紹介したいと連絡が来ました。どういうきっかけだったか覚えていないし、そもそも連絡を誰が受けたかも思い出せないのですが、なぜか私と町田くんが出演することになりました。制作には関係してない私がなぜ行くことになったかは思い出せません。当時、周辺では一番年上だったし、既におっさんぽかったし、それで町田くんが選んだのか、今となっては不明です。なんども書いたようにプレイガイド・ジャーナルでさえ無視に近い状況でしたからラジオ局から声が掛かるなんて信じられませんでした。しかもKBS京都は「イムジン河」が事実上放送禁止状態になっていた時に全国で唯一流し続けていたような放送局でした。SNSはもちろんネットも無い時代です。ラジオで宣伝できる、しかも向こうから声をかけてきてくれた、このことを町田くんはどう思っていたか知りませんが私にとっては何かとても勇気付けられた事件でした。で、二人して緊張してレコードかけながら宣伝したんですが昼間のAM生放送、一体誰が聴いてくれたのかわかりません。身内の誰一人聴いた人はいませんでした。それどころかその放送を聴いたことがある人に今まで一人も会ったことがありません。そこで大募集です。その放送を聴いたことがあるよ、という方。お知らせ願えませんか?もし、万が一、録音があったら是非聴いてみたいです。でも無いでしょうね。

 

次回は前回の予告通り、西部講堂に関わり出す前後の話を書こうと思います。

 

このコラムの連載を始めて2年4ヶ月、特別編を始めて半年、ダラダラとしたこのコラムを楽しみにしてくれている方も居るようでありがとうございます。。特別編、書けば書くほど思い出すことが多いので、これもダラダラと長期にわたるかもしれませんが来年もよろしくお願いします。

 

 

F.M.N.石橋

:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。