特殊音楽の世界27「特別編その7:西部講堂のこと」

まずお知らせを。特殊音楽の世界16「オーガナイザーとネットワーク」で紹介したドキュメンタリー映画「山谷<やま>やられたらやりかえせ 」の音楽のために結成され、前々回の特別編の5で触れた篠田昌已くんもメンバーにいた「蠱的態(コテキタイ)」の音源(当時はカセットのみで販売)がCD化されるそうです。

他には大熊ワタルくんや、コンポステラで篠田くんと一緒だったNRQの中尾勘二さんやマヘル・シャラル・ハシュ・バズのメンバーも参加しています。

発売日等詳細はまだ不明ですが発売当時から今に至るまで根強い人気のある音源です。

 

さて、そろそろ私が80年代の殆どをそこで過ごし多くの人たちと出会った西部講堂のことを書こうと思います。そして私がミニ西部講堂を目指した同じ京大内の尚賢館(焼失しました)のことも次回以降に触れようと思います。

今回は動画のリンクはありません。申し訳ないですが文章ばかりになります。

 

まず、これから書くことは80年代のことなので今の西部講堂とは状況が違うことを前提として読んでください。そもそも京大の現状も当時と大きく違っています。この話を今に当てはめないで読んでください。

 

まず大きく世間で誤解されていることは「西部講堂は自由だ」ですね。いや自由であるのは自由なんですが、それを保証するためのいろんな大切なことにみなさん目を向けていないように思います。

 

まず西部講堂は貸ホールでもレンタルスペースでもありません。管理団体から「借りる」のではなく「自分も管理する側に立って自分の場所として使う」ということなのです。そのために使う側は「西部講堂連絡協議会」という管理団体に加入して日常的に管理運営に参加することが大前提となります。だから京大生である必要はないんです。そういう意味で開かれている場所なんです。ただその「開かれている」部分に全責任を負わないといけないということなんです。「自分の場所」だから自由にもできるけど全てのことに責任を負わなければなりません。しかも「他人が使う場所」でもあるんです。自由であることは厳しいんです。西部講堂連絡協議会は対学校的にはサークル扱いなんですが、実態がそういうことなので京大生であるかどうかは関係ないんです。さらに言うならば上記の基本姿勢を受け入れなければ京大のサークルであっても使えるとは限りません。

 

もう一つ大切なことがありました。西部講堂には何にもないんです。PAも照明も(私がいる頃に知り合いの照明屋さんから中古のものを譲ってもらってそこそこ揃えましたが)何にもないんです。そしていわば屋根のある野外のようなものですからどこからでも入れます。そのため何かイベントやるときにはPA、照明の経費に加えスタッフ(警備、設営等々)の確保に普通のホールの何倍も手間がかかるんです。そういう問題点を見事にクリアして80年代の京都の音楽シーンに大きく影響を残したビート・クレイジーのことは特殊音楽の世界7「ビート・クレイジー展」で、シーン作りのお手本のような、その活動について詳しく書きました。

 

観客としてなんども行っていた西部講堂を初めて「使う側」になったのは80年6月のどらっぐすとぅあ主催のパンク系+フリー・ミュージック系のイベント「クロス・ノイズ」でした。INU(2代目ギタリスト小間くん時代)や非常階段の前身である螺旋階段や東京吉祥寺マイナー周辺から竹田賢一さんたちのヴェッダ等々が出演しました。

 

この頃はまだ上記の使用前提はあやふやで一回限りのレンタルみたいな感じでも使えたんですね。その後後述するポリス事件で西部講堂の姿勢も大きく変わったんです。

 

初の西部講堂でのイベントですから結構ワクワクしてたんですが初っ端から挫けるような出来事がありました。ある舞踏集団が受付開始している入り口を突然占拠して写真撮影を始めたんです。開場してます。お客さん、入れません。当然クレーム言います。そうすると主催者だと言う人間が「これは(舞踏公演)西部講堂主催のイベントためだから全てに優先されるんや」との返事。なんじゃそりゃ、となりますよね。ここで西部講堂が関西カウンター・カルチャーの根っこだと言う幻想はそこで一気に崩れたわけです。他人のやっていることを尊重しないで何がカウンター・カルチャーや、ということですね。

 

ちなみにその人、西部講堂の屋根の三つ星が日本赤軍の「オリオンの三つ星」であると言うデマを流した張本人でもあります。あれは「オリオンの三つ星」でもなんでもありません。デザインした人に聞きました。「単なるデザイン」だと言うことです。新聞の取材に対してその人が勝手に意味付けてデマカセ言っただけなんです。つまらないデマが、西部講堂が「ロックの殿堂」であると言う意味のない思い込みと同様に余計なイメージを固定化させた罪は大きいと思います。実際、2000年の屋根大改修工事(大学からお金は出ていません。自費とカンパで数百万の工事を完遂しました)の時には三つ星を消す話も出ました。結局、適当なデザインも思いつかず、シンボルを求める人の声に負けて三つ星のままでということになりましたが。本当はシンボルなんてない方がいいんです。シンボルがある限り開かれた場所にはなりませんから。

 

まあその時幻滅しながらも結局81年に主催したフレッド・フリスの来日公演で西部講堂に本格的に関わることになるのですが。これもポリス事件以後、初めての来日ミュージシャン公演ということで色々すったもんだがありましたがそのことも次回以降に。

 

クロス・ノイズをやったすぐ後、元SS(その頃はチャイニーズ・クラブ?)のシノヤンからある相談がありました。「京都でパンク/new wave系の大きなイベントを連続的にしたい、それを西部講堂でやろうと思うけどどう思う?」という相談でした。私は西部講堂に幻滅していた直後ですから「あそこは止めた方がええで、経費もかかるしなんかややこしいわ。」と返事しました。

 

そのせいかどうかはわかりませんがシノヤンは一乗寺の名物映画館「京一会館」でオールナイトのイベントを行いました。EP-4の佐藤薫さんのA.T.Rhythmが出てましたね。私はその時舞台監督/進行をやったいたのですがイベントタイトルも他の出演者も全く思い出せません。映画館でのオールナイト・コンサートはとても面白かった(面白かったことだけ覚えています)のですが大赤字になったらしく、その後シノヤンからあれは失敗であったと聞きちょっと責任を感じました。

 

当時、今ほどライヴ・ハウスの数もなく、しかも500人程度のキャパのあるところはほぼ皆無でした。ちょっと大きい規模のギグは制約の多い公的ホールを選ぶしかなかったんです。制約のあるところではなく自分たちで自由にやれる場所を確保する、そのことは当時の新しい層の音楽関係者には大きな課題でした。でも場所を見つける、確保する、そこから始まることは音楽にも大きく影響を及ぼしたと思います。多分80年代に今のように演る場所が選び放題だったら、結果的に今の音楽も違ったものになっていると思います。

 

その後シノヤンは、ラン子さんやBIDE(ウルトラ・ビデ)IDIOT、ヴァンパイヤ和田くんと企画団体ビート・クレイジーを結成、西部講堂での連続イベントで80~90年代の関西のパンク.シーンに大きな足跡を残すことになります。さらに西部講堂の体質も変えていくのです。

 

全共闘の学生闘争から生まれた、日本でも独自のスタイルのスクワット・プレイスである西部講堂は、その後長い間全共闘世代の幻影に悩まされることになります。それについても次回以降書きますが、幻影であることにも気がついていない世代から西部講堂を本当の意味での自主管理、自主運営を基本とした、しかも開かれたスクワット・プレイスに変えていったのはビート・クレイジーなんです。

 

次回は西部講堂の姿勢を大きく変えたポリス事件、そしてその後初めての来日ミュージシャン公演であり、自分の初海外ミュージシャン主催公演でもあった、しかもポリス事件のせいで公演決定まで数ヶ月かかったフレッド・ フリス・ソロ・コンサートのことを書く予定です。

 

 

F.M.N.石橋

:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。