特殊音楽の世界28「特別編その8:ポリス事件とフレッド・フリス公演」

前回に続き80年代に西部講堂に関係していた時期のことを書きますが、前回同様これは過去のことであって今の西部講堂及び京大の状況とは全く違うことを前提として読んでください。

 

前回で書いた「クロスノイズ」について、当時観客として来てくれた近江八幡酒游館の西村さんから「ステージを使わず会場真ん中にステージ(観客席の真ん中にコンクリート製の小ステージ状のものがあります。)を作っていたのが新鮮だった。」とコメントを頂きました。

 

出来合いのステージを使ったいわゆる「コンサート」みたいになることを避けたいということもありましたけど、あれは西部講堂で観たデレク・ベイリーの公演の真似でした。西部講堂は客席後ろがスロープになっていてセンターステージを使うと演者が観客の目線より下に位置することになります。それが良かったんです。デレク・ベイリーのコンサートは演者と観客との目線の位置という要素がかなり重要なことだと気づかせてくれました。

 

またここで「当時、場所がなかった」としきりに書いていることについて、「そんなもん、当時でも探せばいくらでもあるだろう」とお思いの方もたくさんいらっしゃると思いますが、PA機器の問題もあったんです。当時のPA機材は「重い、でかい、鳴らない」の三拍子揃ったものばかりで設備の無い新たな場所で満足な音を出すにはかなりの手間と経費が必要でした。現在のようにカフェ・ライヴが増えたことはPA機材の進歩が大きく影響していると思っています。

 

というわけで、前回で書いた通り西部講堂に幻滅するようなことにあったにも関わらず、やはり天井が高い木造の建物で、しかもセッティングが自由にできるという魅力は大きくて、81年のフレッド・フリス初来日公演で再び関わり出すことになります。それに高校時代に村八分のレコードの内ジャケで初めて知った場所への憧れもありましたね。あの、一見廃墟のようなわけのわからないところにたくさん人が集まってる写真は当時の高校生にとってとても魅力的でした。

 

受験と重なって公演は観られなかったけど合間を縫って西部講堂の前のザッパ公演の立て看だけ見に行ったこともありましたし。でも関わり出してそういう憧れはすぐに意味のないことだとわかりました。

 

その頃ザッパを始め色んな来日ミュージシャンの公演も西部講堂で頻繁に行われるようになっていましたが80年のポリス事件によって西部講堂の体質が大きく変わることになりました。

 

ポリス事件に関してはwikiの西部講堂の記事を参照願えればと思います。簡単にいうと、西部講堂は商売になると思った大手プロモーターが自主運営団体の名を借りて興行を行なったということだと思います。繰り返しますが西部講堂は貸しホールではありません。自主団体を隠れ蓑にして西部講堂のイメージだけ利用して嘘をついて貸しホールとして使用した、ということですね。私はこの時期はまだ西部講堂連絡協議会(西部講堂自主管理団体=前回参照)に属していず、ポリスにも興味がなかったため観にも行ってませんでしたので、詳細は書けません。ただこの事件により「自主管理」の意味が問われ「単なるレンタルではなく使用者は管理者として西部講堂連絡協議会に属し恒常的に管理運営を担う」という体質が強化されたのは間違いないと思います。

 

ポリス事件以後、初の来日ミュージシャンの公演がフレッド・フリス京都公演でした。招聘元は当時のフールズ・メイトの編集長、YBO2の故北村昌士氏でした。私は京都公演の主催でした。前日に私が北村さんと大げんかしてしまったので北村さんは京都公演には来ていません。

 

西部講堂では企画が持ち込まれた場合、それを了承するかどうか全員参加の月2回の会議で全員の了承を得ないと開催できませんでした。特にポリス事件の後だったので海外ミュージシャンの公演に皆とても用心深くなっていました。私という主催者を隠れ蓑にしてまた大手のプロモーターが西部講堂のイメージを利用しようとしているのではないか?という先入観があったと思います。そのころの西部講堂連絡協議会のメンバーには直接表現に関わっている人たちそれほどいなくて全共闘世代の生き残り達が自主管理空間を支えるといった感じでした。

 

表現自体に関する知識も見識も全くない人が多かったんです。日本をダメにしたのは間違いなく全共闘世代だと思うのですが、何かの旗の元に人が集まるのが楽しいだけの人たちが多かったんです。人が沢山集まって何かが動いた、そういう時代を知ってるだけにそのことの再現しか興味にない人たちですね。しかも自分が旗を持っていたい、しかし自分では決して旗は降らない、そういう厄介な人たちが多かったんです。しかも表現に対する見識がないので文化の判断基準は名前が売れているかどうかだけだったんです。

 

フレッド・フリスのようなマイナーなミュージシャンを、しかも海外から招聘するということ自体理解を得られませんでした。今のように個人的なネットワークで海外からミュージシャンが来日して公演を行えるという時代ではありませんでした。どメジャーなミュージシャの来日公演しか考えられない時代でした。(そういう意味でも前述のデレク・ベイリーの公演は画期的でした。)

 

なんどもくじけそうになりながら会議に何回も出席して理解を得、開催決定されるまで3ヶ月かかりました。そこまで頑張ったのは自分の好きなミュージシャンの京都公演を好きなやり方で自由にできそうな場所でどうしてもやりたいと思ってたんでしょうね。

 

しかしいざ開催するとその時の会議に出席していた西部講堂連絡協議会のほぼ全員が会場設営はもちろん、打ち上げまで手伝ってくれたんですね。多分、本当に自主運営でやっているのかという確認もあったと思いますがそれでも手伝ってくれたことに感激しました。もしそれがなければその後も西部講堂に長く関わることはなかったと思います。

 

で、肝心のフレッド・フリスの京都公演は個人的に忘れることができないものになりました。

その時のライヴに近いものがこれ。

その時はギター2台をテーブルに乗せ同時に演奏してました。

 

こんなアヴァンギャルドなライヴでも350人強のお客さんに来ていただきました。センターステージ使用で照明も簡素とほぼ自分の思うようなライヴをセッティングできたこともそうなんですが、初めて付き合う来日ミュージシャンであるフレッドにとても喜んでもらえたのが一番嬉しいことでした。

 

ライヴ終了後、西部講堂連絡協議会のメンバーが西部講堂内で打ち上げをセッティングしてくれました。最後はフレッドをほったらかしにして勝手に宴会状態になってしまいました。でもそれがフレッドには楽しかったらしく、翌日があるからと早めに宿泊先まで送ったのに、宴会に参加したいからと自分でタクシーに乗ってまたやってきたんです。結局朝までの宴会に徹夜で参加。翌朝、酔い潰れたみんなをほっといて西部講堂の前で朝日を浴びながら椅子に座って二人で微笑みあってたのが今でも忘れられません。

 

その時の宴会を録音して音源がフレッドのアルバム「Cheap at Half the Price」で使用されてます。みんなが勝手に盛り上がって歌ってる音源にドラムとベース等をオーバー・ダブしたものです。

2016年のアンサンブルズ東京のために久しぶりに来日したフレッドに会った時にもこの時のことが話題にのぼりました。私はもちろんフレッドも忘れられない夜だったようです。

 

正直、当初いろいろ疑問しか出なかった西部講堂側の対応だったのですが、その後のみんなの反応も含め、私の最初の来日ミュージシャン公演はその後の自分と西部講堂との関わり方を大きく決定付けました。そして結局足掛け7年も西部講堂に住むくらい深く関わることになってしまうのです。

 

次回は西部講堂の話の続きと、ミニ西部講堂ともいうような京大のもう一つの自主管理空間であった尚賢館(焼失)の話になると思います。

 

F.M.N.石橋

:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。