特殊音楽の世界29「特別編その9:京大尚賢館のこと」

前回に続き西部講堂や京大のことを書きますが、前回同様これは過去のことであって今の西部講堂及び京大の状況とは全く違うことを前提として読んでください。

 

前回のようなことがあって西部講堂に本格的に関わりはじめるのですがすぐに住み出したわけではありません。西部講堂連絡協議会(自治団体:詳しくは前項以前の連載を参照ください。以下:西連協)加入直後なのになぜか会計を任されてしまいました。

 

西部講堂は使うときに使用カンパを頂いていました。ただその金額は信じられないくらい少額です。どうしても必要な備品を買うときの足しにしたりしてました(高額なものが必要な時は別途加入者からカンパを募ったりしてたんです。)その時に私が預かった金額は総計数万円。しかし毎月2回の定例会議に出席するのが面倒くさくなって数ヶ月続けて欠席したんです。

 

その時に以前の連載でも書いた一乗寺の映画館「京一会館」でのイベントを(金銭的に)失敗した元SS、元チャイニーズクラブでコンチネンタル・キッズを結成したばかりのしのやんが、コンチネンタル・キッズのラン子さん、ウルトラ・ビデのBIDE(現ヒデ)、イディオット・オクロックの高山謙一くん、京大生で軽音部員でもあったヴァンパイヤの和田くんと一緒に企画団体ビート・クレイジーを結成して西連協に加入してきました。ビート・クレイジーの画期的な活動形態については“特殊音楽の世界7「番外編、ビート・クレイジー展」”を読んでみてください。
http://smashwest.com/2018/05/30/post-1036/

 

ある時、偶々しのやんに会って西部講堂で企画を始めることを知ったのですが「石橋くん、なんか、金持って逃げてることになってるで」と聞かされました。いや、会議を欠席し続けてたことは悪いけど、みんな連絡先知ってるはずなのに何も連絡なかったし、とは思いましたが、そんなことになってるならば、と会議にまた出席するようになったのです。それ以降、なぜか真面目に関わり出すことになり、そして再度ライヴハウスではなくホールでもない場所である西部講堂という場所の魅力に囚われてしまったわけです。

 

一番活発な時は2カ月に1回くらいのペースで大きいイベントを組んでいたビート・クレイジーでしたが、私は、といえばそのビート・クレイジーのイベントの進行&舞台監督を手伝ったりしながら時々自分のイベントを企画してました。規模の大きいものではアフター・ディナーのレコーディング・ライヴや、ICPオーケストラ(オランダのフリー・ジャズ・オーケストラ)の京都公演のような海外ミュージシャンの京都公演の企画&主催をやってました。

アフター・ディナーの別の場所での貴重な動画。

ICPオーケストラの動画。

ただ私の完全な実力不足のためアフター・ディナーのレコーディング・ライヴは完全に失敗でした。これは今でも申し訳なく思っています。そしてICPオーケストラも近藤等則さんを通じて(近藤さんが招聘、ICPオーケストラのメンバーでもありました)主催させてもらったのに約束の金額の支払いが遅れて大変迷惑をかけました。主催者としてとても未熟で実力不足のくせに、初めて海外ミュージシャンと付き合ったフレッド・フリスのコンサートが大成功に終わったので勘違いしていたのかもしれませんね。そんな反省もあり、また西部講堂のような大きい会場でやることの負担も大きかったので別の場所はないかと模索しました。

 

大きい会場ならばそれに見合うPAや照明も用意しないといけません。簡素な照明を目指していたんですが、それでもちゃんとした照明デザイナーに頼まないと単にみすぼらしいものになってしまいます。そもそも西部講堂には満足な照明機材はなかったんですが。だからやればやるほど赤字がかさむことになります。お客さんが数十人しか来ないようなアヴァンギャルド系の来日ミュージシャンのライヴも西部講堂でやっていたのですが、広い場所なのでそれなりに経費もかかりますしあんな場所ですから人手も必要です。ビート・クレイジーのイベントを手伝いながら、シーンを作っていくその巧みなやり方を横目で見ながら自分はどうしたらいいのだろう、と考える日々が過ぎました。いや、でもビート・クレイジーの人たちを付き合ううちに楽しくなってその頃住んでいた伏見まで帰るのが面倒くさくなり、結局西部講堂に住み込んでしまうのですから「考えていた、模索していた」って言ってもけっこう楽しくやっていたと思います。

 

そんな時に京大内の尚賢館という、ミニ西部講堂とも言えるような場所を知りました。80人くらいのキャパで京大の軽音の定例コンサートや演劇、集会に使われていた場所です。建物の半分くらいは、あるセクトが使用していたのですが一番大きい教室(元武道場だった建物だったので武道に使われていた部屋だったかもしれません。)を皆が色々利用していたのです。そういう文化的利用に関しては建物を実質占拠していたセクトは何にも関知してませんでした。西部講堂のような自治管理団体があったわけでもないのにどういう風にスケジュール調整をしていたのか今となっては思い出せません。黒板のカレンダーに書き込んでたような気がしますし、学校に使用届けを出してたような気もします。でもそうだとしたら誰か京大生を通じないとできませんよね。一体どうしてたんだろう?

 

そこではその頃知り合ったあるフリージャズ・ドラマーの人と一緒に企画したり、どらっぐすとぅあのスタッフだったルーメン広田くんとアヴァンギャルド映画の上映会など結構色々企画しましたね。ちなみにその上映会のタイトルが「ひるむなフィルム、すくむなスクリーン」アホですね。

 

そこではINUのライヴもやりました。2台目ギタリストの小間くん時代だったかな?お客さんは十数人。この間の「汝、我が民に非ズ」の大阪ライヴで町田くんがMCでそのことに触れ「客が5人だった」と言ってましたがもうちょっと居たと思います。あんまり変わらんか。その時にお客さんで来てくれたのがのいずんずりの福田くん。福田くんはINUのライヴには必ず来ていて顔はよく知ってましたが、その時に初めてちゃんと話しました。INUの初代ドラマーだった故西森くんのUPメーカーのライヴもやりましたね。

 

その他にはこれもほとんど近藤等則さんが招聘していたトリスタン・ホイジンガーやポール・リットンといったようなヨーロッパのフリー・ジャズ・ミュージシャンのライヴを数回主催してました。1、2年ほどの間に10回ほどのイベントを企画したと思います。ただやはりPAも照明もないので何かやるには結構パワーが必要でした。ノーPAでやれるフリー・ジャズにはとてもいい広さの空間だったのですが、INUのようなバンドをやるためにはPAも用意しないといけないのでそう気軽にはできませんでした。ネットのない時代ですからね。宣伝はフライヤー(当時はチラシ)とイベント情報を掲載してくれる情報誌にしか頼れませんでした。大学内の特殊な場所に人を集めるのはやはり難しいことでした。

 

でも結構いい場所だったのに尚賢館は89年に漏電で焼失してしまいます。

 

ただそのことがきっかけではなく、もっと違った層にアピールしないといけないと思ってましたから、特殊な場所で何にもないところで一から企画するということに意欲をなくしてました。ビート・クレイジーのやり方を横目で見てましたからね。このままではシーンを作るどころか先細りするしかない、という気になったんです。それで80年代末くらいにまたもっと日常的な音楽の場であるライヴハウスに戻っていくことにしたんです。90年代中旬にはクラブの可能性の大きさに気づくんですがそのことについてはまた何かの機会があれば。

 

その頃よく企画させてもらったのが磔磔です。お客さんもそんなに来ないし店長の水島さんには「お前のやっとることはよ〜わからん」と言われてましたが、ずっと使わせ続けていただきました。正直、磔磔がなければ京都における90年代のアヴァンギャルド系のライヴの数はとても少なかったと思います。

 

磔磔でやらせてもらったもので一番先鋭的だったのは高柳昌行さんのAction Direct。ここまでアグレッシヴなことをライヴハウスでやらせてくれたことに今でも感謝しています。

ユージン・チャドボーン(“特殊音楽の世界9「即興って深刻に聴かなくてもいい”で紹介してます)が京都にやってきた時はアヴァンギャルド系じゃない層に見て欲しかったのでUFO or DIE(山塚アイ、ヨシミ、ハヤシ 注:当時の表記)に対バンを頼みました。

その時のUFO or DIEの映像。

しかし、その少し前から自分のやり方に疑問を持っていたんですね。と言うよりもフリー・ジャズ系の音楽との関わり自体に疑問を持ち出したのです。ジョン・ゾーンや大友良英さんとの出会いに関係することですがそのことはもう少し先で書きます。

 

次回は2人とも故人ですが、西部講堂の顧問のような立場だった小松辰男さん、名エンジニアの藤井暁さんのことに絡めて80年代の西部講堂の状況をもうちょっと詳しく書きましょう。

 

F.M.N.石橋:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。