特殊音楽の世界30「特別編その10:小松辰男さんと藤井暁さんのこと」

今回は動画のリンクはありません。文章のみになります。

まず毎回のことですが、これは過去のことであって今の西部講堂及び京大の状況とは全く違うことを前提として読んでください。

西部講堂は運営母体である「西部講堂連絡協議会(以下:西連協)」が結成される以前から演劇やコンサートなどの自主的なイベントに使われていたようです。代表的なものでは、東一条から百万遍交差点まで道路をロックアウトしロック・コンサートや演劇等を開催した69年の「京大バリ祭り」だったようです。人伝に聞いただけで実態がどういうものであったかは知りませんが、この「京大バリ祭り」をプロデュースしたのが故小松辰男さんでした。

小松さんは現代劇場という劇団を主宰されていたようですが、「裸のラリーズ」の音楽を担当していたり、かなりアート寄りのことをやっていたと聞いています。ラリーズのコンサートの演出としてライトショーを取り入れたのも小松さんのようです。私が西連協に加入した時には小松さんは西部講堂の顧問のような立場でした。運営には関わらないが色々なアドバイスをする、といった立場でしょうか。

演出家としてアートや前衛的な文化に造詣の深かった小松さんに、私は目をかけていただきました。多分、アヴァンギャルドな音楽に興味のある若手が西部講堂に来たのでまともに育てようと思ってくれたのかもしれません。

あるとき「小豆島(淡路島だったかな?)で小杉(武久)くんのライヴがあるから行くか?」と言われてついて行ったことがあります。旅費も滞在費も全部小松さんが出してくれました。何しろ仕事してなかったですからね、住んでるのも西部講堂だし。同行者は他に横山プリンさん。テレビでお見かけするプリンさんがアヴァンギャルドな音楽のファンであると初めて知りました。

小杉さんのライヴは、フルクサスとも活動していたアーティスト赤井さん(失礼なことにフルネームを忘れてしまいました。調べてもわかりませんでした。)のプライベート・パーティーのようなもので普通の民家丸ごと一件を使って行われました。多分10数人くらいしか居なかった畳敷きの部屋で聴いた小杉さんの演奏は今でも忘れられません。

小松さんは、西連協の運営に関わることはなかったのですが、方向性を見誤ってると思った時には色々意見を言ってくれました。ただ、決して強制はしなかったですね。

小松さんの西部講堂に対する位置の取り方がよくわかるようなことがありました。

名前を伏せますが、ポリス事件以前から年に1度のコンサートが定例のようになっていて、京都の名物の一つにもなっていたある女性SSWの方がいました。その方が西部講堂のライヴビデオを制作しました。その際、当日の内容に納得がいかずコンサート終了後に数曲取り直しで収録したことがありました。

それを聞きつけた小松さんが、私の住んでいた西部講堂内の部屋に夜中の2時に突然来たんです。「コンサートビデオと言いながらライヴでもない撮り直しをコンサートといって発表する嘘を西部講堂は許していいのか?嘘に対して責任を取れるのか?」と結構強い口調で問われました。(合議制でやってるのに、俺一人に言われてもな〜)と思いましたが小松さんの目を見ながら数分考えて「大丈夫だと思います。」と答えました。「わかった、今やってる人間がそう言うならもう何にも言わん、その代わり何かあったら責任は取らなあかんぞ。」

「大丈夫です」と言ったのは理由があります。西部講堂でコンサートをやるときには 通常主催者が西連協に加入すればいいので出演者は関係ないんです。なのにその女性SSWは東京から西部講堂での定例会議に出席し、自分がいかに西部講堂でのコンサートを大切に思ってるか、だからこそここで撮影したビデオを発売したい、という思いを切々と語ってくれたからです。単なる憧れやしょうもない「伝説」に乗っかっているわけでもないんです。西部講堂でしかできないことをほぼ毎年その方はやっていました。ほかのどこでもできないことをやっていたんです。小松さんは撮り直しを「嘘」と言いましたが私はその方の西部講堂に対する深い思いからくる「演出」だと思ったので「大丈夫です。」と答えたと思います。

他にも小松さんのコネクションで解決した問題もありました。86年に亡くなるまで「顧問」として西部講堂を見守ってくれていました。

西部講堂に関わりだした頃に知り合った忘れられない人がもう一人います。

名エンジニアとして有名だった、これも故人ですが藤井暁さん。暁くんと呼んでいたので以後はそう書きます。暁くんも、私のことをアヴァンギャルド系の音楽に興味のある若手と思って興味を持ってくれたようで仲良くさせてもらいました。

当時京都に住んでいた高田渡さんのところに小学生の時に出入りし、中学生の時にはすでにPAエンジニアの世界に居たような人ですから、一緒にいてとても勉強になりました。当時の伏見の自宅スタジオにも遊びに行っていろんな音楽や録音、そして音に関する基本的なことをたくさん教えてもらいました。

西連協は合議制なのですが、ライヴや劇団の主宰者は皆アクが強いですし、当時は学生運動崩れの理屈っぽいだけで何にもしない人もたくさんいて、派閥争いのようなマウントの取り合いはしょっちゅうありました。しかし合議制ってそういうことを乗り越えていけるからいいんですけどね。普段なら全く話の合わないジャンルも違う人たちと話し合って、妥協と主張の間をせめぎあいながら何かを一緒にやっていく、多分、西部講堂の存在意義があるとすればそこだったでしょう。

誤解を受けやすい性格だった暁くんに対して「反暁勢力」とも言ってもいい人たちがいました。

そんな時に「幻のYMO事件」が起こりました。

暁くんが西部講堂でYMOのコンサートを企画したんです。会議ではもうYMOの事務所にOKを取っている、と明言していました。「反暁」勢は「テクノなんて、あんな魂のこもってない音楽なんか認めない。」と言ったような情けないことを言ってましたから、私は当然暁くんのYMOコンサートに協力しようとしていました。しかし企画内容を訝しんだ「反暁」勢がYMOの事務所に確認したところ、ちゃんとした出演依頼がないことがわかりました。

みんなに嘘をついていたことになり、暁くんは糾弾されます。私も騙されたことになるので怒りました。出演OKはとっている、一緒に面白いことをやろう、と言われていましたからね。初めて暁くんと一緒に何かできると思っていただけに裏切られた気持ちでした。不思議なことに暁くんは誰にも一切弁解も釈明もしませんでした。そして黙って西部講堂から去って行きました。

その後、暁くんは東京に拠点を置き、数々のPA、ここでも以前紹介した元変身キリンの須山公美子さんの作品等のレコーディングで素晴らしい仕事を数々こなし、puffupという篠田昌已くん等の数々の名作をリリースした素晴らしいレーベルも立ち上げました。「YMO事件」以後、数年前に突然亡くなるまで、たとえ現場が一緒になっても私とは口を聞くことはありませんでした。

仲が壊れてしまってからも変わらず音楽的にかなり影響を与えてくれた恩人であるのに、何十年も前のことを引きずってお互い一切関係を絶ったまま急逝されてしまったのは今でもとても残念です。

次回は、80年代最初の関西のnew waveには欠かせなかった関西学院大の動きを、工藤冬里くんや篠田昌已くんたちが音楽を担当していたテント演劇のことも交えて書こうと思います。

F.M.N.石橋
:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。