特殊音楽の世界31「特別編その11;関西学院大学、テント劇団と音楽の密接な関係」
- 2020.06.01
- KYOTO
今回は80年代前半の関西punk/new waveにとって重要な場所のひとつであった関西学院大学のことを少し書いてみます。
70年代末から80年代頭にかけて学園祭や特別な野外イベント、新町学館ホールなどで同志社大学が重要な役割を果たしていたことは特殊音楽の世界22「特別編その2」でも触れました。
http://smashwest.com/2019/09/03/post-2865/
そしてその少し後に同志社の後を引き継ぐように多くのイベントが行われたのが関西学院大学(以下関学)でした。80年にはもうINUのライヴが行われていますね。
この頃は今ほどライヴハウスの数も多くなく、また新興音楽であったpunk/new waveをやらせてくれるところも少なく、いや古いタイプの音楽しかやってないところではやりたくなかったという方がいいかもしれませんが、新しいバンドを集めた音楽イベント(学園祭に限らず)が大学内で行われることは普通でした。
80年代前半は、学内の有志が実行委を組んで大学内のホールを使って音楽イベントをやるということが主流だったんです。もちろん学外に開かれたイベントで多くの場合お客さんは外部から来た人がほとんどでした。大学生が自分の学校で自主的にイベントすることが頻繁にあった時代だったということですね。そういえば京大にはホールがないんですよね、西部講堂はあるけど。あれだけ大きな大学なのに変な大学だ。
INUの2代目ギタリストの小間くんも3代目ギタリストの北田くんも関学生でした。後述するDowzerの長嶌くんも関学生の時に知り合いました。もっとも知り合った時は長嶌くんが音楽やってるなんてちっとも知りませんでした。彼が卒業後、東京で会って「今なにしてんの?」「音楽やってます。」「どんなん?」「Dowzerです。」「え〜!!」となったんですが。
つまり当時の関学にはそういう新しいタイプの音楽に興味を持っている学生が多かったということですね。そんな人たちが自分の音楽を作るために自分たちのための場所を確保しようとしていたんです。そんな活動がとても盛んにやられていた(と外部からはそう見えました)のが関学でした。関学でどのようなライヴが行われていたか記録を調べたんですが申し訳ないですが適当な資料が見つかりませんでした。ただINUだけでなく山崎春美さんや佐藤薫さん達のTACOや向井知恵さんや工藤冬里くんのシェシズも関学のイベントに出ていました。80年代前半には年に数回、7〜8バンドは出るイベントが行われていたと思います。
そして関学では、音楽だけではなく演劇公演の主催ということにも繋がっていきました。
70年代に活動していた「曲馬館」という劇団(劇中歌を坂本龍一さんが作曲、サントラも発売されています。)が80年代に3つに分かれ「風の旅団」「夢一族(族はくさかんむり)」「驪団(りだん)」とそれぞれテントによる野外旅公演を行なっていました。
そしてわたしはその3つの劇団の京都公演制作を担当してました。音楽イベントでは思ったように動員ができず、横目でビートクレイジーのクレバーでパワフルな動きを見ていたこともあり、ちょっと迷いのあった時期でした。テント劇団の制作を頼まれてやってみると頑張っただけすごくお客さんが来たんです。200人くらいは収容できるテントに入りきれないほど毎公演超満員ということもありました。音楽イベントでできないことがやれたような気になっていました。全く違うんですけどね。
83、4年頃には関学でもテント劇団の公演を主催する実行委が組まれ、公演をサポートしていたのです。その実行委には前述したDowzerの長嶌くんやINUを辞めたばかりの小間くんもいました。小間くんはのちに「風の旅団」に加入、音楽だけでなく出演もしていました。
「風の旅団」の初代音楽担当はマヘル・シャラル・ハシュ・バズ、シェシズ他の工藤冬里くん、冬里くんは1作目だけで離れました。私が風の旅団の制作を最初に引き受けたのも旧知の冬里くんがいたことが主な動機でした。でも私が制作をはじめた2作目にはもう冬里くんは脱退してましたけど。
ここで2作目以降に旅団の音楽を担当した人たちの名前を列挙してみましょう。
篠田昌已(JAGATARA、コンポステラ、A-musik他)小間慶太(INU、UPメーカー、シェシズ他)大熊ワタル(シカラムータ、ルナパーク・アンサンブル他)西村卓也(シェシズ、篠田昌已ユニット他)久下惠生(ストラーダ、A-musik、パンゴ他)木村真哉(絶対零度、へぼ詩人の蜂蜜酒、ルナパーク・アンサンブル他)エマーソン北村(ミュートビート、JAGATARA他)関島岳郎(コンポステラ、ストラーダ、栗コーダー・カルテット他)中尾勘二(NRQ、コンポステラ、ストラーダ他)佐藤幸雄(パンゴ、すきすきスウィッチ、佐藤幸雄とわたしたち他)服部夏樹(Lovejoy他):敬称略
他にも公演で使われることはなかったらしいですがマヘルの工藤礼子さんや吉祥寺マイナー店長、ガセネタ、ピナコテカ・レコード主宰の佐藤隆史さんも関わったようです。
そして「夢一族」の音楽は一時期「渋さ知らズ」の不破大輔さんが担当していました。
「オルケスタ・デル・ビエント 風の旅団 劇中音楽集」はいぬん堂から発売されていますが現在売り切れ中のようです。聴いてみたい方は中古を探してみてください。
http://inundow.shop-pro.jp/?pid=746903
これはもう廃盤になっていますが関西new waveのキーパーソンの一人でもある小間くんの唯一のソロ・アルバム「青空」があります。小間君が手がけた、出版&映画製作会社リトルモアの代表である孫家邦さんが以前やっていた「井の頭劇場」の劇伴等も収録した名アルバム(リトルモアから発売)です。これもどこかで中古で見つけたらぜひ聴いてみてください。INUでの活動は短かったですが、小間くんは関西new wave界の重要なキーパーソンの一人です。もう廃盤ですが「青空」HMVでの紹介リンクを貼っておきます。再発して欲しいですね。
https://www.hmv.co.jp/artist_小間慶大_000000000252972/item_青空_1771602
ちなみに孫家邦さんも関学出身で小間君や北田君とほぼ同世代です。以前この連載で書いたビートクレイジー結成前夜にしのやん(元SS、コンチネンタル・キッズ)達がオールナイト・イベントを行った一乗寺にあった名物映画館「京一会館」でも、「井の頭劇場」は公演したことがあります。その時の制作もわたしでした。
話を戻します。
参加メンバーを見てお分かりになると思いますが80年代当時の東京アンダーグラウンド界(う〜ん、そう言っていいのかな?他に言葉が見つかりませんでした)の錚々たる人たちが続々と関わっています。
これは一体どういうことだったのでしょう?
「渋さ知らズ」の結成のきっかけは、劇団「発見の会」の劇伴を不破さんがやったことだったことはよく知られていますが、それだけではなくテント劇団の猥雑性、雑多なエネルギーに不破さんが大きく影響されていたのは間違い無いと思います。
3つのテント劇団はいわゆる演劇人というよりも全くの素人、初心者がたくさん参加していました。そして自主稽古という名の、自分で脚本も作り一人で演技する稽古のやり方を(演劇でいうエチュードに近いでしょうか?)取り入れていました。演じる本人が一番伝えたいことをどう表現するか、各個人で作り上げていた、と言えばわかりやすいでしょうか。そしてその個人の作り上げた断片が本番の芝居ではあらゆる角度から関係付けられ(関係を見出し、と言った方がいいかな?)最終的にクライマックスで一つのテーマに収束していきました。いや収束はしない時もあったか?それでもいくつもの出来事が相互に密接に関係し合ってこの世界が出来上がっていることを痛烈に観せてくれました。そこに音楽家達は魅力を感じたのではないかと思っています。
それに加えて、素人の持つ下手くそだけどパンキッシュで雑多で爆発するようなエネルギーと素人ゆえの誠実な説得力は通常の演劇にはないものでした。そこにも惹かれて多くの音楽家たちが集っていったのでは無いかと思っています。
また大きな特徴として、3つの劇団は社会的なテーマを中心に作り上げていたこともあります。反天皇制、この連載の25「特別編その5」でも紹介した山谷などの寄せ場の問題、差別問題、韓国と日本との関係等々、社会的問題をテーマに据えることが劇団の大きな柱でした。 いまの「文化は政治に口を出すな」というSNSの意見とは全く逆ですね。
それにも音楽家たちが惹きつけられたということも否定できません。音楽家だって社会的な問題に関心はあるんですよ。そしてそれに対して何とか動きたいと思うのは当然なんです。それを無視する方が無理があるんです。だって現在生きている世界で起こっていることですから。
この特別編、次のテーマはまだ決まっていませんがあと数回、もしかすると来週で最後になるかもしれません。どれだけの方に読んでいただいているかわかりませんが、できれば特別編は各章ではなく全編お読みいただけると嬉しいです。 全編読んでいただけると一つの大きな流れのようなものがわかるかもしれません。
F.M.N.石橋
:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。