特殊音楽の世界32「特別編その12:最終回」

関西NO WAVE誕生前後から西部講堂周辺の話を中心に書いていたこの特別編、ちょうど1年続きましたが、今回で最終回とします。通常の連載は続きますのでまた重要なことを思い出せばその都度触れていくことになると思います。この連載では、「どらっぐすとぅあ」の常連でもあったバンちゃん(バンヒロシ)の「万歳倶楽部」や「クラブ・モダーン」といったハブのような役目を果たした場所、企画団体「スタック・オリエンテーション」、レーベル「スケーティング・ペアーズ」、「ペリカンクラブ」や「カイトランド」といった京都の情報誌、銀閣寺のCBGB(現アンダースロー)や五条新町の「ZA- SCENE」詩の小路ビルの「deeBee’s」といったヴェニュー、そしてもちろんEP-4やローザルクセンブルグといった当時の京都を代表するバンド、といった80年代の関西文化に大きく影響を与えていた多くの事象について触れていません。もちろんそういったことを知らなかったわけではありませんが、私はそういったシーンの真っ只中にいたわけではないので書けませんでした。

私はその頃、西部講堂に居住しアヴァンギャルドな来日ミュージシャンの京都公演を細々と続けていた時期でした。punk/new waveマナーでアヴァンギャルドな音楽イベントの主催をやろうとちぐはぐなことをやっていたのは今までの連載でわかっていただけると思います。79年に関西NO WAVEのツアーをやった頃の京都は新しい音楽の動きなんてほとんどないようなものでした。ほんの数年で大きく変わっていった関西を、特に京都をとても面白く思っていました。それと同時に、こんな面白い状況が出来上がっているならば自分がやることは別にある、と思って80年代はひたすらどマイナーなアヴァンギャルドな音楽のサポートをやっていたんです。

80年代の関西、特に京都のpop/punk/new wave/avant-garde全てが入り混じって、混沌としながらも独特のエネルギーに満ちた時期のことは是非とも誰かにもっと詳しく書いて欲しいと思います。それも、あるジャンルに固定した見方ではなく、音楽に限らない関西のあらゆる文化の側面から俯瞰した視点で誰かに書いて欲しいですね。この特別編の連載では極々小さいコミュニティから生まれたものがどう繋がり合い、後々どう影響を及ぼしていったかを書いてみたかったのですがうまくいったかどうか自信はありません。 SNSでの反応を見ている限りでは、やはり多くの人はほとんど意味のないエピソードに頼った中身もない大昔の「伝説」の方を望んでいるのだな、ということを再確認しただけのような気もしています。

それはさておき、私と西部講堂の関係は、90年頃に西連協(西部講堂連絡協議会=西部講堂の自主管理団体)を離れることになり一旦途切れます。自主管理といえ大学の管理下にある場所でもあるので、大学側との交渉や駆け引きは日常業務であり、しかも巷の「西部講堂は自由な場所」というイメージとあらゆる問題への現実的対応とのギャップもあり、ストレスが相当溜まってしまったので脱退することにしたのです。この連載でも書いた89年の維新派の公演(町田町蔵客演)のためそれまで居住していた場所を維新派に提供したことがいいきっかけになりました。「自由な空間」であるための「自由」を保障するためには全く「自由」ではないことを沢山こなしていかないといけないのです。

たとえば施錠ひとつとってもそうです。自由にできる自分の場所(しかも他人と共有している)ならば自分で施錠しないといけません。自分で使うからには管理するのは自分なのです。誰かが施錠してくれるわけでもありません。そんな単純なことさえ納得してくれない人と付き合っていくのに体力を使い果たしてしまいました。しかも管理したいから居たわけじゃないですからね。このままじゃ自分のやりたいこともできないと思って一旦離れたんです。しかしその後、この連載でも以前書いた、今は作曲家/演出家として世界的な巨匠であるハイナー・ゲッベルスがいたカシーバーというバンドの来日公演のために一度だけ特別扱いで西連協に復帰しました。

以前の連載で紹介した動画と別のものを。

西部講堂って、今は知らないけど80〜90年代頃は使用者は全て西部講堂の管理に加わる、そのため一度限りの使用は認めない、という協約がありました。なので一度限りのカシーバーの公演は本来ならば使えなかったんですが、それまでの功績(?)が認められたのか特別扱いで出来ました。これも以前の連載でも書いた通り、本来ならば東京のみの公演だったのを、どうしても京都でもやりたくて招聘元へ連絡、なんとか京都でもやりたいと申し出て公演20日前に決定という無茶苦茶なスケジュールで強行しました。もちろんネットもない時代で宣伝期間もなくお客さんもあまり来てもらえず、シャレにならないくらいの大赤字でしたけど、たくさんの人に協力してもらえたし、内容は申し分ないし、終了後はとても大きな満足感を覚えました。 そしてカシーバーのゲスト・ミュージシャンで参加していた、大切な友人でもあった篠田昌已くんと最後に会った日でもありました。

そして98年に再復帰。

これはピーター・ブレグヴァッド、ジョン・グリーブス、クリス・カトラーのトリオの公演のためでした。3人のインプロ・セッション、ジョンのピアノ弾き語り、ピーターの歌のトリオ、と3日間の公演をライヴハウスではなく広い会場でやりたかったのです。
 
ピーター・ブレグヴァッド・トリオの動画。


余談ですが、このときにたのんだPA屋さん、二日目の仕込みの時に前日のインプロ・セッションのことを同僚に問われた答えが「外人さんが遊んでるだけや」というものでした。これを主催者である私の目の前で平気で言ったんで驚きました。基本的な礼儀ができていない技術屋さんも多かったんです。90年代まではまだPAなどの技術屋さんが音楽についていけてない時代でした。新しい音楽を認めない、というよりも分かろうとしない、勉強しようとしない人が多くPAオペレーターとのトラブルは日常茶飯事でした。特にライヴハウスのように音響のシステムが出来上がっているところでそういったトラブルは多かったですね。だから一から会場を設営する方がマシなのかな、とその時は思っていたのです。2000年前後から新しい音楽にも柔軟に対応するPA屋さんが少しずつ増えたので楽になりました。柔軟でないと対応できないように音楽が急激に変わっていったからだと思います。古いタイプのPA屋さんだと対応できなくなっていったんですね。

その後、2000年に自分が一番好きなバンド、スラップ・ハッピーの招聘にも関わり、西部講堂でも公演ができました。スラップ・ハッピーのメンバーでもあるピーター・ブレグヴァッドには98年に西部講堂で主催した時に日本公演ができないか訊いてみたんですけど、その時は「無理だな〜」との返事だったんで諦めていたんです。ちょうどバンド自体が長期活動休止中でもありましたし。それが突然活動再開、一番好きなバンドを一番馴染み深い場所でできたことは嬉しかったです。ライヴCDまで作れましたしね。終了後、西部講堂でできることはもうないだろうな、と思いました。でもそのことよりもボランティアで多くの人に協力してもらったことが自分の中では大きな負い目になりました。西部講堂に二階席まで作りましたしね。舞台&会場設営だけでもかなりハードなことを要求してしまいました。他人の犠牲の上に乗っかって自分の好きなことをやってるのではないか、と思いました。かなりハードなことをやってくれたスタッフ達に果たして満足してもらえたか、今でも思い返します。ボランティア前提のイベントはもうやらないしできないだろうな、と思うようになったという意味でも大きな節目になりました。

2000年以降は、規模の大小に関わらずイベントは自分の手の届く範囲、レーベルでのリリースは地元志向よりも以前にもましてその時にリリースしたいものを丁寧に作るように変わっていきました。

さて、これで特別編の連載は終了します。ある一個人の歩みから見たインディペンデントな音楽の動きから、一連の大きな流れみたいなものがもし見えていたらうれしいです。本筋から離れてしまうためここでは書かなかった小さなエピソードも沢山あります。そういうことが当時の状況をよく表すこともあるかもしれません。そこまで書くことが出来るようになればまた何処かでまとめるかもしれません。
 

次回からは通常連載に戻ります。特別編にお付き合い頂きありがとうございました 。