特殊音楽の世界34「磔磔のこと」

先日、東京ローカルの深夜「磔磔というライヴハウスの話」というドキュメンタリーが放映されました。TVerでも8月末まで無料公開されていました。

磔磔に関して今更説明は不要だと思います。

そのドキュメンタリーはロックやロックンロール中心の磔磔の歴史が描かれていました。よくできたドキュメンタリーだと思いましたが、あの映像だけでは捉えきれてない磔磔の懐の深さがあるんです。磔磔がなければ関西において過去の特殊音楽の公演は殆どできなかったでしょう。

今回はそのことについて書こうと思います。

まず、個人的なことで申し訳ないですが初めて磔磔に行った時のことを。

初めて行ったのは75,6年の頃ですね。観に行ったのはライヴではなくて維新派(当時は日本維新派)の公演でした。

舞台にプールを作りそこに泥と水を入れ役者がその泥水にまみれ、観客に向かって泥を投げつけながらパフォーマンスを行うというものでした。

ビニールシートを渡されたような覚えもあるんですが服が泥だらけになりました。初の生のアヴァンギャルドとの出会いでもあったと思います。この時に得た「わけのわからない」ことの面白さに対する追求が今でも続いているように思います。

当時は京都の主なライヴハウスはほぼ3件、維新派のようなアヴァンギャルドな公演ができるホールも少なく、そのためライヴハウスは音楽だけではなくいろんな表現に開かれていたように思います。

拾得でも(アヴァンギャルドな)アニメ作成講座や三上寛さんによる詩の塾とか行われていましたしね。

磔磔や拾得で行われた日本のフリージャズの公演もよく観にいきました。だから、というわけでもないんですが京都でアヴァンギャルドな音楽の公演を磔磔でおこなうことは自分にとって全く自然なことでした。

しかし動員は毎回悲惨でしたね。今こそ3桁前後の動員はなんとかできるようになりましたが、昔(80年代)はやはり一部の好事家しか集まらない状況でした。30人来たら大入り、というような状況でした。そのためアヴァンギャルド愛好家だけではなくロックやパンクファンにも目を向けてもらうために色々試行錯誤しながらやって、結局上手くいかなかったことは今までの連載で書いたとおりです。

そんな悲惨な動員数にも関わらず、しかも店長の水島さんは「お前のやることはよくわからんのばっかりや」と言いながらも磔磔で変わらずやらせてくれました。私主催のものだけではなく他の主催者の持ってくるアヴァンギャルドな公演も同じように受け付けていました。磔磔がなければ80〜90年代の海外のアヴァンギャルド・アーティストの関西公演はほとんどできなかったでしょう。いや関西公演ができなければ来日自体もなくなる恐れのものもたくさんありました。予算上地方公演が関西のみということも多く、しかも公演数がある程度揃わないと来日企画も成り立たないため関西公演は必要条件であることが多かったのです。だから磔磔が日本のアバンギャルド音楽を支えていたといっても過言ではないと思います。

磔磔でやることにこだわった理由はいくつかあります。

●交通の弁がいいこと-大阪、神戸からも来やすい。

●PAがしっかりしていること-これも以前書きましたが昔のPAは重い、でかい、鳴らない、の3拍子揃っていてPA機材のない会場に特設するのはかなり難度の高いことだったのです。

●バック率がいいこと-客数が少ないのにいいバック率でした。このことは本当に今でも感謝しています。

●内容に関わらず主催者(私)を信用してくれたこと-「お前のやることは全くわからん」と言いながら一度も企画を断られたことはありませんでした。

●天井が高く木造なのでアコースティックな音に合う。

これは他の主催者に取っても同じことだったと思います。

ここで一つ動画を紹介します。

水島さんにとって一番訳のわからないものだったようで終演後「おまえは〇〇ガイか」と言われましたがその後も変わらずやらせてもらいました。

それは高柳昌行さんのaction directです。 

これを大音量で2時間ぶっとおしです。

ちなみに自動演奏装置の一部は当時高柳さんの弟子だった大友良英さんが製作したそうです。

磔磔で数多くやった海外アーティストで一番記憶にあるのはデレク・ベイリーですが、デレクと同じくらい印象に強いのはハン・ベニンクとペーター・ブロッツマンのデュオです。磔磔で数回やったとおもいます。

ハンのユーモアとペーターのパワーに溢れたこのデュオは忘れられません。

ハン・ベニンクのユーモアが伺える動画がこれです。

最初の部分だけでもいいです。

お相手はペーター・ブロッツマンではないですが。いきなりシンバルを舞台に投げ込むなんて他のどのドラマーにも考えつかないことでしょう。

二人のデュオはこれを観てください。多分2014年のライヴですが。

ハン・ベニンクは1942年生まれ、ペーター・ブロッツマンは1941年生まれ、この動画の時には二人は既に70歳超えていますが全く衰え知らずです。

二人のライヴで忘れられないことがあります。

当時の磔磔はトイレが舞台のすぐ横にあったんです。演奏中、あるお客さんが我慢できなくなったのかトイレに入りました。そうするとドアの閉まる音に合わせ二人はピタッと演奏を止めトイレの方をじっと睨んでました。もしかして演奏中にトイレに行った人に怒ってる?かすかに用をたす音が聞こえます。お客さんがトイレから出てくるとものすごい勢いとパワーで演奏再開。他のお客さんは大爆笑。当のお客さんは何が起こったのかわからずポケッとした顔していました。

これを何の打ち合わせもなくやっていたのです。

状況の変化に対応するスピード感が並外れていました。パワフルでユーモアに溢れしかも息もぴったりでスピード感満載のこのデュオを何度も磔磔で観ることができたのは幸運でした。

悲惨な動員といえば映像作家としても有名なマイケル・スノウのCCMCの公演を思い出します。

お客さんはわずか3人。その内の一人はダムタイプの古橋悌二さんでした。

終演後、マイケルと古橋さんが話し込んでいるのを横目にいたたまれない気持ちでしたね。知ってますか?お客さんがあまりに来ないと口に中にスプーン咥えた時のような味がするんですよ。

マイケル・スノウの映像作品はこれ。

公演決定以前に映像作品を何点か観たことがあってマイケル・スノウにとても興味があったので関西公演を引き受けたのですが、それを音楽方面のファンにアピールすることができませんでした。第一に自分がCCMCについての情報も知識も少なかったことが原因でした。その後の企画への向き合い方も変えることになった一番苦い思い出の公演でもあります。

CCMCの演奏映像はこれです。京都公演の時とはメンバーが違います。磔磔の時はエレクトロニクスが多くてとても面白かったのですが。

磔磔のイメージはやはりロックが中心だと思うのですが、こんなアヴァンギャルドなものも受け付けてくれていたのです。

店長の水島さんは、自分の好みとは別にいろんな音楽が京都(関西)に溢れることを望んでいるのだと思います。

これはあるスタッフに以前聞いたことですが、そのスタッフは水島さんが「月に何回か“石橋がやるようなもの”があるからお前はその日に来い」と言われたそうです。

磔磔はあらゆるタイプの音楽が発せられ育つような場所だと思います。

いまではヴェニュー選びも昔とは比べようもないくらい容易になりましたが、やはり磔磔は自分にとってもあらゆるミュージシャンにとってもあらゆる音楽ファンにとっても、今でも特別な場所なのです。

F.M.N.石橋

 :レーベル、企画を行うF.M.N. Sound Factory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82〜88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。