特殊音楽の世界 36「近藤等則さんのこと」

先日、日本を代表するトランペット奏者である近藤等則さんが亡くなられました。

私は80年代前半、近藤さんや近藤さん自ら招聘した海外アーティストの京都公演をいくつか主催していました。理由は後述しますが80年台半ばには疎遠になってしまい、近藤さんの音源や演奏自体も追いかけることはなくなりました。だから私は近藤等則という巨大な音楽家を客観的に語ることはできません。

これから書くことはごく短い間とはいえ近藤さんと密接に関わり、大きな影響を受けた一個人の単なる思い出話として読んでいただけると助かります。

近藤等則という名前を初めて目にしたのは、EEU(evolution ensemble unity)というユニットの存在を知ってからでした。

その時にはまだ音も聴いたこともなく、日本の音楽界に革新的なユニットが存在し、その一員に近藤等則という人がいるというくらいの認識でした。初めて実際に聴いたのは西部講堂でのミルフォード・グレイブス(77年)デレク・ベイリー(78年)のコンサートの時だったと思います。

私にとって苦手な「jazz」の匂いが全くない、しかもそれまで全く出会ったことのない新しい音楽であったそのライヴの中でも近藤さんの演奏は際立っていました。

誤解を恐れずに言えばフライング・リザーズや49アメリカンズ(この二つの方が後聴きですが)に近いものをその時に感じていました。

近藤さんは京大卒であったこともあり、京都には学生時代から近藤さんを知る人がたくさんいました。学生時代には老舗jazz喫茶のZABOでバイトしていたこともあるらしく、ZABOのマスターからは「近藤くんはバイト中でもマウスピースを口から話さなかった」と聞いたことがあります。練習の虫だったようですね。

※)ZABOは83年頃(?)閉店、その後フリースペースとして1年ほど(?)営業、そこで山塚アイのライヴも行われていました。私はJazz喫茶時には三上寛、やスティーヴ・レイシー、ヘンリー・カイザーのライヴ等を見に行ってました。

また70~80年代に西部講堂で毎年行われていた浅川マキさんのコンサートにも常連ゲストとして出演されていました。トランペットだけではなくいろんなガジェットをガチャガチャ鳴らしながら、一聴すると曲と全く関係ない自由で勝手な演奏のようでありながらちゃんと曲のバックになっている近藤さんの演奏は毎回とても印象に残りました。その時のライヴ音源がCD化されていますので興味のある方は探してみてください。

そういうわけでもないのですが、当時京都と縁が深かった近藤さんのライヴを主催するようになったのは82年頃だったと思います。初めて主催したライヴがなんだったのかもう忘れてしまいましたが西部講堂でお客さんは20人程度だったかと思います。

そんな不甲斐ない、おまけに若くて何にも知らないくせに生意気な私を以後も主催者として声をかけてくれたのは、当時の京都に先鋭的なライヴを主催する人材がいなかったというそんな消極的な理由以外今となっては考えられません。

ある時、近藤さんから打ち合わせするから今すぐ来いと言われて、夜中の京大グラウンドに呼び出されたことがあります。行くと打ち合わせどころか「まず、体を作れ」と言われて当時近藤さんがやっていた新体道の兎跳びでグラウンド一周を命じられました。兎跳びって言ったって普通の兎跳びじゃないんですよ。このジャケットにあるような飛び方です。

普通の兎跳びでもグラウンド一周なんて無理なのにこんなのできるわけもありません。

 近藤さんは軽々と一周して、へたっている私に「だらしねえな、そんなんじゃダメだ」と言い残して打ち合わせなしで終了でした。あれは今でもなんだったのかと思いますが、もしかしたらしょうもない若者を自分のライヴを主催するにふさわしいように鍛えようと思ってくれたのかもしれません。

 兎跳びはできませんでしたが近藤さんは以後もいろいろ話を持ちかけてくれました。近藤さんは自費で海外からのアーティストの招聘と日本ツアーの企画を数多く開催していました。音楽家が自ら招聘することがよくあった当時の日本のフリージャズ界でも近藤さんの招聘数は群を抜いていたと思います。それも今から思えば78年に亡くなった間章氏の意志を継ぐものだったのかもしれません。

 以前の連載でも書いた京大の尚賢館でのイベントにもよく出てもらいました。その中でも一番印象に残っているのが近藤等則、ポール・リットン、ポール・ローフェンスのライヴでした。このツアーの録音は「死は永遠の友達」というタイトルでリリースされています。(京都の録音はありませんが。)

 この頃、近藤さんが話してくれたことがあります。「俺は、短い意識が全く無関係に高速で連なるような演奏を目指している。(大意)」まさにカットアップコラージュを思わせるような言葉ですが、そんな手法のことも言葉も一般化する前のことです。私が近藤さんの演奏になんとなく感じていた魅力の内実を、ご本人が明確に言い表したのでそのことをよく覚えています。

 それが明確にわかるのがこれかもしれません。

スティーヴ・ベレスフォードやデヴィッド・トゥープ、トリスタン・ホイジンガーのような、jazzだけではなくありとあらゆる音楽の蓄積を一瞬で引き出せる音楽家達と渡り合えるような音楽家は、当時の日本では近藤さん以外で数人しかいなかったように思います。

近藤さんの招聘で忘れてはいけないのは82年のミシャ・メンゲルベルグ率いるICPオーケストラですね。とても好きだった、ヨーロッパを代表するフリー・ジャズ/インプロヴィゼーションのレーベルであるICP(instant composer pool)を代表するオーケストラの京都西部講堂での主催を任されてとても嬉しかったです。ヨーロッパから9人招き、東京、京都、大阪で行われたツアーを近藤さんは自分で招聘&企画していました。とても素晴らしいライヴで、これももちろん「JAPAN JAPON」というタイトルでリリースされています。

 自分にとってもとても思い出深いライヴでしたが、大赤字でした。そしてそれ以上に近藤さんの方が大赤字であったと思いますが、その頃今以上にだらしなかった私は近藤さんへの支払いが遅れて大変な迷惑をかけてしまいました。

 音源をリリースするという話になって「京都の主催団体の名前を教えてくれ」という連絡にも「適当につけといてください」といういい加減な返事をしてしまいました。そのためレコード(CDにもなっています。)では主催者名がgroup Ishibashi という分けのわからない名前になっています。グループじゃないのに。

 不義理をやってしまったということだけではなく、この後くらいから近藤さんと疎遠になってきました。近藤さんは、せっかくちゃんとした主催者として育てようと思った私に見切りをつけたんじゃないかと思っています。そして近藤さんの演奏も活動姿勢もその後くらいから徐々に変わってきたように思います。

 チベタン・ブルー・エアリキッド・バンドやIMAの結成、ビル・ラズウェルのマテリアルへの参加と近藤さんの音楽のファンはどんどん増えていきましたが、逆に私の関心は低くなっていきました。そう言った関心の変化だけでなく、近藤さんの強烈な個性にも距離を置いていたつもり(数十年会ってませんでした)だったのですが、突然の訃報に自分でも驚くくらいのショックを感じています。

 訃報を聞いて、今以上に何にも知らない自分を鍛えてくれた師匠、というような気持ちを持っていたことに初めて気がつきました。その演奏だけではなく日本の音楽界にとって、とても大きな役割を果たした人でもありました。私個人にとってもとても大きな存在でした。

近藤さん、本当にありがとうございました。

長い間お疲れ様でした。

 F.M.N.石橋

 :レーベル、企画を行うF.M.N. Sound Factory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82〜88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。