VOICE OF EDITOR #6

1979年、悩める女性歌手がいた。1967年、15歳のとき中学の卒業式の日に両親と上京、16歳から錦糸町辺りで流しをし、翌年ある大きな出会いがあり、1969年に「新宿の女」で歌手デビューを果たす。そう、藤圭子である。その後「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」のビッグ・ヒットで1970年には第1回日本歌謡大賞、第12回日本レコード大賞大衆賞、NHK紅白歌合戦出場と華々しいキャリアで歌謡界を揺るがした。1971年に結婚、1972年には早くも離婚というすざましい3年があっという間に過ぎた。

藤圭子/新宿の女
藤圭子/新宿の女

デビューアルバム「新宿の女」のジャケット写真にある彼女の表情と似てるなと思ったのが、彼女の喉の手術が原因で以前の持って生まれた声の掠れがなくなったことで自分を責め引退を決めた1979年にリリースされたアーント・サリーのジャケット写真におけるPhewの表情だった。

アーント・サリー

アーント・サリーはPhew(vo) 、bikke(g/vo)、mayu(key)、y-nakata(b)、t-maruyamaの5人組のバンドだった。アーント・サリーは藤圭子のあの3年よりももっと瞬間的に燃え尽きる。まるでパンク・ロックを絵に書いたようなバンド、とでも言えばいいのだろうか。しかし、このパンク・アティテュードはその後ソロとして活動を続けるPhewの根幹であり現在まで貫かれているように思う。

——歌手、藤圭子さんが引退を決めたのが1979年でした。「歌ってるとき、話している時の表情がいつも同じで何を考えているのかわからない」「この表情の裏にはきっと何か隠している暗い過去がある」とメディアから言われていたけど「これが嘘偽りのない本当の姿だった。」とある引退を決めた後のインタビューで明かしています。アントサリーのデビューアルバムやPhewさんのカヴァー写真と藤圭子が重なるところがあるんですが、実際PHEWさんはこの頃どのようなことを考え表現しようとしていたのでしょうか?」という質問にこう答えてくれた。

Phew「78年の夏にアーントサリーを結成し、半年後にアルバムを録音し、79年の秋に解散しました。当時何を考えていたか…今、如何様にでも語れますが、それは後付けの物語に過ぎません。若さ故の焦燥とスピードで時代を駆け抜けたことは確かです。当時は、すべてが目新しく刺激的で、常に苛立ち怒っていた気がしますが、それを発散できた楽しい時期だったと思います。」

僕はアーント・サリーのアルバムの中で「かがみ」という曲が大好きで、「to to to be to to to be to to to be to be」と乱暴にライブで歌う姿を倦怠感漂うジャケットの表情にダブらせていた。その頃のPhewさんの「かがみ」には「常に苛立ち怒っていた」自分が映っていたのかもしれない。

アーント・サリー解散後の翌年1980年にPhewさんはソロとしてPass Recordsから坂本龍一さんとのコラボレーション7インチシングルをリリースした。Phewさんがカセット・テープにアカペラで録音、それを坂本さんがイコライズ、シンセサイザーでサウンドを加えたというものだ。その頃Pass Recordsではフリクション、突然段ボール、BOYS BOYS、グンジョーガクレヨンをリリースしている。僕は1980年の4/29にPhew、突然段ボール、4/30にフリクション、BOYS BOYSというラインナップでの「Pass Tour」の京都公演をプロモートしている。そして8/22にはグンジョーガクレヨンとEP-4を磔磔で行った。

Phew/終局
Phew/終局
Phew/うらはら
Phew/うらはら
BOYS BOYS/突然段ボール/pass live
BOYS BOYS/突然段ボール/pass live

——-最近人生の終章は色んな人との出会いの結果なのかなと感じてるんですが、80年代、90年代、2000年代とPhewさんを導くような、または影響を受けた出会いはあったのでしょうか?」という質問には

Phew「1980年にコニーズ・スタジオで出会った人たちから、多くの事を学びました。この経験がなければ、私は今も音楽を作っていなかったと思います。」という答えが帰ってきた。

これは1981年にPASS RECORDSからリリースされた「Phew」にクレジットされているドイツのロックバンド、CANのヤキ・リーベツァイト、ホルガー・シューカイやプロデューサーのコニー・プランクのことだろう。僕は1980年頃まだまだベールに包まれていたCANのダモ鈴木さんに90年代中頃に緊張しながら会うことが出来、彼がキュレーターとして集めたダモス・ネットワークを招聘したことがある。なんとそのメンバーの中にはCANのギタリスト、ミカエル・カローリが含まれていて驚いた。ダモ鈴木のボーカルも興味津々だったけどミカエル・カローリのギターの生音に出会えたことが嬉しかった。その後ホルガー・シューカイはソロとして招聘した。来日の際のインタビューが掲載されているという「カン大全〜永遠の未来派」(松山普也・著)が11/3に刊行されたというので楽しみだ。イルミン・シュミットとは彼が個人的に訪日した際に会ったことがあるのだけどヤキ・リーベツァイトだけは会ったことがない。Phewさんはそんな彼たちと同時代的に出会い、当時ジャーマン・ロック好きなら誰もが思いを巡らしていたコニーズ・スタジオでコニー・プランクを含む彼たちとアルバムに収録する曲を制作していたのだ。

Phew

これ以降1980年後半まで活動を休止する。

Phewさんとの本格的な交流は1996年にNOVO TONO名義でリリースされた「パノラマ・パラダイス」で始まる。繋げてくれたのは山本精一さんだったと思う。NOVO TONOは1994年に山本さんと大友良英さん、植村昌弘さん、えとうなおこさん、西村雄介さんで結成された。そのアルバムの中でも山本さんのゆったりとしたギターが印象的な曲「ささえきれない暗さ」の「猫くんのしっぽが、ぷんぷん」という歌詞の部分が好きだ。その頃僕の家には毛の長いオスの茶とらがいた。名前はサル。毛をとかさずに放っておくと丸くもつれてラスタヘアーのようになるのでハサミで切ってやるとそこだけハゲになる。上品な猫くんが台無しになった。

NOVO TONO/ささえきれない暗さ

PhewさんがNOVO TONOの山本精一さんと西村雄介さんに加えて山本久土さんと茶谷雅之さんとの4人と2000年に組んだバンドがMOSTだ。Phewさんは「またパンクがしたくなってん!」と言っていた。Phewさんの企画で「THE MOST NOTORIOUS」というタイトルのイベントを2000年11月から2010年6月の10年に渡りそうそうたるゲストを迎えて24回行った。2007年〜2009年は休止しているが理由は覚えていない。2008年にFaustを10年ぶりに招聘して六本木のスーパーデラックスにあのガラクタやコンクリートミキサーを前日に搬入していたときPhewさんに偶然あったと思う。山本精一さんのライブを見に来ていたということだった。THE MOSTは2001年に「MOST」2003年に「MOST MOST」2010年に「THE MOST NOTORIOUS」の3枚のアルバムを残している。この時期はPhewさんとメールや電話で最も多くやり取りしたのではないだろうか。僕はその頃人生で最も不安定な時期だったけど、この「THE MOST NOTORIOUS」というイベントは僕を元気付けてくれたし支えになっていた。

MOST
MOST
MOST/THE MOST NOTORIOUS/LIVE DATA
MOST/THE MOST NOTORIOUS/LIVE DATA

Phewさんは2010年に石橋英子さん、ジム・オルークさん、向島ゆり子さん、山本精一さん、山本達久さん、山本久土さんとカヴァー・アルバム「ファイブ・フィンガー・ディスカウント(万引き)」を制作し発表する。それにしても初めて会ったときから彼女の表現に対する創造力は尽きない。10/1に渋谷クラブクアトロでこのメンバーでのライブ制作をさせてもらっていた事を思い出した。Special Guestの七尾旅人さんに初めて会い、初めて演奏を観た。素晴らしいと思った。このアルバムでの「Love Me Tender」はヘッドフォンで聴くことをお薦めする。

Phew/Love Me Tender

—–1995年の阪神大震災、2001年のNYであった同時多発テロ、2011年の東日本大震災、原発事故、現在のコロナ禍。Phewさんの考え方にどのような変化をもたらしましたか?また今後どのような変化があると思いますか?」という質問にPhewさんはこう答えてくれた。

Phew「東日本大震災、原発事故の後、自分の活動の幅を小さくしていこうと考え、電子音楽のソロユニットを始めたのは2013年のことです。今年でもう7年になるんだと自分でも驚いています。最近は、西洋音楽というか、演奏の上手さ、複雑な和声、よくできたメロディー、人を高揚させる効果のあるリズム、心に響く言葉、こういった既成の基準でジャッジされがちな音楽から離れたいと考えています。こう考えるようになった背景には、間接的に阪神大震災や同時多発テロ、2011年の東日本大震災、原発事故、シリアの内戦、現在のコロナ禍などの影響はあると思います。今後のことは分かりませんが。」

クラスター、ミカエル・ローターとのデュオ、ローター&メビウスを過去に招聘した縁もあり、Phewさんにディーター・メビウスさんを紹介した。Phewさんはディーターさんと交流を重ね、作家・漫画家の小林えりかさんとのユニット、プロジェクト・アンダーク+ディーター・メビウスとのユニットで「ラジウム・ガールズ2011」を2012年5月にリリースする。「1910年代にユナイテッド・ステート・ラジウム社の工場で時計の文字盤に夜光ペイントを施す作業中に被爆した女性工場労働者たちの記憶を召喚する」というコンセプトのもと制作されたという。僕の手元にはプロモーション用のCDが1枚あった。

そして僕は同年の10月に行われた「サウンド・ライブ・トーキョー」というイベントに出演するためにディーターさんの招聘をお手伝いし、彼ののソロ公演を付随的にブッキングした。それが彼との最後になってしまった。2015年7月に71歳の若さで他界されることになったからだ。

Project UNDARK+Dieter Moebius/ラジウム・ガールズ2011
Project UNDARK + Dieter Moebius @ Sound Live Tokyo 2012

2013年の12月。大阪・東心斎橋にあるCONPASSというライブハウスにPhewさんを見に行った。こんがりおんがくのDODDODOも出るという。アナログのシンセサイザーをセットしてのソロ・ライブを見たのはこのときが初めてだ。1時間ほどのライブだったが音圧と音の分厚さに圧倒され頭と目がステージに釘付けになった。ステージが終わり機材を一人で片付けるPhewさんに「手伝うわ。」と声をかけると「アナログのシンセ買ったから今大変やねん!」と嬉しそうに言っていた。「音作りはお金」ってellekingのインタビューで言ってたのはこのことだったのか。こういうライブを続けることが2015年にリリースされたアルバム「A New World」に繋がっていったのかな?全体的に緊張感溢れる内容の中最後の曲、日本の歌百選に入るという「浜辺の歌」に身も心も現実に引き戻される。

Phew/A New World
Phew/A New World

Phew「2010年のThe Raincoats初来日の際、サポートしたことがきっかけでAnaと連絡を取り合うようになりました。2016年のロンドンでのコンサートにAnaが見にきてくれて、その後、音源ファイルを交換しあって完成したアルバムが一昨年リリースされたIslandです。」

The Raincoatsのアルバム確かあったよな?とレコード棚を探す。10分程で見つかった。スリッツにインスパイアされたスリッツのメンバーを含むロンドンの女の子だけで結成されたのがThe Raincoatsだ。1979年にラフ・トレードからリリースされたファースト・アルバム「The Raincoats」はアーント・サリーのようなパンクな曲が多い。プロデュースはペル・ウブのメイヨ・トンプソンとレーベルの社長ジェフ・トラヴィス。ペル・ウブは一度招聘したことがあるのでメイヨ・トンプソンには会ったことがある。個人的には1981年にリリースされたセカンド・アルバム「オディ・シェイプ」が好きだ。ジョン・ライドンがPILで見せたポスト・パンク、オルタナティブな自由奔放な方法論で音を紡ぐ。元PILのリチャード・ドゥー・ダンスキーに加えてドラムでディス・ヒートのチャールズ・ヘイワードやロバート・ワイアットがゲスト参加しているのも頷ける。ロバート・ワイアットはすごく好きで最も招聘したかったアーティストの一人だった。数回ファックスでやり取りしたことがあるが、彼はもうその時には事故の後遺症が下半身に残り移動することが困難になっていたために旅行は控えたいとの理由で丁寧な断りの返事が来た。メンバーがアーティスティックな指向性を持つネットワークを持っていたことで、Phewさんとアナ・ダ・シルヴァさんの気が合うのも納得できた。

The Raincoats
The Raincoats
The Raincoats/Ody Shape
The Raincoats/Ody Shape
Phew/Island
Phew/Island

「Island」はPhewさんとAnaさんが交わした通信の賜物だ。日本語と英語がアナログシンセサイザーの音が交差する空中を飛び交う。出会いとその後のコミュニケーションが産みだした至高の作品だ。

——最近のPHEWさんの作品、「ラジウムガールズ2011」「Voice Hardcore」「Vertigo KO」を聴いていると、言葉を超えた声の存在、影響力を強く感じます。MOSTというバンド形態からアナログシンセでの表現方法に変化したことと何らかの関係はあるのでしょうか?

「自分では意識したことがないですが、声の存在がより強く感じられるとしたら、『ラジウムガールズ2011』『Voice Hardcore』『Vertigo KO』は、基本、無調音楽だからかなと思いました。」

先日「音楽フリーク注目のレーベルDisciplesから初の日本人アーティスト作品となる『Vertigo KO』を9月4日にリリースしたPhew、、、、」という案内がBEATINK Recordsから来た。僕は思わずアナログ盤をAmazonでポチったが後にPhewさんからCDの方が日本語のライナーも付いてていいのに、、」と教えられ少し悔しかったけどまぁいいかっ。でもそうか、「Vertigo KO」という曲が入ってないのか、、、。「Voice Hardcore」からこのアルバムに1曲収録されているという「Let’s Dance Let’s Go」に触発されて「Voice Hardcore」を後追いで聴いた。声を中心に構成された曲たちが一塊の音群として迫ってくる。「Voice Hardcore」をより前に編集し進めていることがよくわかる。最後の美しく短い曲「Hearts And Flowers」が次のアルバムのヒントになっていて現在レコーディング中という。Phewさんの作品にどんどん蟻地獄のようにはまり込んでいく理由がここにある。

Phew/Voice Hardcore
Phew/Vertigo KO
Phew/Vertigo KO

The Raincoatsのファーストアルバムからのカバー曲が収録されていた。

Phew/The Void

「Phew/Vertigo KO Live Streaming」を観た。東京・渋谷WWWからのライブ配信だ。映像と一体化して淡々と進行していたライブだが後半に入り機材がセットされたスタンドが倒れるんじゃないかと思うほどPhewさんの身体が揺れ始める。言葉ではなく声が直接脳に入り観念的なある種の意味として認識される。脳内の快楽物質が神経系統を刺激しテンションがあがる。これはまさしくパンク・ロックだ。

Phew/Vertigo KO

——今後の予定を教えてください。

Phew「今、新しいアルバムのミックスダウンをやっています。来年の春にリリースする予定で作業を進めています。その他にも過去のライヴ音源がリリースされる予定です。あと、10/30にNYのIssue ProjectのwebでAna da Silvaとのコラボレーション作品が公開されます。今年のEUツアーは来年の初夏と秋に延期になりましたが、こちらはどうなるかわかりません。」

——11月にZombie-changという若いエレクトロ・ミュージック・シンガーと共演されますよね?彼女を含めて海外でもエレクトロ・ミュージックでの表現を中心にした女性シンガーの存在が多くなってきています。このような動向をどのように思いますか?」

Phew「そのような動向に気がついたことがなかったのですが、本当なら、いいことだと思います。」

文:南部裕一

Phew × ZOMBIE-CHANG + LIVE STREAMING

2020.11.22 Sun.

18:30 open/19:30 start

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