実録 関西パンク反逆の軌跡 第1回

初めまして。関西パンク史家の西村明と申します。私は雑誌DOLLにこのコラムと同名の連載を持っていました。関西パンク・ムーブメントの当事者にインタビューする内容でした。ところが同誌は2009年8月号で廃刊。新しい発表場所が見つからないまま11年が過ぎました。此度スマッシュウエストの南部裕一ボスのご厚意で企画が復活する事に。感謝の気持を込めて初回は南部氏との出会いを書いてみます。

1979年、私はスーパーミルク(写真 1979年京都大学11月祭 軽音茶屋にて)というパンク/NWバンドのベーシストだった。バンドは京都大学軽音楽部に所属していて西部講堂に向かって右側にあった部室で週に2回6時間は練習していた。部室は木造で音は外に漏れ放題だった。

10月のある日、私達が練習しているとアーミー・ジャケットに黒スリムの学友会風の一団がどやどやと入って来た。西部講堂でコンサートを企画していたプラスティック・ファクトリーの人達でその中の一人が南部さんだった。代表の坂下氏が「君等が練習している音がいつも西部の事務所に聞こえとった。面白いサウンドやね。ストラングラーズが再来日するけど前座やらへんか?」。リーダーの阿頼耶歩(あらや・あゆむ)が「うん、ええけど俺等ヘタクソやで」と答えあっさり出演が決まった。ホンマかいなと耳を疑うた。この年2月にストラングラーズが初来日、15日が西部講堂公演で前座は東京ロッカーズのリザード。つまり私達スーパーミルクはリザードと同格扱い。ライブハウスにも2回しか出た事が無い駆け出しバンドやのに破格の抜擢である。「僕等と違うてもアーント・サリーとかありますやん」と尋ねると「解散した」、アーント・サリーは10月4日にサーカス&サーカスで観たばかりで解散は初耳だった。「INUは?」、「あいつ等、生意気や」。

「何とか恰好つけなあかん」が私達の喫緊の課題だった。手っ取り早くバンドをパワーアップさせるために阿頼耶がYAMAHAモノフォニック2VCOシンセサイザーを購入、キーボードの升谷文夫は徹夜を重ね奏法をマスターした。

そうこうする内にストラングラーズの翌日の12月16日にも南部さん企画のシリーズ・ギグ「SPUNK OUT2」(※1)にフリクションのサポートとして磔磔に出させてもらえる事になった。

更に12月31日、西部講堂の大晦日コンサート「REVO’80」(写真)にも。対バンはX、キャラバン、グンジョウガクレヨン、だててんりゅう、突然ダンボール、チャイニーズ・クラブ、ザ・ノーコメンツ、不正療法、フリクション(五十音順)。
何でこんなにも厚遇してもらえるのか不思議やった。

京大西部キャンパスの東大路に面したフェンスにストラングラーズ「…JUST 10 MONTHS AFTER」のポスター(写真)がデカデカと貼り出された。私達はSHOCKING DEBUT!! SUPERMILKと紹介されていた。晴れがましかった。

当時のポスター。懐かしい。

いよいよ12月15日。西部講堂の楽屋でジャン=ジャック・バーネルに「Are you P-MODEL?」と尋ねられた。私達は口を揃えて「No,we are SUPERMILK!」と答えた。

私達が西部講堂のステージに出て行くなり「帰れ」コールが巻き起こった。ひ弱そうな私達はヤンキー・パンクスにとって恰好の生贄と映ったのだろう。情けなかった。「帰れ言うんやったら演奏を聴いてからにせえや」と思うたがよう口に出せんかった。おとなし目の曲を一曲カットして何とか出番を終えた。ストラングラーズは新譜「レイブン」の曲をようけ演奏していて前回よりポップな印象を受けた。

翌16日、軽音の部室でドラムセットをクルマに積み込み磔磔に入るとフリクションのチコ・ヒゲが満面の笑みで「ハ〜イ、僕フリクショ〜ン!ドラム貸してね〜」。コワモテなイメージと裏腹な軽さのギャップに目眩いがした。サウンド・チェックの時に「シンセの音量を上げて下さい」と口を酸っぱくしてお願いした。残念ながら本番は普通のロックバンドのバランスでPAオペレーターとのセンスの違いを感じた。

フリクションのメンバーは楽屋でひそひそ打ち合わせしてはって近寄りがたい雰囲気。ツネマツ・マサトシが阿頼耶の銀色にペイントしたテスコ製ムスタング・モデルのエレキをしゃがみ込んでじっくりチェックしてはったのを覚えている。
この日の動員は80人くらい。磔磔の椅子席が埋まる程度の入り。

私達が出て行っても野次無し。演奏をじっくり聴いて頂けて嬉しかった。
フリクションは一曲目「オートマチック・フラ」からフル・スロットル、縦乗りながらヘビー、ぶっ飛んだグルーブの演奏。観客は未知との遭遇状態。圧倒的なパフォーマンスに呆気にとられアンコールの拍手も無かった。彼等の演奏後にポリス「白いレガッタ」B面が流れた。場をチルアウトする様な「ウォーキング・オン・ザ・ムーン」が胸に染みた。

この日のフリクションのライブはレック自ら「奇跡の演奏」と評してはる程の名演で翌年12月に「_ed’79 Live」(※2)としてレコードがリリースされた。

FRICTION/ ed ’79 LIVE

終演後にギャラを2万円頂いた。南部さん曰く「前日の入りは800人。前回は900人で前座のギャラも出たけど今回は無理」。「前日と併せて2万円でも問題無かったのに」と答えると「その辺はきっちりしとかんと」。堅い人やと思うた。この律儀さ故に南部さんは長くイベンター稼業を全うしてはるんやと思いますわ。

※1/SPUNK OUTは月1で関東と関西のパンク/NWバンドを一組づつVSで紹介する趣旨のイベント。初回は79年11月22日磔磔で出演はSPEED、ノーコメント。SPUNK OUT 2のチラシは手元に無い。制作されへんかったのかな?お持ちの方はご一報下さい。

※2/私達はこの日ソニーのカセットデンスケを持ち込み磔磔の階段横のベスト・ポジションにマイクを2本立ててステレオ録音した。自分達の演奏だけで無くフリクションのも無許可で録ったのだから厚かましい。主催者の南部さんやフリクション側からも何のお咎めも無かった。フリクションの音源はスパミのメンバー内で門外不出で管理していたがいぬん堂の石戸圭一さん経由でレックの元に届き2005年に「’79 LIVE」としてP-VINEでCD化された。