VOICE OF EDITOR #7

明けましておめでとうございます。

この1年が長かったのか短かったのかよくわからず実感ないいんですけど、どうやら生き延びてます。新型コロナウイルスは進化を続け、感染拡大は第3波を迎え、僕たちの世界は医療機関崩壊ギリギリ手前で踏ん張っている。

国会は相変わらず何をやってるんだろうね。学級会じゃないんだから「〜さんのスカートめくったなんてよく覚えてませ〜ん。」っていつまでもやってろよ。内閣も官僚さんたちもコロナウイルスのようにどんどん進化してほしいものだ。

今回は僕の「よく覚えてませーん」という記憶を頼りに1970年後半の思い出を書いてみたいと思います。

1966年というから小学校4年生だったころ始まった円谷プロ製作の特撮ドラマ「ウルトラQ」は多感な少年の心を鷲掴みにした。母にはディズニー映画の「白雪姫」や「ピーター・パン」の吹替版を観に映画館へよく連れて行ってもらっていたが、「ゴジラ」シリーズは母に興味がなかったのか連れて行ってもらえなかった。「ウルトラQ」はTBS系列での時間帯は「武田製薬」提供枠、所謂「タケダアワー」の30分番組のひとつだ。その中でも有名な「月光仮面」は当時我家が下宿していた京都の千本丸太町にあった大家さんのお兄ちゃんが好きだったので一緒に見ていた記憶がうっすらある。「裕一ちゃん!7時やで、月光仮面見よー」と誘われ、2階にあった我々家族の部屋に駆け上がり白黒テレビに視線を注いだ。自分から積極的に見出したのは1962年に始まった時代劇ヒーロー物「隠密剣士」からである。1966年からの「ウルトラQ」はその後に全28回放送された。テーマは『怪獣や異星人、怪奇現象が問いかける「自然と文明の調和」だった』と現在朝日新聞「人生の贈り物」に登場しているスーツアクター、古谷敏さんはその中で語る。古谷さんは1966年「ウルトラQ」第19話「2020年の挑戦」にケムール人という異星人役と20話「海底原人ラゴン」のラゴン役で登場した。そしてその後のシリーズ「ウルトラマン」のウルトラマン役に大抜擢されたのだ。小学生だった僕はそのテーマの重要性をわけがわからないまま28回に渡り徹底的に叩き込まれた。

先月、担当している1980年代のジャパニーズ・パンク・ロックのオリジネーター、亜無亜危異のライブが東京の神田明神ホールであったのでその前の日に東京ドームシティーで行われていた『特撮のDNA/ウルトラマン』展に行ってきた。ウルトラマンは仮面ライダーと同じように現在放送中の「ウルトラマン Z」まで「ウルトラの母」や「ユリアン」「アストラ」まで含むと50人(ウルトラマンを人として)が存在する。そこに来ていた人は僕と同年代の方を中心に比較的若い層も来ていたように思う。「シン・ゴジラ」と同じ庵野秀明氏と樋口真輔氏のコンビによる「シン・ウルトラマン」が2021年夏に公開されることが告知されているからかもしれない。歴代のウルトラマン・スーツが並び、特撮には欠かせないミニチュア模型や科学特捜隊のヘルメットや衣装、スーパーガンやスパイダーショットなどの小物類の展示もあった。円谷プロの母屋の奥にあった小屋で撮影されていたという「快獣ブースカ」(1966年11月9日〜1967年9月27日放送)のスーツが展示されていたのには感激した。ブースカが失敗したときに「シオシオのパ〜」と言って元気がなくなる姿が頭の中で蘇った。そしてウルトラマンと「肝っ玉かあさん」(1968年4月4日〜11月28日放送)の主人公役、京塚昌子さんとのツーショット番宣ポスターの展示にも懐かしさがこみ上げた。

僕はキャプテンウルトラを挟んで2人目のウルトラセブンまでで中学に入学し野球部に入ったと同時に卒業してしまった。東宝や大映の怪獣ものにも中途半端になってしまった。この歳になって目覚めたのはINOYAMALANDの井上さんがゴジラや怪獣が好きで「ゴジラ伝説」でゴジラの映画音楽をやっていて、そのライブ制作に関わったことも大きく影響している。僕はようやくそんな人達と仕事ができるようになったと思う。

大学に入って始めたアルバイト先で知り合いになった脇坂君とは色々将来のこととかをアルバイト中、アルバイト後に話をした。ちょうどその頃キャンディーズが解散ライブに向けてオールナイトニッポンでパーソナリティーをしていたから1977年の晩秋のことだ。彼がアルバイト先に乗ってきていた車を無料パーキングに停めて車のラジオでその番組を聞きながら話をしたこともあった。僕が将来ライターになりたいという話をしたとき、彼のお父さんの知り合いに映画の看板を描いている竹田さんという方がいて、息子さんが雑誌を始めるので会ってみるかと言ってくれ、その言葉に甘えて会うことにした。なにかの展覧会の準備をしているとのことでその会場に会いに行った。その人はなんと1979年に「宇宙船」の企画・構成を担当され、日本のサブカルチャーにおける第一人者、あの聖咲奇さんであり、竹田さんは京都の河原町や新京極の映画館の手描き看板を手がけられていた伝説のタケマツ画房を創業された竹田猪八郎さんの息子さんで竹田耕作さんだった。そこで僕は辛酸を舐めることになる。音楽ライターになりたいと意気込んで会いに行ったはいいが、どんなのを聴いているのという質問にプログレッシブ・ロックが好きですと答えた僕に何が好きと間髪入れず訊かれ、ピンク・フロイドですと答えた。どう?と目で合図をされた彼のアシスタントに「う~ん、ピンク・フロイドはプログレじゃない」と言われ、見せた原稿に対して「音楽をそのまま言葉にするだけでなく何かと関連付けて書かないと自分らしさが出ないよ」という聖咲奇さんのお言葉にギャフンと粉砕。好きなことで食っていこうとする人は積極的にその世界に足を踏み込まないとだめということを思い知った。

http://www.saquix.com/index.html

その辺りから聖さんらの薦めがあったロックマガジンを読み始める。そこで紹介されるヨーロッパのロックを中心に片っ端から聴き始める。ノイ!やハルモニア、クラスター、カン、ファウストなどのジャーマン・ロックやゴングやらロバート・ワイアット、カンタベリー系、、、etc、etc、、、。すっごいパンクでニューウェーブなサウンドに影響を受け、新鮮で真っ白な気持ちになって、何でもやってみようということで始めたのがミニコミ作りだ。そう単純なんです。『ROCK MEDIA』というタイトルをノイ!のロゴを真似て筆で書いた。

同志社大学のDRAC(同志社レコード音楽研究会)というサークルがあって、そこにいた松原くんと知り合ったのはその頃だった。彼とどのように会い、話し、意気投合したのか記憶にない。日記でも書いていればよかったとか思っても後の祭り。そして今となっては彼と話すことはできない。松原くんは惜しくも2003年に亡くなってしまったからだ。僕はそのことを後日知らされ、不義理にも今年になるまで墓参りにも行っていなかった。今回からここでコラムを書いてくれることになった西村氏が彼の弟さんの連絡先を調べてくれこの10月にようやく墓参りを果たすことができた。

同じ同志社大学だった浜野女史とは1977年ころ知り合った。浜野さんと初めて会ったのは、『ROCK MEDIA』を作り出す前から所属していた『City Art企画社』というサークルに突然来たからだっただろうか。それからは浜野女史が僕の彼女かと勘ぐられるくらい一緒に行動を共にした。しかし、彼女との出会いが今の僕を作ったと言っても過言ではない。そこから次から次へと出会いが生まれる。

彼女はシーザリアン・オペレーション(1972年結成、そのvo/gのKajaさんは後にKaja & Jammingというレゲエバンドを結成し、僕は深く関わることになる)というハードロック・バンドのファンで。同志社大学の学生会館ホールで彼らがやるので一緒に見に行ったことがある。日本のプログレッシブ・ロック黎明期を支えたノヴェラ(1980年結成〜1986年解散)の前身バンド、シェラザード(1977年結成〜1979年解散)や後にノヴェラやACTIONへとなっていくヴィジュアル系ロックバンドのオリジネーターと言える山水館(1973年結成〜1978年解散)も一緒に見に行ったなぁ。神戸の新開地にある商店街通りを抜けた公園に作られた特設ステージでのライブだった。その日の仕事にあぶれた人やホームレスのおっちゃんがステージ前で踊っていた。浜野女史と行ったライブの中で僕の一番の思い出は磔磔にBrainwaveというバンドを見に行ったときのことだ。どこからその情報を仕入れたのかは定かではない。磔磔に着いた頃辺りはもう暗くなっていてライブは始まっていていた。Brainwaveはエクスペリメンタル系ロックで裸のラリーズをもっとハードにしたサウンドでタイトなドラムに交錯する手製のエレキギターから叩き出されるディストーション系サウンドが印象的だった。最後の方にステージに上ったゲスト・サックス奏者は確か阿部薫と紹介されていたはずだ。ひょっとしたら物凄くレアな体験をしていたのかもしれない。ライブ終了後にメンバーと少し話したんだけど、もっとしっかり色々と訊いておくべきだったし記録しておくんだった。磔磔の過去スケジュールにその名前は見当たらない。バンド名を間違って覚えていたのか?幻のライブだった。

そして浜野女史にかの故阿木譲氏が発行されていたロックマガジンにも寄稿されていた渡辺仁さんを紹介され知り合った。その頃渡辺さんは特撮にすごく興味を持っておられた。京都の円山音楽堂の近くにあったお寺の離れに下宿されていて、浜野さんにそこへ連れて行ってもらったことがある。細い山沿いの道を抜けた先にあるお寺の離れと思しき部屋で自作のジェット機がレーザーを発射する特撮フィルムをみせてもらったり、ウルトラマンのテーマソングをカセットで聞かせてくれ「このリズムはロックだろう。ウルトラマンでロックが初めてヒーローものドラマでテーマソングにされたんだよ。」とかいう話をしてくれたことを鮮明に覚えている。

記憶が曖昧になっていて時系列があやふやなんだけど、京都の拾得でだててんりゅうと飢餓同盟というバンドを浜野女史と一緒に見に行った。だててんりゅうは別の日だったかもしれない。飢餓同盟は前述の同志社大学の学館ホールにシーザリアン・オペレーションを見に行ったときにも一度見ていたがその時に飢餓同盟のゲスト・ギタリストとして来ていたのが連続射殺魔の和田哲郎君だった。

和田くんは1976年にまず、東京から大阪に移住した。ロックマガジンの阿木さんに誘われて大阪に来たという説もあるが僕は渡辺仁さんとの関係が大きいと思っている。和田くんがまだ東京にいる1976年頃に浜野純さんと山本哲さんとの3人で組んでいた連続射殺魔。カセットテープ「連続射殺魔 II」の歌詞カードに『art direction:GLORIA FANS & J.WTANABE From SPACE FISH PRODUCTION』というクレジットがある。渡辺さんが阿木さんにそのテープを聞かせ、大阪に来ることを薦めたのではないか。手元に残っているカセットテープは渡辺さんからもらったのかどうか、浜野女史からもらったのかもしれない。その時に渡辺さんと連続射殺魔のことを話したかどうかは覚えていない。とにかくそのテープを聴いてブッ飛ばされたのを覚えている。日本のロックという概念を壊すには充分パンクだった。僕はB面の1曲目「割れた鏡」が好きだ。

しかし僕が初めて和田くんを見たときは、このテープにあったサウンドではなくインプロヴィゼーションによる演奏だった。推測だが、和田くん、浜野純さん、山本哲さんによる連続射殺魔は渡辺仁さんからの紹介で園田佐登志さんが明治大学で主宰する『現代の音楽ゼミナール』に一時期参加する。そこには前衛的なフリー・インプロヴィゼーション系の人たちが集まってきていた。浜野純さんは山崎春美さん、大里俊晴さんと究極までスピードを追求するガセネタというバンドを通過し、灰野敬二さんの不失者に参加することになる。和田くんが浜野純さんらと別れる経緯は知らないが、和田くんも『現音ゼミ』で何らかの影響を受けたのかもしれない。

そこに集まった人たちがライブの拠点にしたのが吉祥寺マイナーだ。佐藤隆史さんがジャズ喫茶として始めた場所が1970年代後半のアンダーグラウンド・ミュージック・シーンの拠点となる。関西から見れば『吉祥寺マイナー』は輝いていた。ガセネタにいた大里俊晴さんが発表する「ガセネタの荒野」という本を読むとガセネタのドラマーにもなった佐藤さんのことをこのように書いている。「絶対的な諦念。何が起こっても、何を失っても、まあ、それはそれでしょうがないんだから。彼は、いつもそう言っているように見えた。あらゆる物に対する、奇妙なまでの執着の放棄。」そして本人、既にマイナーを閉めていた佐藤隆史さんへのインタビュー(1994年・イーター1号)を読むと「とにかく、毎日毎日やりたかったんだよね、病気のように。週一回とか待ってられなくてね。毎日毎日。」と当時のことを振り返る。そうか、そういう人がいないと「何か」は残らないんだよ、きっと。

吉祥寺マイナー、新宿ロフトで東京アンダー・グラウンド・ミュージック・シーンが育ち始めていた頃、僕は浜野女史と関西のプログレッシブ・ロック・バンドを集めたライブイベントをしようと話で盛り上がっていた。まず連続射殺魔にオファーを出すためにそんなシーンを通過してきた、過去のテープの音は出さない、大阪から京都に移ってきた和田くんに会った。京阪電車の宇治駅で降りてどこをどうやって、どのように道を辿ったかは忘れたが、茶畑を抜けた先の離れに彼は住んでいた。グーグルマップや携帯電話もない時代、電話で確認しただけなのによく辿り着けたもんだ。和田くんは京都の今熊野に住んでいたイカと呼ばれていた福井くん(b)と「連続射殺魔 II」のテープのクレジットにもあった川辺くん(d)とでやってみると言ってくれた。帰り際に見た茶畑の緑が眩しかった。

候補として上がっていた飢餓同盟と天地創造に会うためにリハーサルをしている学校のような建物の中にあるスタジオのある神戸に行った。飢餓同盟の小西くんは1977年の12月から泉くんとDADAというユニットを組んでいた。アナログ・シンセサイザーとギターによる叙情的なサウンドはドイツのアシュラ・テンペルを思い起こさせるようなプログレッシブ・ロックだった。天地創造も1977年にバンド名をアイン・ソフと変えていた。1970年代のプログレッシブ・ロック、ジャズ・ロックの影響を色濃く受けた日本人に突き刺さるメロディーを奏でる数少ないバンドだ。「名前やサウンドが変わってるけどそれでもよければ」というマネージャーの山田さんの言葉を断る理由はなかった。

僕たちの初めてのイベントはちょっと大袈裟くらいがいいかということで「意識革命」と名付けられ、1978年6月16日に同志社大学の学生会館ホールで行うことになる。ポスターもフライヤーも残してないし、記録写真も残していない素人丸出しだった。開演前に浜野女史の「録音せんでええの?」との一言でカセットテープを買いに走り音響さんにお願いして録音してもらった。残っているのはその音源のみ。動員は200名くらいだった。その時はもうちょっと来てほしかったなと思っていたが、今考えると、どのバンドもまだ音源を発表していないし、これからのバンドだったのでよく集まったんじゃないだろうか。DADAはこのイベント後すぐの7月、ロックマガジンの阿木さんが主宰するVanity Recordsからアルバム「浄」をリリース、1981年にキング・レコード/NEXUSレーベルから「DADA」でメジャーデビューする。アイン・ソフは1980年にアルバム「妖精の森」をキング・レコード/NEXUSレーベルからリリースしデビュー。その後9枚のアルバムを発表し現在も活動を続けている。

連続射殺魔は1978年3月に東京・渋谷屋根裏で「意識革命」のときと同じメンバーでライブをしている。その時のライブ音源はCDでリリースされている。和田くんはこの頃住んでいた宇治市の茶畑の離れの下宿から京都市左京区の幽霊で有名な深泥池の近くに引っ越しする。そこでのミーティングからスッチャカメッチャカ、波乱万丈、七転八倒の1年6ヶ月のストーリーが始まる。(南部裕一)