実録 関西パンク反逆の軌跡 その3

Annie’s cafe

竹埜剛司(たけの・つよし)は京都深草のライブハウスAnnie’s cafeの店長。
1978年、15才で京都初のパンクバンド・SSのオリジナル・メンバーとしてベースを担当。以来チャイニーズ・クラブ〜イディオット・オクロック〜ラ・プラネット〜アイ・ラブ・マリー〜変身キリンと関西パンク創成期の伝説的バンドのベーシストを歴任した。
今回は彼にSS結成に至るまでを話してもらった。

「僕は1978年に鴨沂(おおき)高校の定時制に入学しました。同じクラスで前の席に座っていた人が篠田君(注1)」

運命の出会い(笑)。

「彼は先輩なんですが2回か3回落第していて身分の上では同級生。みんなよくサボったりするんで初めの内から全員揃っての授業とか行事は無かったですね。篠田君も学校に来ない事の方が多かったんですが、たまに登校しても授業が退屈なんで後ろの席に座ってる僕とずーっとロックンロールの話をしていましたね。彼は高校生なのにリーゼントで授業中もレイバンのサングラスしっぱなしなんですよ(笑)。度が入ってるんで必要だったんですけど。洋服もビンテージのジーンズとかボロボロのスタジアムジャンパーを着てるんでてっきりロカビリーの人と思ってました。原宿ローラー族のチェリーボーイズとかその辺りのバンドにすごく詳しくて色々話をしてくれましたね。
そうこうする内に一緒にバンドをやろうという話になって僕はベースを始めました。彼が理想とするバンドの在り方は練習やミーティングだけ集まってライブ活動やって運営していくのでは無くて、メンバーが常に一緒にいて毎日の様に徒党を組んでブラブラあちこち遊びに出歩く、そういう感じで楽器を持つ前に先ずは始めたいと。彼は古着が大好きだったんでしょっちゅう一緒に古着屋さんを巡ってましたね。彼のヤマハ・ボビィっていう50ccのバイクに二人乗りで。それと輸入レコード店も。

校風は自由でしたね。万事にゆるかったんですが暴力行為だけはNG。即退学でした。
学校には音楽研究部ていう40名くらい部員がいるマンモス・クラブがありました。部室、講堂と大きなホール、教室も5つ開放してくれていてバンドの練習が出来たんです。毎晩8ヵ所で8バンド(笑)。
授業は21時終了で音出しは22時まで。部員は少しでも長く練習したいんで授業をサボって使える教室にドラムセットをあらかじめ組み立てていましたね(笑)。
クラブに所属したら練習場所が確保出来るんで入部して部にいたギターとドラムを篠田君と僕がやってるバンドに入れてロックンロール・バンドをやり始めました。
篠田君がボーカルとギター、僕がベース。三谷君っていう僕の同級生がギター、彼は後にRAGに入社してオペレーターの仕事をやってました。ドラマーは松浦義則君。ステージ・ネームがバットマンよしのり(笑)。もう亡くなってるんですけど建設会社の松浦組の息子でロックンロールが大好きでしたね。ちょっと天然でデブなんですけど妙にお洒落でロカビリーの様な古着を着たりアーミー・ファッションしてみたりとかこだわりを持ってましたね。
僕等はお金が無いもんですから彼が松浦組のアルバイトに雇ってくれて様々な現場に派遣してくれたんですよ。その流れでビート・クレイジーの頃にはパンクバンドのメンバーがよくバイトで世話になっていました。
その人をリーダーとしたバンドで転がり始めてバンド名がバットマンよしのりと恋のKOパンチ(笑)。篠田君が考えた力作。ドリフの映画みたいな(笑)」

「恋のKOパンチ」はエルビス・プレスリーの映画の題名ですね。

「レパートリーは『バットマンのテーマ』から始まって判りやすい『スパイダーマンのテーマ』とか簡単に出来るロックンロール、『ロング・トール・サリー』とかプレスリーやオーティス・レディングの曲も。篠田君が歌えそうな曲を演ってましたね」

「8.8ロックデイの京都予選があるんで僕等もエントリーしました。バットマンよしのりは下手糞過ぎて自信が無くなって自ら辞めていってリーダーが不在になったので年上の篠田君に移行しました。次のドラマーが名前は忘れましたけどロン毛にサングラスで見た目はハードロックだけどシンプルなロックンロールが好きなタイプ。丁度いいんで入ってもらいました。ギターも三谷君が抜けて、しょうじ、しょうちゃんていう全然弾けなくてパフォーマンスするだけの人がいました。近衛辺りの散髪屋の息子で年は僕より上で篠田君より下。ヒョロっと背が高くて取り敢えず派手な格好して踊ってるみたいな(笑)。
予選が迫るにしたがってバンド内の空気が『篠田君ではボーカルに問題がある』(笑)。『どうにかならないか?』とコンテストのためだけのつもりでOBの柳沢民造、通称トミーに『8.8の予選に出るんで歌ってよ』と。彼はクラブの練習の時間になると仕事が終わってからよく顔を見せてくれてセッションやったり遊びの相談をしたりディスコに連れて行ってくれたりしててその流れで頼みました。

磯野君は「トミーは広告代理店勤務でファッション・ショーの企画をしていて月の半分は海外出張」(注2)と発言していました。

「西木屋町にあったジミー・クラブっていうロカビリー・クラブのハコバンがジミー・ブラザース。ボーカリストが3人いてトミーはその内の1人。ガールズってイリヤがギターだったバンドがあったでしょう?彼女達はデビュー前にしょっちゅう藤井大丸の屋上であったフリー・コンサートに来ていたんですよ。前座がジミー・ブラザーズでトミーがボーカルでした。その頃僕は中3でよく観に行ってたんですよ。高校に入ったらトミーがOBでいたんで『あのジミー・ブラザースのボーカルの人が!』と驚きました。
トミーが入ってSSを名乗りました。
8.8の時の彼のスタイルがストラングラーズのヒュー・コーンウェルみたいに前髪がギュルギュルとカールして垂れ下がっててサイドは撫でつけてる不思議な髪型で、Tシャツが丸見えになるメッシュのオーバーを重ね着して、後にシド・ビシャスで有名になるキー・チェーンのネックレス、まだ日本では知られてなかったのを付けてました。僕は知り合いから貰ったテンプテーションズみたいなコンポラのスーツを着て、顔は黒く塗ってませんが(笑)、リズム&ブルースのコスチューム。篠田君はリーゼントにブルーとか銀のラメを振ってましたね。演奏は上手くなかったけど兎に角派手なバンドでパフォーマンスが面白いと敢闘賞を頂いたんですよ。

磯野君がクラブで連れ立って応援に行った、君達は化粧していたと発言していたけど?

「しょうちゃんがニューヨーク・ドールズみたいな女装してましたね。僕自身はメイクしてたかな?取り巻きに女の子がいましたからね、アイメイクくらいはしてもらってたかも」

演奏したのはオリジナル曲? 

「いや、トミーが直前までジミー・ブラザーズで歌ってたんで彼が歌いやすいカバーの持ち曲を演奏しましたね。
僕達は真面目に練習して出たんだけど京都予選は出来レース。後で教えられて知ったんですけど主催のJEUGIAが推してるバンドのジャマイカを優勝させて更に盛り上げる為の名ばかりのコンテストでした」

「礒野君はモット・ザ・フープルとかグラムロックがすげえ大好きで僕達に惹かれて。僕はドラマーを辞めさせて彼を入れたかった。磯野君は広島から転校して来て僕と同じクラスで」

という事はしのやんと3人一緒?

「篠田君は学校に来てないんで校内でつるむ事は無かったですね。磯野君を紹介したら『取り敢えずディスコに遊びに行こう、ダンスを見たらドラムが上手いか下手かはっきり判る』(笑)。礒野君は広島でもけっこう遊んでたんでしょうね、非常にテンポ良くてダンスが上手かった。風貌も今はモヒカンでいかついけど、その頃はジャニーズ系のルックス(笑)。大きめのロットのパーマで郷ひろみの髪型をもう少し長くしたのを軽くリーゼント風に整えた感じ。アイドル系でもグラム寄りの空気感。それとカッコ良かったのは彼は元は広域暴走族のブラック・エンペラーの広島支部長で京都に旗を持って来てて、それを見せてもらった時に『あっ、こいつだよ、ウチのドラムは』とはっきり判りました。
8.8の後、一旦バンドを解散するという事にしてドラマーの了承を得て『仕切り直してまた初めるかもしれないからその時は声を掛けるし宜しくね〜』と別れてすぐ再結成(笑)。
8.8の本番で前のドラマーが辞めさせるきっかけをうまく作ってくれたんですよ。ビーチ・ボーイズの『サーフィン・サファリ』でボーカルがワン・ツー・スリーとカウントしてフォーの代わりにスネアがコンで始まるんだけどドラマーがそれを忘れてしまっていつまで経っても曲が始まらない(笑)失態をしでかしたんでトミーが『あんな事があったのでもうバンドをやる気が無くなった』と言い出したという話に持ち込んで」

策略を巡らした訳ですね。

「傷つけない様にすんなり辞めさせる方法をミーティングして考えたんだけど結局しどろもどろで訳の判らないやり方になってしまいましたね。それからすぐに磯野君では無いんですよ。ややこしいんですけど年上の鷲津さんが入りました。彼はカラーに合わないというか、篠田君がすごい嫌ってました。入った時に僕等に質問したのが『君等はビートルズ・タイプかグランド・ファンク・タイプかどちらでしょう?』(笑)。篠田君はポーカーフェイスなんでその場は適当に収めたけど後で僕と二人になってから『何をバカげた事を!』とブチ切れて『あんな奴とは一緒に出来へん』とボロカスでした。鷲津さんとは人前で演奏した記憶は無いです。
磯野君をバンドに入れる話はもう出来上がってたけど音研との兼ね合いで鷲津さんが来たのかもしれない」

磯野君は「クラブに入ってフュージョン・バンドでジェフ・ベックのカバーをやってた。全然叩けへんかったけど」と。

「音研から合わないバンドに回されてしもたんですね」

ドラマーは少ないですからね。そのバンドが磯野君を辞めさせてくれなかったのかも?

「磯野君が入って再出発したけど演奏の場はホールとかライブハウスみたいな音楽メインの所では無かったんです」

ダンパの楽隊とか?

「50’sファッションでジルバとかツイストを踊って楽しむ若い連中がサークルを作っていてたまにダンス・パーティを企画するんだけど、そんなのに雇われて演奏してました。
ライブをやりたいなと思っていたけれどその当時の僕達はカバーではなくてオリジナルを演奏しないとライブハウスには出してもらえないと勝手に思い込んでいたんですよ。出演しているバンドでも曲は人のをパチって適当な歌詞を付けてオリジナルと称しているのが多かったですけど。それで僕達もオリジナルを作ろうという話になりました。
バットマンよしのりと恋のKOパンチからは長い期間みたいな気がするんですけど僅か数カ月の出来事ですね」
つづく。

注1 通称しのやん。ROCK A GOGO企画代表。京都を拠点に地元バンドのプロデュースやサポートを行っている。
注2 DOLL NO,262 磯野隆臣インタビューより抜粋