VOICE OF EDITOR #8

五十肩が酷い。去年の9月頃からなのでもう半年くらい治らない。坐骨神経痛で通院している整形外科の先生に教えてもらった「五十肩体操」を続けているがまだ痛い。この歳になって五十肩になるのはまだ50歳代の体なのかとニヤついたりしている。

五十肩の痛さと同じようにスガ政権が揺らぎ続けている。まぁ僕の五十肩が治るのと政権が終わるのとどちらが早いか競争だ。それにしても野党がしっかりしないことには続けてもらうしかない。野党は細かいイデオロギーや方向性の違いは置いといて、もっと大勢を見極めないと日本は何でもありのとんでもない国になってしまいそうだ。こうも前向きな議論のない国会中継を見ているとついつい愚痴ってしまうよね。

痛い肩を我慢しながら実家の押し入れを弄ってみた。1980年前後に自分が何をしていたのかを根拠付ける資料が何か見つかるかもしれないと思い始めてもう何年目だろう。ぱっと見たところ何もなさそうだったので深く弄ることに躊躇していたのは、昔の自分は今や未知のものと化し歪んだタイムスリップ感に陥りそこに信じ難い事実が隠されているようで少し怖かったからだ。押入れとか縁の下、納戸、めったに開けない引き出しにはそういう忘れ去られた未知との出会いへの恐怖と期待が溢れている。まずは自分が何も残していなかったことへの後悔と遭遇する。そして殆どの記憶がなくなっていることに気付く。これから書き残しておくべきことにはその分想像力を逞しく働かせよう。歴史はこのようにして書き換えられるのだ。1980年前後の自分を思い出すことは今や未知の自分への旅である、なんて大袈裟なことでもないんだろうけどいろいろな資料を探し出すことは実に楽しい時間でもあった。

1978年の6月16日に同志社大学の学生会館で開催した「意識革命」というイベントに合わせて発行する予定だったミニコミ「ROCK MEDIA」の制作は遅れに遅れて9月になってしまっていた。これが判明したのは押し入れを弄った結果、奇跡的に出てきたミニコミ「ROCK MEDIA 1」の「編集殺気」というあとがきに僕自身が記していたからだ。そこで編集者としては失格なのに、僕はそんなに知識を持っていたわけでもないにもかかわらず偉そうなことを書いていたのを読んで顔を赤くした。渡辺仁さんは渡邊玲と淵門綾裕いう名前で寄稿してくださっていた。そこには亡くなった松原健もいた。

ROCK MEDIA 1

連続射殺魔というバンドの和田哲郎くんと出会い「意識革命」に出演してもらい、その後彼が宇治から京都市内の北の外れ深泥池の近くに引っ越したことは前に書いた。新しい家も宇治での家と同じような古い家屋の奥にある離れの一軒家だった。前と違ってトイレとお風呂が備わっていることを自慢気に話していたのを覚えている。その家を始めて訪れたのはROCK MEDIAができたかできていないか夏の暑い日だったと思う。エアコンのない暑い部屋で汗をかきかき話をした。一緒に行った渡辺仁さんは頭にタオルを巻きアイデアを出してくれた。

そのときに和田くんが教えてくれた本がある。1975年の12月に日本語訳が発行されたアメリカ・カリフォルニア生まれ、心理学者、精神分析医であったアーサー・ヤノフ著「原初からの叫び」だ。彼は2017年に94歳で亡くなっている。サブタイトルに「抑圧された心のための原初理論」とある。抑圧された子供の心を開放する「プライマル・スクリーム療法」の理論を表した書籍だ。ジョン・レノンの「ジョンの魂」はこの療法の影響を強く受けていることで有名だし、実際ジョンとヨーコは彼の患者だった。また1982年にスコットランドのグラスゴーで結成されたプライマル・スクリーム(原初からの叫び)はここから取られている。「南部くんも読んだほうがいいよ。」と促され早速書店に行き初版を手に入れた。

原初からの叫び

1978年頃の連続射殺魔は究極なまでにストイックでハードロックを自分たちの中で昇華、編集したサウンドとインプロヴィゼーションによる、渡辺仁さんがROCK MEDIAで「成人指定を受けるべき」と書いていたように観客を見放したような態度を受け入れられるのは相当マゾヒスティックなファンぐらいであった。連続射殺魔「王琴へのジョギング」の和田くん自身が書いたライナーノーツにその辺りの行が出てくる。『川辺(ドラム)が抜け事実上バンドがないも同然になり、もうロックバンドなんかやめちゃおうおかなと頭の中がイカ化(当時のベースがイカ君だった)していたさなか、同志社大学の学生でロックミニコミを作っていた南部という男が、自腹で「連続射殺魔」のコンサート(意識革命のこと)をやりたいと言ってきた。そのコンサートは臨時ドラマーで凌いだが、その後も彼はしきりに活動を再開しないかと言う。』僕はそんな和田くんに連続射殺魔としてパンク/ニューウェーブ・シーンで活動する気はないかという話を始めた。ミニコミの発行とイベントを企画することで活動をサポートするためにプロジェクトを立ち上げませんか?というのがミーティングのテーマだった。僕は「連続射殺魔II」に収録されていた曲こそ今やるべきだと思っていた。そのテープでアート・ディレクションを担当していた渡辺仁さんを誘ったのは、そこを期待していたからだった。和田くんがファーストテープと呼ぶ「連続射殺魔Ⅱ」のサウンドは彼が中学生の頃に作ったという。そんなこと信じられないほどのクオリティだった。正直言って「王琴のジョギング」でリメイクされたファースト・テープの何曲かよりオリジナルの方がパンクでインパクトが強かったと思う。それを作ったのが当時の5年前だとしたら時代が追い付いたとしか言いようがない。しかしそうはならなかった。今思えばその瞬間に和田くんとのすれ違いが生じていたのかもしれない。何年か後にお互いが知らないところで共通のアーティストと接点を持つことになるのも因縁めいたものを感じる。

その時は全く新しい連続射殺魔を作ろうという話になったのだ。そのためにメンバー募集と曲を作ることから始めた。ライブ録音が残ってないのでほとんどの曲名は忘れたが、渡辺仁さんが作詞した代表曲「愛して欲しい」といつも最後にやっていた「少数人種」の2曲は今も覚えている。それらの歌詞はいずれも「原初からの叫び」で書かれていたことをヒントにしていた。秋から冬にかけて何曲かを作り、どうにかメンバーを揃えて最初のライブに漕ぎ着けた。押し入れを弄って発見した2点目は僕が中心になってやった新生連続射殺魔初ライブ、僕にとっては2回目のイベント「クロスノイズ」のポスター版下だ。和田くんはこのイベントについて「王琴へのジョギング」のライナーでこう書いている。「共演は『INU』と『SS』他忘れた。その時初めて町田に会った。俺はまだ二十歳でしかなかったのに、えらく年上に感じたそうだ。俺は俺で非常にタマげていた。その後、色々なバンドと会ったがなにせみんな下手だ。楽器も安物の日本製ばかり、チューニングも出来ない。プロならフェンダーやギブソンで当然だと思っていた俺との感覚の差は大きかったと思う。」まぁそう思われても仕方がない。僕たちスタッフも素人丸出しだった。関西パンクはこんな場所から始まった。

クロスノイズ・ポスター。どらっぐすとぅあヴァージョンもあった。

僕は、1978年の10月10日に西部講堂で行われた「BLANK GENERATION〜TOKYO ROCKERS in KYOTO」を見に行った。東京からLIZARD、FRICTION、S-KEN、Mr. KITE、MIRRORSの5バンド、京都のSS、ジェイルハウス、GMM、ブランク・ジェネレーション、BIDE&IDIOTの5バンドが出演していた。「これだ!」と少し悔しい思いを感じながら連続射殺魔をこのようなイベントを通してプロモーションしていこうと思った。

東京ロッカーズに対抗する意味で関西のバンドだけのイベントをやろうということで会場を探した。磔磔や拾得はまだ相手にしてくれない。ROCK MEDIAの取材で磔磔の水島さんや拾得のテリーさんにインタビューしたことがある。パンク/ニューウェーブ・シーンもブッキングの対象にしてもらうのが狙いだった。しかし、その時意外にも時間が経てば道は開けそうな気がした。このインタビューはROCK MEDIAの何号かに掲載した。もったいないので大学の卒業論文にも引用させていただいた。

ROCK MEDIAの編集を一緒にやっていた故松原健が属していたDRAC(同志社レコード研究会)のメンバーが会場として出してくれたアイデアが、劇団が芝居の練習によく使っていた同志社大学新町別館小ホールだった。そこでやることを決めたまでは覚えているが、僕がどのように千本中立売にあった「どらっぐすとぅあ」のスタッフと出会い、どういう話の中で「クロスノイズ」をやることになったのかという記憶がない。接点はどらっぐすとぅあが主催をしていた前述のイベント「BLANK GENERATION〜」かもしれないし、DRACと当時学園祭でどらっぐすとぅあ関係のアーティストを学園祭にブッキングしていた同志社プロダクションとの繋がりからかもしれない。そういえばROCK MEDIAの取材のためにだててんりゅうの隣氏にどらっぐすとぅあでインタビューをしたことがあった。紫のフワッとした絨毯に靴を脱いで上がり腰をおろして隣氏とゆったりした時間の中で話した。このコラムページで書いてくれているF.M.N.の石橋くんとはこの「クロスノイズ」の作業を通して知り合ったのは確かだ。「特殊音楽の世界22」で彼も書いているように詳細は闇の中だ。

「クロスノイズ」のポスター版下を見つけて蘇ったのは、まだ太陽の光が燦々と射す小ホールというより教室?での仕込み風景だった。なにしろ予算がないイベントだったので、僕が必要な機材を手配した。知り合いが持っていたボーカル・アンプ・システムとその知り合いの伝手で紹介してもらった楽器屋さんからマイクやケーブルを借りた。ギターアンプやベースアンプはどらっぐすとぅあが持ち寄ってくれた(はず)。機材を運ぶ車や運転手は誰がやってくれたんだろう。もちろんプロの音響やさんを雇う予算はなかったので自分たちで仕込んだ。LIZARD、Aunt Sally、Boys Boys、21st Century Boysが出演、ドキュメンタリー映画の上映もあった1979年の4月29日『GOD SAVE THE EMPEROR』翌30日のLIZARD 、FRICTION、S-KEN、午前4時、Mr. KITE、MIRRORSの「東京ロッカーズ」6バンドが出演した『MORE TOKYO ROCKERS Last Live』という西部講堂であったイベントに比べると「クロスノイズ」は出演してくれたINU、SS、ULTRA BIDE、アルコール42%、そして連続射殺魔にはストレスを感じさせるに十分ちっぽけな手作りのイベントだったが、僕にとっては重みのあるものになった。SSのしのやんやULTRA BIDEのビデくんとは後にコラボすることになる。1979年5月17日のことだった。