特殊音楽の世界 40『F.M.N. Sound Factoryの始まりと90年代』

もうこの連載も3年半40回目ですが自分のレーベルF.M.N. Sound Factoryのことを書いていませんでした。

今回はレーベルを始めた90年代の他の関西のインディー・レーベルのことを当時の状況も交えながら書きたいと思います。

よく聞かれるF.M.N. Sound Factory(以下F.M.N.と略)の名前のことですが、その由来をここで初めて説明します。

89年にドイツからナハトルフトというグループが来日しました。

ナハトルフト関西公演のために、向井千恵さん(シェシズ)の声かけで、数人が集まって作ったフリー・ミュージック・ネットワークという企画団体を作りました。

そのメンバーに以下のような方達もいました。

岩崎昇平さん:MOND BRUITS、またベアーズで行われておいたライヴ・シリーズ「ノイズフォレスト」の主催者

能勢山陽生さん:のちにディーゼル・ギターとして活動、F.M.N.から1stCDリリース

古川敏正さん:パフォーマー、クライン文庫、19年にパフォーマンス中の事故で死亡

その団体はすぐに空中分解するのですが、93年にレーベルを始めたときにいい名前を思いつかず、しかも長く続けるつもりもなかったので適当にその団体名の頭文字を並べてつけました。意味は全くありません。

Sound Factoryはいつの間にかついていました。自分でつけた覚えはありません。誰がつけたんでしょう?

F.M.N.は93年にカセット・レーベルとして発足するわけですが、京都のレコード店パララックス・レコードがなければレーベルなんて思いつきもしなかったことでした。

パララックスに集まる京都の若いミュージシャンたちの音楽がとても面白く、それをなんとか紹介することはできないかと考えた時に80年代に一時期流行ったカセットブックのことを思い出しました。

カセットブックは書店の流通が使えるため書店にも置けるという利点がありました。レコード店ではなく書店におけるということで新しいファン層の開拓や、小説や詩などの文章とのコラボもできるということで宝島社などの大手出版社も参入し一時期とても流行りました。

しかし90年代にはCDやMDの登場によりカセットはもうすでにデッド・メディアとなりつつありました。

でもカセットはその頃のCDと比べ(プレス業者も少なく料金も今と比べ数倍)制作費も安く済むので手軽に作れます。

インディー・レーベルとしてはすでにアルケミー・レコードがとても大きな存在感を示していました。当時はやはりCDやアナログ盤で作品をリリースするということは今以上にとてもハードルが高いことでした。

そのハードルを下げたいということもあってカセットというメディアを選んだと思います。

最初はミニコミ(今はZINEですね)と一緒にして昔のカセットブックの復活も考えていましたが、それよりもっと手軽に、またリリース・ペースも早くしたかったのでカセットのみのリリースにしました。

しかし普通に若手のバンドばかり出しても注目はされません。そのため4タイトル同時リリースのうち1タイトルは著名な人の作品を出す、という方法をとりました。

その方法で3シリーズ12タイトルリリース(リリース間隔は3〜4ヶ月程度)しました。

リリース・リストは以下の通りです。

1stシリーズ:ルインズ、ピラルク、プーフー、スクリーミング・ピンチ・ヒッター

2ndシリーズ:大友良英、チルドレン・クーデター、ビジリバ、マイモンキー

3rdシリーズ:ルインズ+梅津和時、ライヴ・アンダー・ザ・スカイ(山本精一のフュージョンバンド)、O.A.D、ドリルマン

チルドレン・クーデターはもうすでに関西の重鎮バンドでしたがどうしても入れたかったグループでした。

そのチルドレン・クーデターの80年代の音源がありました。

またカセットの全てのジャケット・デザインはチルドレン・クーデターのホソイくんがやってくれました。

パララックス・レコードの協力なくしてはできなかったこのカセットは爆売れしました。

それは当時インディーズの流通を一手に引き受けていたインナー・ディレクツが全国の流通を申し出てくれたおかげです。

同時期にできたレーベルが大阪のギューン・カセットでした。ギューンも最初カセット・レーベルであり、同じようにインナーディレクツにより全国に流通されていました。

それまではアルケミーのような大手インディーズ以外の弱小レーベルや自主制作盤は自分で店に持ち込んで委託で数件のレコード店で販売ということが一般的でした。そうした流れが一気に変わったのはインナーディレクツのようなディストリビューターがカセットレーベルという弱小レーベルに目をつけたことがきっかけだと思います。

その後、いくつかのカセット・レーベルができましたが、80年代のカセットブックの次の、90年代の第二次カセットブームを作ったのは間違いなくF.M.N.とギューンでした。

カセットが売れたおかげで思いの外黒字が出て、それを資金にしてCDレーベルに移行しました。

最初にコンピレーションCD「riddle of lumen」をリリースしましたが、そこに参加している忘れられないバンドを二つ紹介します。

その一つは有(U)。

有は、大阪のある歴史に残る名レーベルを生むきっかけを作りました。

アルケミー・レコードの数々の名作を作ったオメガサウンドのエンジニア小谷哲也さんと、伝説のライヴハウス、エッグプラントのPAで今はROVOのPAエンジニアでもある前川典也さんによるTagRagレコードです。

二人の日本を代表するエンジニアによるレーベルは「有」の音源をリリースしたいために作られたと聞きます。有はそれぐらい素晴らしいバンドでした。

 TagRagではR.F.D.やoff mask 00等90年代を代表するバンドの名作を次から次とリリースする素晴らしいレーベルでした。

もう一つはdrillman。

リーダーの故Q-zoは私が西部講堂に住んでいる時からの友人でした。パンクバンド「ヘルライザー」のあとにQ-zoが結成したのが「drillman」でした。

F.M.N.からは最初のコンピ参加と1st2ndをリリース、その後TagRagからもリリースしています。

時期によってメンバーは違うのですが故チャイナ(羅針盤、少年ナイフ、ジーザス・フィーバー、DMBQ)、家口成樹くん(花電車、現EP-4[fn.ψ]、佐藤薫主宰のレーベルΦONONのディレクター)がメンバーにいた時のライヴ動画がありました。

これの最初の方、199?福井とある動画です

コンピリリースの後は4タイトル同時リリースしたり、ルインズの吉田達也さんの「磨崖仏」、勝井祐二さんと鬼怒無月さんの「まぼろしの世界」とF.M.N.とで大阪クアトロで3レーベルフェスのようなイベントもやったりと結構活発に動いていたんですが、F.M.N.としてはもう90年代末頃には関西のバンド紹介という当初の目的から徐々に方向転換していました。

バンド活動の補助としての役目よりも、CD をパッケージも含め一つの作品として成り立たせることに重点を移しました。そのためライヴ活動のサポートのようなこともかなり減っていきました。

今回はこのような自分のレ―ベル紹介の記事で申し訳ないですが、映像資料も実は少なくあまり語られることがない90年代の関西音楽状況を知るためにほんのちょっとでも役に立てれば嬉しいです。

F.M.N.石橋:レーベル、企画を行うF.M.N.SoundFactory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。