実録 関西パンク反逆の軌跡 その4
- 2021.04.02
- COLUMN FROM VISITOR
「SSはいかにして世界最速バンドとなりしか」
竹埜剛司(たけの・つよし)は京都深草のライブハウス・Annie’s cafe店長。
1978年、15才で京都初のパンクバンドにしてその当時世界最速バンドと言われたSSのオリジナル・メンバーとしてベースを担当。以後チャイニーズ・クラブ〜イディオット・オクロック〜ラ・プラネット〜アイ・ラブ・マリー〜変身キリンと関西パンク創成期の重要バンドにベーシストとして参加した。
今回は彼のインタビュー2回目です。
「8.8の後、西部講堂でコンサートを企画していた坂下さん(注1)と知り合って『東京でもパンク・ムーブメントが興って東京ロッカーズが京都に遠征したいって話が来てるんだけど君等も演る?』と誘われました。
『えっ、もう東京ではそんな事が!』と驚いて。バンク・ムーブメントの話は仕事でよくニューヨークに行ってたトミーから聞いていたんで『それは乗っからない訳にはいかないね』、取り敢えず『演ります』と返事しました。でも『まだオリジナルが無い、どうしよう』」(笑)。
▶坂下さんからSSに「ステージで唾を吐いたり爆竹を投げてはどうか」と提案があったそうですね。その方がパンクっぽいと(笑)。
「唾?爆竹?、ちょっと判らないですね」
▶ブランク・ジェネレーション 東京ロッカーズin キョートは1978年10月10日、体育の日に京大西部講堂で開催されました。
「関西から用意されたのはうちのバンドとBIDEバンド、ブランク・ジェネレーション、G・M・M、ジェイルハウス」
▶BIDEバンドは後のウルトラ・ビデ、ブランク・ジェネレーションには後にINUのベーシストになる西川成子がキーボード奏者として参加、ジェイルハウスには後に21stセンチュリー・ボーイ〜ZIG ZAGを結成する三木ヒロシが在籍していました。
「ジェイルハウスは音も見た目もロッド・スチュワート&フェイセスみたいでした」
▶後にINUの初代ギタリストになる林直人は発行していたミニコミOUTSIDER誌でこの時のSSを酷評しています。以下に引用します。
『オープニングは(RAMONES)の(ブリッツレッグバップ)だったと思う。というのも思い出すのさえ、正直な所、うっとうしいのだ。ほとんど間をおかず、たて続けに(ハウンド・ドッグ)(ペパーミントツイスト)他、オールドR&Rの連続。ギター2人にリズム・セクション、ヴォーカルの5人編成。ヴォーカリストは(DAMNED)の(DAVE VANIAN)のルックスをモロにカバーしている。本当に彼らこそ、日本のマスコミに毒された典型的なLONDON PUNKSだと言ってよい。その証拠に、彼らのステージにおける暴力衝動に裏打ちされた一連の動き、マイクを目茶苦茶にする、客席に向かってビールをけり飛ばす。総てはコピーだ。彼ら自身から出た自然な動きには全く見えない。中盤に(R・HELL)の(BLANK GENERATION)をはさんで全曲コピーに始まり、終わった(SS)には返す言葉もない』(注2)。
「ラモーンズとか人の曲が多かったからじゃないですかね?イベント名がブランク・ジェネレーションだからそれも演ろうと。お笑い歌謡みたいな、そういうオチかと」(笑)。
▶それが誤解されたのかも?林君の評を要約すると、格好だけで中身が無い。
「そう見えたんじゃないかな?後に動き出す日本のパンク・ムーブメントからするとSSはスタイリッシュなんですよ。トミーが牽引してたんで。彼は向こうでパンクバンドを観て動きまで研究してましたから。逐一情報を送ってくれるんですよ。レコードも貰ったし」
▶JOJO広重君からSSはこのコンサート評を読んで発奮したと聞きましたが?
「僕はその時点では読んで無かったです。篠田君はどうか知らないですけど」
▶SSというナチス・ドイツを想起させるバンド名で西部に出演して西部講堂連絡協議会のメンバーからクレームが付きませんでしたか?
「無かったですね。尋ねられても色々な言い方で誤魔化してましたから」
▶後にビート・クレイジーの西部講堂イベントでスペルマのベーシストの富岡君がナチスの鍵十字の腕章を付けていて問題になったそうです。
「翌1979年4月29日ゴッド・セイブ・ジ・エンペラーのチラシで天皇に✕印が付いていて坂下さんが右翼に絡まれてえらい困ってはったのは覚えていますけど。篠田君が大笑いして見ていました。世話になってるくせしてね(笑)」
▶SSは今では1978年当時に世界最速で演奏していたバンドとして一般的に認識されています。しのやんの発言を引用します。
「主催者が京都にもパンクバンドがあるらしいと連絡してきた。東京ロッカーズが何かも知らなかったし6日に磔磔でリザードとフリクションのライヴがあったので一人で偵察に行った。リザードを観て何やおじさんやんか、楽勝やと思てたら次がラピスがいた頃のフリクションでたまげてしもた。服装も米軍のコートで統一していてカッコ良かった。こらあかんと思って取り敢えず西部のライヴは現状でこなして体制立て直しや。色々検討した結果、速く演奏するんやったら下手でも出来ると」(注3)。
「僕はバイトがあったので10月6日は篠田君には同行出来ませんでした。
フリクションはギミックなブレイクに続くリズムチェンジとヒゲさんのドライブ感のある特殊なドラミングが生み出す錯覚で篠田君は物凄い高速演奏をしていると思い込んで『完璧俺等負けてるで』、勝ち負けで考えるのも如何なものかと思うんですが(笑)、『竹埜、もっと速よ弾け』と言い出して『僕は速よ弾けるけど君がついて行けへんやろ』(笑)。篠田君が『まだまだ足りん、遅い、遅すぎる』と熱病の様に言い始めて『トミーどうする?歌えへんで』、『彼は技量があるから何とかしてくれるはずや』(笑)。
あんまりしつこくてムカつくんで小節の頭しかギターが弾けへんくらい徹底的に速よしたろと思て磯野君に相談したら『よう判らんけど演ってみるわ。けどエイトでは無理やで』、『ツー・ビートでええし』(笑)。
次の練習からハイハットのアクセント1回でカッツンカッツン。あのビートを叩いたのは磯野君が世界で最初やったみたいですね。
篠田君がついてこれなくなってセックス・ピストルズのシド・ビシャス状態。『やったー、おもろー!』(笑)でどんどん速くなっていきました。篠田君とはその辺から確執が生まれましたね。
トミーは嫌がってたと思うんです。『こんなものは歌じゃない(笑)、いくらロックンロール・ショーで面白くても俺は歌を歌いたいから嫌や。こんなんが続くんやったら辞めたい』。僕が彼の部屋に遊びに行った時にぼそっと言うてはりました。」
▶普通のテンポで歌ってる曲もありましたね。
「ラブソング(笑)。あれはトミーの独壇場ですね」
▶♪ラブソング 君に捧げる〜(笑)。私はSSを1979年5月17日同志社大学新町別館小ホールで開催されたクロス・ノイズで初めて観ました。ステージ中盤でトミーさんがこの曲でグリースで固めた髪を櫛で撫で付けてマドロス帽を被り椅子に片足を載せてギターを爪弾かはる姿に射抜かれました。
「プレスリーのパロディ(笑)」
▶ホンマに歌が上手でしたね。ショーマンでした。彼には華があったのであのままSSを続けていたら間違い無くスターになっていたと思います。
(つづく)
注1.坂下世益男。1970年代末に京大西部講堂で多数のコンサートを企画。
注2.OUTSIDER創刊号所載「→BLANK GENERATION→ 関西からの参加バンド」からSSの項を抜粋
注 3.パンク天国4(株式会社ドール刊)所載の「SS」から抜粋