実録 関西パンク反逆の軌跡 その5『SSの先駆性とファッションについて』

竹埜剛司(たけの・つよし)は京都深草のライブハウス・Annie’s cafeの店長。1978年、15才で京都初のパンクバンドにして後に当時世界最速と評価されるSSのベースを担当。以後チャイニーズ・クラブ〜イディオット・オクロック〜ラ・プラネット〜アイ・ラブ・マリー〜変身キリンと関西パンク創成期の重要バンドにベーシストとして参加。

今回は「竹埜剛司インタビュー その3」です。

「ブランク・ジェネレーションの時にS-kenさんとかレックさんが『SSは得体が知れないけどステージ映えするし東京で演りなよ』と声を掛けてくれました。特にS-kenさんが強くアプローチしてくれて。彼は業界の人ですからSSに東京受けしそうな匂いを感じたんじゃないですか。
生半可な返事してたら本当にすぐさま年末のニューウェイブ・イベントに呼ばれました。
SSはブランク・ジェネレーションまではしょうちゃんがいて5人でした。東京に行く事になって『しょうちゃんをどうしようか?』。トミーが『もうしょうじは要らんやろ、これからの動きには。あいつは止めとこう』。」

▶バンドがグラムなロックンロールからパンクにシフトするにあたって彼はイメージが違うと。
「もう邪魔、意味が無い。彼は背が高くて女装していてファッショナブルなんですがギターが弾けないんで賑やかしだけでしたから。
バンドみんなで話し合って決めたのではなくて、トミー単体で『辞めてくれる?』と切ったんじゃないかなと。僕は知らなくて練習の時に『しょうちゃん来えへん』と言ったらトミーが『あいつ、もうええやろ』、僕も『居ても居なくても一緒やしどっちでもええけど』」

▶S-kenさんやレックさん、ヒゲさんは東京ロッカーズの前にニューヨークに居た訳ですがトミーさんはその頃から彼らと接点があったんですか?
「向こうで会ってはいないですね。フィールドが違うかったんでしょう。トミーさんはファッションショーの仕込みで会場に入りっぱなしで仕事が終わったら慌ただしく帰って来てましたから。暇を見つけてはCBGBとか行ってたと思うんですけど」

▶SSはこの東京ツアーで12月25日S-KENスタジオのクリスマス・ギグ、12月31日下北沢ロフトの’78年東京ロッカーズ大詰めラスト・ライヴ!!に出演しています。
「下北ロフトの時に右翼が来て小競り合いになったのは覚えています」

▶SSは12月31日に撮影されたドキュメンタリー映画「ロッカーズ」に出演しています。
しのやんは「大晦日に下北ロフトに出た。東京のパンク・バンドの映画を作るいうてカメラが入っとった。僕等は関係ないと思うとったら、リハを見た監督がびっくりして急遽本番を撮影や。映画『ロッカーズ』で東京のバンドはインタヴューと演奏が収録されてるけど、SSが演奏だけなのはそういう訳」と発言しています。(注1)
竹埜君が座ってベースを演奏しているのは何故ですか?フロントに3人立ってると撮影しにくかったからですか?
「それもあるんですけど、写真家の地引雄一さんが『SSはラピスの向こうを張って車椅子で弾きなよ』と言い出したんです。その方が絵になるし映画も撮りやすいと。『僕が用意するの?無理(笑)、高くて買えない』。決局は足の悪い振りして椅子に座ってベースを弾く事になりました。昭和の時代だったし僕も子供だったんで笑い事で済んだけど今やったら人権問題でえらい騒ぎですよ。いい大人がええ加減な事言うよね(笑)。東京ロッカーズ周辺の人達はみんなもう30まわってたのに」

▶SSがステージで道衣を着たのはこの78年12月31日だけでしょう?
「京都で演った姿は観られているのでこっちから東京に行く時はその時のイメージとはまったく違うロックンロール・ショーをしようと急遽詰めたミーティングを持ちました。とにかく面白い事をしようと。
トミーが『今ニューヨークではカメラマンとか新しいアートな動きをする連中はスキンヘッドにしてスタイリッシュな服を着て活動している、ロック史上初の全員スキンヘッドのバンドをやってみたらアーカイブには残るんじゃないか?』」

▶トミーさんがその頃から歴史に記録を残す発想を持っていたのは進歩的ですね。
「もちろんアーカイブという言葉はまだ無かったけど先駆けに対するこだわりですね。
『ロックバンドはリーゼントに始まってロングヘアから様々な髪型があったけどスキンヘッドにしてるバンドは今まであったか?』、『知らない』、『調べてみたけどそんなロックバンドは一つも無い、時代を先取りするのはええ事やしやろう!』。
僕とか磯野君は『え〜、丸坊主にすんの?嫌だ、それ』(笑)。ニューヨークでは最先端でもその当時の日本では軍国主義とか体育会系のイメージしか無いんでイカしてるとは思えなかったんですよ。
それでもトミーがニューヨークから『STUDIO VOICE』とか様々な雑誌を持って来てモデルの女の子がベリーショートのヘアスタイルにしているのを見せてくれてたりしてる内に『こういうのもありかな、格好ええ事やったらやりましょう』と」

▶結局SSは頭を剃ってはいなかったですね。
「トミーが提案したヘアスタイルは丸刈りに近いんだけれど鋏で切って軽くコントラストを入れてるんですよ。髪の長さで陰影を付けるのがお洒落なんだとトミーが力説してたんだけど、それをどうやって散髪屋に説明するのか?(笑)。『この髪型がニューヨークで流行ってるんでやってもらえませんか?』『バリカンと違うんですか?鋏でやるんですか?難しいな〜』。女子向けのカットハウスでもそんな技術は無くて無理でした。
僕はその前まではベイシティ・ローラーズを小馬鹿にした様なタータンチェックの、後のチェッカーズみたいな扮装を敢えてしてみたり。好きでやってた訳じゃないけど。みんなニューウェイブという事で一所懸命ワイルドな格好してるんですけどそれでは面白くないんで。短髪では合わないしどんな服装をしたらいいんだろう?
トミーが香港にファッション・ショーの仕込みで行った時のお土産のカンフー・スーツがあったんで『これバッチリなんじゃない?』、『合うけど怖い(笑)。右翼っぽく見える』とか話していて『でも他にこんなバンドいないんでイケてるかもね』。
あのスタイルは後に出てくるアナーキーみたいなヤンキー・センスと同じに思われているんだろうけど、レジデンツや後のディーボといった冗談系のバンドの発想に近かったんです。ああいう馬鹿げた事をしよう、ショーとして面白ければそれで良いと」

▶みんな同じ服装でキメる。
「トータルなイメージ作りありきでしたね。ちょっとベタだけどはっきり印象に残る」

▶SSはメンバーの名前もトミーSS、ジュンSS、ツヨシSS、タカミSSと名乗って統一感を出していました。
「あれはラモーンズのパチリですけどね。初め僕はミルキーSS やったんですよ(笑)。チャイニーズ・クラブというファンジンを作った時にそう紹介されていました。東京ロッカーズと合流する頃になってツヨシSSですね」

▶もう一つSSのファッションで印象的なのは地引さんが撮影した写真のアーミー・コートです。
「あれはね、僕が一番初めに三信衣料で買って来たんですね。2800円くらいで」

▶河原町三条の?
「そう(笑)、小さいサイズが売っててジャストだったんで『これ、いいな』と思って。時代の気分として映画の「カサブランカ」のハンフリー・ボガートとか再認識されていたしロキシー・ミュージックも懐古的なアーミー・ルックでした。街のお洒落系の連中ともリンクしてるんで、これは放出品だしこの値段なら僕でも買えると思って着てたら初めは『野暮ったい』とか貶されて評判悪かったんです。ところがブランク・ジェネレーションの時にフリクションのレックさんとヒゲさんが米軍放出品のコートを着てたんですよ。ラピスは違う色の普通のトレンチコートだったけど。
篠田君が『あれ竹埜が着てたやつと一緒だよな。カッコいいじゃん』と急に風向きが変わって(笑)『俺も欲しい』と言い出して。彼はデカいんでアメリカ製でも身体に合うサイズが無くて2,3日に1回の割合で連れ出されて2週間はあちこちの古着屋を探し回った覚えがありますね。あれは大変だった」(笑)
あのコートは今でもありますよ。そこに掛かってます。何十年も着てないですけど」

▶オークションに「SSのメンバー旧蔵」で出品したら高値で落札されるかも?
「だってあんなのどこでも売ってるから駄目ですよ」(笑)

つづく

注1.パンク天国4(株式会社ドール刊)所載の「SS」から抜粋