第43回『ハーバード大学のボブ・ディラン講義 』リチャード・F・トーマス(著)萩原健太(監修) 森本美樹(翻訳)
- 2021.06.02
- COLUMN FROM VISITOR
ハーバード大学の古典文学の教授がボブ・ディランをどのように教えているのかと思って買ってみました。
有名なサンダル教授の講義の再収録みたいな本だろうと期待してたのですが、あまり喋っている感じは感じられず、講義の臨場感が楽しめなかったのが残念でしたが、分析力が普通の評論家と比べるとレベルが違い、僕もこんなディラン本を書いてみたいなと思わせてくれました。
日本だと誰も指摘しなかった『ボブ・ディラン自伝』は創作物だろうということもちゃんと書かれています。こういうことは日本の評論家の方はあまり言わないですよね。自伝より創作物に近いなんて書いたら、売れなくなっちゃいますもんね。でもディランの醍醐味って虚構と現実が入り混じった感じだと思うんですよね。ディラン研究ではこれが一番大事なことだと思うんですが。
ノーベル文学賞の授賞式に出席しなかったなんてまさにこれですよね。しかもディランの代わりに出席して「はげしい雨が降る」を歌うけど、途中で間違ってしまうパティ・スミス、この一連の出来事なんてまさに虚構と現実が入り混じっているような出来事でした。全部現実なんですけど。この出来事についても一章ちゃんと考察されています。
ディランの行動って、今もどこか意味深なんです。80歳のおじいちゃんが今も世の中を手玉にとっているなんて愉快です。
『ボブ・ディラン自伝』に話を戻します。こう書かれています。
“この本(『ボブ・ディラン自伝』)は謎に包まれたディランの人生のほんの断片に触れるだけだ。構成はすっきりとしているが、どちらかと言えば5幕の戯曲のようで、フラッシュバックしたかと思えば未来へ飛び、創作と虚構が盛り込まれている。1章、3章、 5章は事実を綴っている一方で、2 章、4章 はややフィクションがかっている。ディランの言う通り「それもまたけっこう」なのだ。時系列はほぼ無視され、特に想像の産物である2 章と4章は、超現実的な雰囲気が際立つ。突拍子もないことなど、あらゆる出来事を意図的に無秩序に並べたて、それが愉快で、大きな遊びの効果を出している。まったくもって、いわゆる自伝とは一線を画するのだ。”
事実とどこが違うか、この本では詳しく書かれています。なぜディランがこんなことをするかというと、それはディランが「(作詞とは)創造性は、経験と観察眼と想像力に関係する」と言っているからです。
これがディランの基本です。このことからディランはただのプロテスト(抗議)・シンガーじゃないんだ「風に吹かれて」は色々な解釈が出来ると言う人がいるんですけど、これまた間違いなんです。
ディランはこう言っています。
「”風に吹かれて”はプロテストソングとかそんなものじゃない。なぜなら私はプロテストソングを書いたつもりはないからだ。(中略)ただ誰かが誰かに言わなくてはいけないことを書いただけだ。」
かっこいいですよね。近所のにいちゃんが近所で困っている人のために言ってるだけと言っているのです。これがフォークソングなんでしょうね。
ディランの秘密が分かる本です。
ハーバードの学生さんがなぜこの講義を受けているかの回答が面白かったです。
「私は物書きとして成長したいと思い、このゼミを志望しました。ディランの詩を分析し、人々が彼の感情に共感する理由を知りたいです。私には無理なのかもしれません。天賦のなせる業かもしれませんが」
「私は歌手であり作曲家です。ディランが詞と音楽を融合させる技術に興味があります」
こんな彼らの気持ちに応えてくれる本です。
僕も負けじと今「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」を日本語でやって、あんな風にかっこよく出来る方法はないかと研究中です。
30年くらい研究してるんですけど、何も思いつかないんですけどね。
ちなみにこの講義は12年間もやられていて、その蓄積がこの本にはあらわれています。こんなことやらせてくれる大学は日本にはないでしょうね。