実録 関西パンク反逆の軌跡 その6「先行馬SS」
- 2021.06.02
- COLUMN FROM VISITOR
竹埜剛司(たけの・つよしは)京都深草のライブハウス・アニーズ・カフェの店長。15才で京都初のパンクバンドにして当時世界最速と評価されるSSのベースを担当。その後チャイニーズ・クラブ〜イディオット・オクロック〜ラ・プラネット〜アイ・ラブ・マリー〜変身キリンと関西パンク創成期の重要バンドのベーシストを歴任した。
今回は竹埜剛司インタビューその4です。
▶X-magazine Jam(1979年3月号)に掲載されたアンケートについては?
「これね、証明写真ボックスで撮った写真。みんな一所懸命怖い顔して写ってるじゃないですか?僕だけボケようと変な顔して。みんな一発で男前に写る様に決めてたけど僕は何枚も撮り直しました。
Jamってエロ雑誌でしょう?」
▶いわゆる自販機本です。
「篠田君と『何でそんな所から取材がくるんだろう?』と話したのを覚えてます。インタビューの内容については意味は無いですね。お前はこう書けば面白いと相談して」

▶SSのオリジナル曲はトミーさん作詞、しのやん作曲ですか?
「作曲は篠田君、作詞もほぼほぼ篠田君です。何人かで話ししながら作ったのもあります。『恋のスナイパー』はトミー作詞です。永ちゃんっぽいじゃないですか」
▶♪俺の瞳に見つめられたらもう最後さ(笑)。
「恋のスナイパー」はスペルマがカバーして1985年リリースの1stシングルに収録されました。
▶SSは1979年3月に関西NO WAVE青春のTOKYO TOURに参加します。(注1)主催はどらっぐすとぅあ+OUTSIDER誌(注2)です。
OUTSIDER 2号にはトミーさんが盲腸で入院、最悪の場合はTOKYO TOURでのSSは3人編成になる模様と書いてありましたが?
「覚えてないですね」

▶SSは東京から戻って5月17日同志社大学別館小ホールでのクロス・ノイズ(注3)、5月21日サーカス&サーカスでのNO WAVE(注4)に出演しています。結果的に5月21日がラストライブになりました。


8月12日磔磔でのSS vs アーンサリーは情報誌にスケジュールが掲載されていました。観に行ったらSSは解散、アーントサリーはドラマー脱退で演奏出来ないのでライブは中止と貼り紙がしてあってがっかりしました。常識としてブッキングしたライブをこなしてから解散するべきだと思いました。
「はっきり解散宣言はしなかったと思うんですけど、トミーがその頃にはパンクに見切りを付けてて、もうええやろと。『SSの登場でパンクにピリオドを打ったと思う、15分ワンステージ、究極のロックンロールショーで』。
言葉としてはメンバーで共有し合って無かったんですけど共通認識としてライブは1曲1曲が独立した状況ではなくて20曲ワンクールでなんぼ、ライブの度に曲順を考えるのではなくセットリストに2つ3つパターンがあって回していっていました。
SSのライブはパッケージなんですよ。CDだとワン・ステージが1曲でカウントされているのは正しいです。MC無し、途中休憩も無し。チューニングはライブの途中でタイムで休んで直す隙間が無いんです。ギターが狂ってたとしても最後までそれで演り通す、技量があれば合う所で弾くと」(笑)
▶音楽よりインパクトが最優先だった訳ですね。
「僕達はクラッシックみたいに楽譜をそのまま演奏する音楽家では無いから、現象として出て来ている存在としてシーンにイメージとか記憶を残そうという感じだったんです。
3年がスパンと思っていました。3年演って名前が残らない様なら止めといた方がええよ、だって俺等ロックン・ロールやし」
▶SSは新宿ロフトで6日にわたって開催されたパンク/NWバンドの大イベント・DRIVE TO 80’sも8月30日に出演が決まっていたのにキャンセルしていますね。対バンがプラスチックスだっただけに出演していたら更に注目を集めたでしょう(注5)。
「あれはちゃんと断りました」(注6)

「SSはライブハウスで演るパンク・バージョンとは別のスタイルでも演奏していたんですよ。
嵐山に㈱たち吉の社長の家があってその地下室がサロンになっていました。バーカウンターやステージもあって毎週金曜日にそこで当時京都でイケイケドンドンだった会社の若手経営者が集まってフライデーというパーティーを開いてました。トミーが勤めていたイベント会社(注7)の社長に『君等も出ろ』と言われてSSもそこでビーチボーイズとかオールディーズを演奏していました。常に15人位集まっていました。業界の裏話が聞けるんで面白かったですね。
あのねのねの原田さんが遊びに来てスポンサーに貰った高級蒲鉾とかを食べてもええでと言ってくれてご馳走になった事もありました。
そんな流れでSS末期にトミーから『SSのパンクに於けるネーム・バリューは置いといて同じメンバーで元のオーソドックスなのを演ってみいひんか?』と提案があリました。具体的にはロバート・ゴードンみたいな感じ。篠田君があんまりギターが弾けないからトミーがボビーさんていうジミー・ブラザースのギタリストでANNミュージック・スクールの講師をやってたロカビリーが得意な人を呼んで来ました。リンク・レイみたいなギターが弾ける物凄い上手いギタリストでした。トミーは篠田君にそんな風に弾いて欲しかったんですよ。一緒に演ってたらいずれ弾ける様になるかもしれないと。強化練習で僕等はボビーさんにレッスンしてもらう感じでした。ライブは1回も演っていませんが練習でスタジオには何回も入ったと思います。
篠田君は東京ロッカーズでは評価されているけど、そんなのは弾けないから面白くない。トミーから『ちゃんと演れ!』とボロカス言われるし。ついて行けへんと。
僕は退屈ではあったけど、こういうオーソドックスなのもありかなと。こんなのも演りながらパンクもありで、色々あった方が面白いと分けて考えていました。
それでトミーと篠田君が争った事は無いんだけど、お互い判っていたんだと思います。
篠田君はアンダーグラウンド・ロックをがっつり演りたい、糸口を見つけたら策士として食い込んでそっちの世界で生きていきたいと考えていたと思います。
磯野君は一貫してノンポリやしね、面白かったら何でもええん違う、カッコええ方に付くしと(笑)。あのままトミーが仕事の忙しさにかまけて止めてなかったらトミーと一緒に演ってたかもしれないですね。ミンクデビルとか大好きだったから」
「僕はトミーに彼の会社に誘われましたよ。竹埜はこのままではチンピラになりよるから俺が監督すると社長に推してくれてたんです。
ところが入社したら本当に下っ端から始めないといけなくて基本給8万円なんですよ。僕は借金があって毎月4万くらい返さないといけなかったんでアルバイトをしまくってたんです。住む所と食べる物は保証したるとは言われたんですが4万しか残らないから『考えみますわ』と返事しないでしばらく東京へバックレたんですよ。それでこの話は無し」
「トミーは海外に出張したりバリバリ仕事してハワイに別荘を買ってました。それから考えるところがあったみたいで寺に養子に入って大谷大学で勉強して得度して坊さんにならはりました」
▶トミーさんは小嶋さちほさんとハワイ繋がりなんですね。彼が海の幸のアルバム「レインボー・アイランド」にコーラスで参加してはった謎が解けました。
トミーさんは西部講堂でどんと院まつりがあった時に開演前に来て散華してはったらしいです。
つづく
注1.1979年3月25日屋根裏 出演/アーント・サリー、INU、ウルトラビデ
26日マイナー 出演/アーント・サリー、INU、ウルトラビデ
27日キッドアイラックホール 出演/アーント・サリー、INU、ウルトラビデ、SS
28日チッキンシャック 出演/アーント・サリー、INU、ウルトラビデ、SS
29日チッキンシャック 出演/アルコール42%、アーント・サリー、INU、ウルトラビデ、SS
注2. 「速い速い。去年の10月頃のSSがうそのようだ。POP・ROCK・CANDY+コカ・コーラ、又は炭酸のスピード化=SS。かなりキツイ音を出しているのに重さを感じさせないし、その上でこれだけPOPなのはキョーイ的、SPEED POPと呼びたくなる。闘う事ばかりに気を取られている、PUNKな人達は、SSがあなた方の手をはなれて、矢沢永吉やクールスや『グリース』のファンすら引き込むことすら出来る事を知らないようだ」(OUTSIDER 3号所載『KANSAI
NO WAVE inトウキョウ』からSSの項を抜粋)
注3.クロスノイズ、ROCK MEDIA共催。共演はアルコール42%、INU、ウルトラビデ、連続射殺魔。
注4.クロスノイズ主催。共演はアーント・サリー、INU、ウルトラビデ。
注5.他の出演バンドは自殺、フレッシュ。
注6.竹埜によればSSの代役として高野寛がソロで出演した由。
ところがCHANGE2000誌vol.3にはメトロが出演と書かれている。
eaterのHP(www.eater.co.jp/siryou/dt!80.htm)に出演バンドのリストが掲載されている。消去法でいけばSSの代わりに出演したのはノイズの様だ。今後の研究が待たれる。
注7.㈱マフィア・コーポレーション。MAFIAはMusic,Art,Fasion,Image,Advertisingの頭文字から。
創立は1974年、株式会社設立は1977年なのでトミーさんは生え抜き社員だった事になる。