VOICE OF EDITOR #9
- 2021.06.02
- OSAKA
ここに戻ってくるのは正直な話、結構パワーが要る。日常の仕事モードから文字を書く作業への心の切り替えをしなくてはならないからだ。毎月休まずに原稿を送ってくださるコラムニストの方には頭が下がる思いだ。感謝しております。
ちょっと色々ありまして、憲法が担保する権利と、コロナ禍での新型インフルエンザ等特別措置法に則って発出される緊急事態宣言下での要請との間で揺れていた。ひとつのイベントを実施するのにいつもより格段に業務が増え、しかも複雑とくる。細かく言っても愚痴になるだけなのでこのへんでやめておくが、それは、飲食店にも言えることでここにいつも来てくれるカレー屋店主『ふぁーにあ』も同様だと思う。
ROCK MEDIAというミニコミ誌を編集・発行したり、イベントをしたりしていた僕は、西部講堂でイベントをしていたプラスティック・ファクトリーの坂下氏にインタビューのオファーを出しOKをもらっていた。彼は1978年の10月にあった『Blank Generation』や1979年2月にあった『The Stranglers』、4月の『God Save The Emperor』、7月の『Talking Heads』、8月に『ワールド・ロック・サーカス』(出演:XTC/LIZARD/P MODEL/アーント・サリー)といったパンク/ニューウェーブのイベントを企画・運営していた。
その時のことは、EAT magazineで連載していた「親愛なるジェネレーションに捧ぐ」にも書いたのでここでは省くが、そのインタビューをきっかけとして一緒になにか面白いことをやっていこうということになった。坂下氏に紹介され、1979年11月22日の連続射殺魔とリザードのライブの企画書を西部講堂連絡協議会に提出し、協議会メンバーからの手厳しい質問の壁を超え受理された。チケットは250枚くらい売れた。LIZARDも単独ではまだまだ動員力はなかった。
1979年の春から夏にかけて同時並行的にいろんなことをやっていた。連続射殺魔をコンテストに出そうという試みもそのひとつだ。関西テレビの『ナイト・パンチ』という番組でバンドを募集していたのでデモテープを作成して応募した。『ナイト・パンチ』は司会進行が漫才の『漫画トリオ』のノック・フック・パンチの中のひとりパンチこと伝説的なMC上岡龍太郎氏であり、構成を今はなき白藤丈二氏が担当する関西での『イレブンPM』的なヴァラエティー情報番組であった。その中のコーナー『パンチDEデート』は独立して全国ネットされる番組になったことは有名だ。関西テレビに当時の資料が残ってないか連絡したが残念ながら残っていないという返事。貴重な映像がYoutubeにアップされていた。コンテストがあった同じ年、1979年の8月24日放送分の映像で『エルヴィス・プレスリー』特集。ゲストに最近朝日新聞の「語るー人生の贈りもの」で取り上げられていた元宝塚トップスター、まだ宝塚現役の頃の汀夏子さんが出演している。白藤丈二氏にはその後大変お世話になったなぁ。
奇しくも連続射殺魔は募集バンドの中からコンテストへの出場権を得てしまうことになる。和田くんはCD『玉琴へのジョギング』のブックレットの中で「ところがこのバンドは上岡龍太郎(まだ髪が黒かった)司会の関西テレビ番組(番組名が思い出せない)に出たりしてトントン拍子に事が進んでしまった。」と書いている。仕事慣れしていれば同録をもらっていただろうが、まだド素人だったのでそんなこと頭になかった。いつの放送だったか記録になく覚えていないが審査員の中にミスター・ロックンロール、内田裕也氏がいた。彼の存在は『ミスター・ロックンロール』よりあのフラワー・トラヴェリン・バンドをプロデュースした人、1976年に京大西部講堂にフランク・ザッパ&マザーズ・インヴェンションを連れてきた人、伝説のイベンター『MOJO WEST』と深い関わりが会った人ということで知っていた。連続射殺魔はそのコンテストでライブではいつも最後に演奏する『少数人種』で挑んだ。何ということでしょう、優勝は逃したものの内田裕也氏から特別に敢闘賞をもらうことになる。
連続射殺魔を東京でライブをさせるためにデモテープを持って、その頃まだ渋谷にあった屋根裏に行ったこともある。夏の暑い日だった。たまたま屋根裏の昼の部でP-MODELを見ることができた。東京はその頃、ライブチャージがドリンク代込みで1,400円。「高い!」と思ったのを覚えている。京都ではドリンクが400円、チャージが400円〜600円だった。
ちょうど我々Rock Mediaが連続射殺魔に関わる直前の1978年3月に彼らは渋谷・屋根裏にてライブを行っており、そのライブCDがリリースされている。多分同年6月に我々が行ったイベント「意識革命」でのライブと同じスタイルでのライブだったはずだ。
屋根裏にデモテープを渡したあと、我々のブッキングによる連続射殺魔の東京での一回目のライブはいつだったかは不明だ。対バンは「吉野大作と後退青年」だったことはよく覚えている。
たしか1979年11月17日に神奈川大学で行われた『エレクトリック・サーキット』から連続射殺魔にオファーが来ていた。多分僕はその企画制作をしていた「白楽企画」の森田さん(残念ながら亡くなった)と高橋さんと話していたと思う。そんな交流の中で『エレクトリック・サーキット』にもラインナップされていた吉野大作と後退青年のブッキングに協力してもらっていたと思う。『後ろ姿の素敵な僕たち』という曲が好きだった。僕たちは福生のチキンシャックIIにも行ったと思う。
しかし、連続射殺魔は『エレクトリック・サーキット』には出演できなかったのではないだろうか。ちょうどその頃、和田くんは足を骨折し11月22日の西部講堂のライブには松葉杖をついて来ていたからだ。僕自身もこの年に神大に行った記憶がないのだ。
1979年9月20日、連続射殺魔は渋谷・屋根裏でフリクションとライブをする。そのことは多分最後の発行になるRock Media 5号にかなりいいリアクションを得たことがレポートされている。我々はフリクションのファンジン『Watch Out 』の編集発行していた女性とも親しくなった。我々のROCK MEDIAより数倍センスのいいデザインや文章に圧倒された。また、高円寺にあったパンク・ニューウェーブ・マガジン「ZOO」(後の「Doll」)の編集部を訪ねている。厚かましくもその編集者の一人(名前は忘れた。すいません。)にお願いしてベースの中村くんと一緒に一泊させてもらった。森脇美貴夫さん、亡くなった黒田義之さんとその時初めて話をした。黒田さんとは彼が後に立ち上げるDEAD ENDやGAS TUNKが所属する『BLACK BOX』という制作会社と仕事をすることになる。
もしこのあと11月の神大『エレクトリック・サーキット』に出演していれば、もっといい流れを作れたのかもしれない。
Rock Media 5号には大阪に編集部があった情報誌「プレイガイドジャーナル」に掲載されたアーント・サリーへの「学芸会的超定休技術お嬢ちゃまバンド」という評価に対してその筆者にインタビューをしている。岩国さんは元気にしていらっしゃるのだろうか。
すでに自分たちが何をしているのかに気付いていたのかどうかはわからないが、その「評価」は新たなシーンを作り始めていて「何だこいつら?」的な我々に対するものと捉えることができる。当時「日本のフォーク」から派生したいわゆる「ニュー・ミュージック」をビジネスとして展開し始めていた夢番地、サウンドクリエーターがなどの新興イベンターがあった。そのようなシーン対してに我々はどのような戦略をもって既存のイベンターと一線を画しながら活動していこうとしていたのだろう。それがトーキョー・ロッカーズであり、その後頭角を現すP-MODELやヒカシュー、関西ではアーント・サリー、INU、ZIG ZAGだったし、トムス・キャビンが招聘する海外アーティスト、ザ・ストラングラーズ、トーキング・ヘッズやXTCだったし、神奈川大学の「エレクトリック・サーキット」を企画制作する白楽企画だったし、雑誌ZOO SUPER HEAD MAGAZINEだったのだろうね。
僕は『SPUNK OUT』というイベントを磔磔で始めていた。初回は11月22日。西部講堂でのリザードと連続射殺魔のライブと同じ日だった。京都のノーコメンツと東京からSPEEDをブッキングしている。SPEEDの青木氏とは後に山口冨士夫氏のTEARDROPSで再会する。2回目は12月16日。京都のスーパーミルク、東京からフリクションという組み合わせ。この日のフリクションのライブは『ed LIVE ‘79』として10インチのアナログ盤でリリースされている。
連続射殺魔は「ナイト・パンチ」のコンテストで敢闘賞をくれた内田裕也氏が主催するオールナイトで行われる『ニュー・イヤー・ロック・フェスティバル 1979-1980」に呼ばれ、出演することになる。アルバム『YOU MAY DREAM』でデビューし、後に「めんたい・ロック」をThe ROCKERS、THE ROOSTERSとともに牽引するバンドになるシーナ&ザ・ロケッツと畳敷きの同じ楽屋だった。このフェスティバルにはRCサクセション、P-MODEL、ヒカシューなど1980年代以降活躍するバンドが出演していた。内田裕也氏の先見性は素晴らしい。
12月のThe Stranglersのライブや大晦日のオールナイトイベント『REVO 80」の会議でよく会っていた西部講堂連絡協議会の小松氏から内田裕也氏に手紙を渡すようことづかっていた。会議や打ち合わせの際にニュー・イヤー・ロック・フェスのために西部講堂でのオールナイトイベントには参加できず、東京の浅草国際劇場に行くことを告げていたからだ。もちろんその手紙に何が書いてあったのかは知らない。裕也氏の楽屋はどこなのかを教えてもらい訪ねた。その時裕也氏は沢田研二氏とお話をされていたところだった。「今日は連続射殺魔を呼んでいただきありがとうございます。京都の西部講堂連絡協議会の小松さんから手紙をあづかってきたのですが、、、。」と挨拶すると「失礼なやつだな。今、沢田とサシで飲んでるんだよ。」と一喝された。しかし、沢田氏が「わざわざ京都から来てくれはったんやからそんなこと言わんと、、。」間髪入れずにととりなしてくれたおかげで手紙だけは受け取ってもらえた。それ以来「ジュリー」は僕の中で輝いている。その後裕也氏はそれぞれの楽屋に直々に挨拶に来てくれた。手紙はそのときに渡したほうが色々話せたかもしれない。タイミングってあるよね。
結果的に僕が関わった連続射殺魔のライブはこのときが最後になってしまった。CD『玉琴へのジョギング』のブックレットの中で彼は「しかし南部は地元京都で人気が無いのが不満だったらしく、バンドを解散させる、と言い出した。」と書いている。「不満」だったのではなく、東京でのリアクションをどうしたら関西にフィードバックさせることができるのかということは僕の課題だった。ベースとドラムがバンドを抜けることになったのがバンド活動停止の最も大きい理由だったが、このスタイルを存続しメンバーを探すかまったく違うものにするか、自分自身がどの方向に進むべきなのか、色々話したと思う。結局、それぞれ違う道を歩むことになった。僕はイベントを続けることでその課題と取り組むことにした。東京のバンドと関西のバンドをミックスさせたイベント『SPUNK OUT』は一旦終了し『Rave Up』とタイトルを変え継続した。(文:南部裕一)