実録 関西パンク反逆の奇跡 その7「チャイニーズ・クラブとDOKKIRI RECORD」
- 2021.07.06
- COLUMN FROM VISITOR
竹埜剛司(たけの・つよし)は京都深草にあるライブハウス・アニーズカフェのオーナー。15才で京都初のパンク・バンドにして当時世界最速と評価されるSSでベースを担当。以後チャイニーズ・クラブ〜ラ・プラネット〜イディオット・オクロック〜変身キリン〜アイ・ラブ・マリーと関西パンク創成期の重要バンドのベーシストを歴任した。
今回は竹埜剛司インタビューその5です。
「SSはステッカーを作っていました。トミーが働いていたマフィア・コーポレーションのデザイナーが制作してくれたんですよ。確か100枚だったと思います。黒と金で真ん中にロケットのイラストがありました。ハルヲフォンの『電撃的東京』のジャケットみたいなお洒落なイメージでメジャーな雰囲気だしメチャ格好良かったです。あちこちに貼って回ったらすぐ無くなりましたけど、もう作ってくれなくて終了(笑)」
▶SSが出していた『チャイニーズ・クラブ』というミニコミについて教えて下さい。私は現物を見た事がありません。OUTSIDER創刊号には「何の活動もしていないのに(SSインタビュー)といった、本当に悪ふざけとしか取れない記事を満載」と書いてありました。
「あれは僕は最初のしか覚えが無いです。トミーも参加してたけど主に篠田君が冗談で作ってて、こんなバンドが始まりましたというお披露目とメンバー紹介位であんまり読むところが無い。ファンジンというよりペラっとしたフリー・ペーパーですね。
『これどうすんの?』、『あちこちに置いてもらおうと思うて』、『置いてくれる所があったとしても内容が無さ過ぎてすぐ放られるで』と篠田君と話した覚えがあります。京都にも南部さんが作ってはった『ROCK MEDIA』みたいにホッチキス止めのしっかりしたミニコミがありましたから。ニコニコ亭、ハイカラ万花店、ほんやら洞なんかに置いてもらいました。

▶OUTSIDER2号に関西NO WAVE東京ツアーに関して「SSの(チャイニーズ・クラブ)に載ったキャッチフレーズによると(東京野郎のキンタマつぶしに出張)」とありますから何号か作ったんでしょうね。
「連続射殺魔のヴォーカルの女性はチャイニーズ・クラブの募集に来たんですよ。僕と篠田君が返事をしないで放っておいたらしばらくして篠田君がにこにこして『あの女、連射入ったで』(笑)。
それから勝賀瀬(しょうがせ)恵子と手塚恵子が応募してきて」

▶後にバンドの方のチャイニーズ・クラブに参加するWケイコですね。
「三条京阪の高山彦九郎の銅像の前で待ち合わせしました。一人はぽっちゃりしていてもう一人はスレンダーで小顔でした。二人とも桃山高校、通称ピン校の2年生でした。僕も高2になったばかりだったのですぐ打ち解けました。
音楽的な傾向で言えば勝賀瀬恵子はイギー&ザ・ストゥージーズが好きでした。イギーがソロになってからも大好きと言っていました。手塚恵子が変態で音楽は色々聴くけど私は金子光晴が大好きなんですと文学的な話を始めました。僕も興味があったんで盛り上がって篠田君にプッシュしました。ルックス的には篠田君好みじゃ無いけど面白いんじゃないかな、演り始めてから考えていこうと」
▶しのやんは「やってる人の気持ちとしては『NO NEWYORK』みたいな感じ」(注1)と発言しています。
「いや〜、そのエッセンスを入れながらって事なんですけど。コントーションズとかそういうのを演りたかったみたいです。
あの頃は渋谷のナイロン100%によく遊びに行ってたんです。しょっちゅうノー・ニューヨーク的な音がかかるんで篠田君と二人で『すげぇカッコいい、こういうのを演りたいね』と話していたんですが高校生の女の子二人にはそういうのはあんまり伝わらないじゃないですか?だましだましちょっとづつエッセンスを入れて模索しながら。
僕はサロン・ミュージックみたいなのを演りたかったんですよ。今でいう渋谷系の感じ」
▶東京のニューウェイブ・ユニットのサロン・ミュージックですか?
「いや、一般的な意味です。
その内に篠田君と変な軋轢が生じるんです。彼が僕にプライベートな事を質問してくる様になって面倒くさいんで絡みたくなくなっていたんです。1979年大晦日の西部講堂の時にとうとう嫌になってバックレました。それで北野っていう鴨沂高校の先輩が急遽ベースを弾いたらしいです」
▶チャイニーズ・クラブのドラマーだった磯野隆臣君によれば北野君とは音合わせしたけど合わなかったので彼がベースでライブは演っていない、ベースレスで演奏しようとしたが無理だった由。
1980年になってからも情報誌にはチャイニーズ・クラブのライブ情報が掲載されています。最後のライブは1980年2月9日クルセード。
しのやん(g)、磯野(drm)、いずみ(drm)によるトリオ編成のTHE FUNの初ライブは1980年3月12日サーカス&サーカスです。
チャイニーズ・クラブから竹埜君が抜けてTHE FUN結成までの経緯は今後の検証が必要です。
▶話は遡りますがどっきりレコードについて聞かせて頂けますか?チャイニーズ・クラブ、アルコール42%、INU、ウルトラビデ、変身キリンの演奏を収録したオムニバスアルバムで1980年2月リリース。発売元は必要レコード社。定価2500円、200枚プレスでした。
「どっきりレコードは高槻にあった(西川)成子ちゃんのアパートで町田君と成子ちゃんと3人で呑んでいる時に成子ちゃんが『今あるバンドの演奏を記録として残しておいた方がええと思う』と言い出したんですよ。町田君が『東京ロッカーズに対抗してコロッケロッカーズにしよう、チケット代わりにコロッケ売ったらええにゃ』(笑)、『今はレコードの話をしてるんと違うん?まとめようや』、『びっくりレコードにしたい』。
▶実際にはどっきりレコードですね。
「あれは僕が変えたんです。
レコードの制作費用に白地のジャケットが含まれていて、その形で納品されるのは事前に判っていました。先にジャケット・デザインだけ作っておこうという話になって篠田君から『この状態から考えてくれ』と丸投げされました。日が無くて、じゃあ一緒に作ろうかとWケイコと三条京阪で待ち合わせて寺町三条上ルにある文適堂っていう大きな文具店でインスタント・レタリングとか色画用紙を買って来て新京極のマクドナルド、今はダイコクドラッグになっていますけど」
▶にっかつロマンポルノを連日オールナイト上映していた弥生座があったビルですね。
「そうそう、そのマクドの2階に陣取ってサンプルを作りました。四角に切ったり帯にしたり色々試した結果、三角形になりました。
びっくりはインレタで平仮名、カタカナと試してローマ字にしようという事になってBIKKURIと書いてみてもピンとこない、びっくりレコードと言葉に出してみても如何にも安っちい、子供が考えそうなネーミングでダサいし嫌やな、勝手に変えてしまおう(笑)。びっくりと同じニュアンスだけど響きがお洒落で耳に聞こえが良いからどっきりにしちゃえ、ローマ字で打ってみても見栄えがする、これでいこうとデザインを決めました。終わってすぐ篠田君に電話を入れて『びっくりはダサいからどっきりにしちゃったし』と事後報告したら『ええやん、そっちの方が』。
後で町田君が『あれっ、いつの間にかどっきりになってるし。誰が変えたん?』、『僕』、『あっそう』で終了(笑)。何ら問題は生じなかったです」
▶ジャケットに貼り付けた三角形は何色あったんですか?
「僕が覚えているのは赤、黃、オレンジ、青くらいですね」
▶パンフレットにアート・デザイン チャイニーズ・クラブとクレジットされています。これも君とWケイコで作ったのですか?
「これは謎ですね。多分、手塚恵子が独りで適当に作ったと思います。僕の名前がTsuyoshiでは無くTuyociになっています。インレタが足りないし読めたらええか、身内やしと。1文字のためにもうワンシート買うのは勿体無いと考えたんでしょうね」
▶1979年11月1日ピッコロシアターで開催された必要レコード社主催のイベントは既にDOKKIRI CONCERT(注2)と銘打たれています。DOKKIRI RECORDチラシには11月28日発売と書かれています。
パンフレットには録音は1979〜1980年と大雑把に書かれています。
詳しく録音時期を検討してみましょう。
録音はINUだけ2回です。
1回目のメンバーは町田康(vo)、西川成子(b)、北田昌宏(g)、北川裕史(drm)。
INUに北田君が加入したのが1979年8月、北川君が辞めて東浦君が加入するのが同年10月です。ですから他のバンドの録音もこの足掛け3ヵ月の間に行われジャケットデザインも同時期だったのでしょう。
1980年とあるのはINUに東浦君が入って「飯喰うな」以外の3曲を録り直したのが年が明けてからだったからと思われます。

▶パンフレットにはプロデューサーは町田、ウルトラビデとチャイニーズ・クラブのエンジニアはピデとクレジットされていますが?
「プロデューサーなんていないですね。各バンドのセルフ・プロデュースです。ビデは遊びに来ていましたけど(笑)、音作りをしていたという訳では無いし。居ただけ(笑)、良く言えば現場監督。『よしよし、みんな頑張ってね』みたいな。
僕等の録音は賀茂大橋東詰にあったスタジオ・ワンを5時間位借りてやりました。一発録りでした。INUとチャイニーズ・クラブは同じ日にレコーディングでした。
北田君が『クライ・ベイビーの調子が悪いから誰か代りを持っていませんか?』と言っていたのを覚えています。
チャイニーズ・クラブはパンクっぽい曲も演ってたんですけど曲調がINUと被るんで録音はしませんでした。他のバンドはきっちり路線が決まってるじゃないですか?隙間産業というか流動的に動けるのは僕達だけだったので、どこのバントにも当てはまらない事を演りました。僕は常に隙間産業ですよ。SSもそうだし。後に参加した変身キリンだって隙間産業じゃないですか?」


▶プレスはパーソナル音工です。変身キリンの田中栄次君が本田久作君に頼まれてマスターテープを持って行ったそうです。
「スタジオ代はメンバーで割って払いました。みんな無頓着でしたね。
録音が終わったらすぐ忘れてしまってるんで(笑)。
レコードが出来上がって『イケてるん違う?』で流通させて終わり。篠田君に『レコードが売れた金はどうなってるん?』、『さあ知らん』、『そんなんでええの?』(笑)。
そのまま時が流れて誰かから『あの売上金は町田が東京に行く資金にしたらしい』と聞きました。『ああそうなん、いずれ返してもらおう』でみんな無闇に怒ったりしていなかったです。もう過ぎた話やと。あの頃はレンジが短かったんですよ。みんな次の新しい事を演ろう、先に行こうとしてました」
▶それは判ります。アルバムが出来上がった時点でチャイニーズ・クラブ、アルコール42%、ウルトラビデが既に解散していましたからね。普通なら全バンド揃ってレコ発ライブを演るでしょう。
1980年1月15日クルセードでのDOKKIRI RECORD発売ギグ(注3)ではまだレコードが出来ていませんでした。同年2月24日京都大学尚賢館でのODWARA ♯3 PUNK PARTY(注4)が実際の発売ギグでした。
「作った時は今現在やってる事の記録という意味合いだけでした。
あの中にアーント・サリーがいなかったのが痛かった。ドル箱でしたから」

▶必要レコード社の葉書には「シングル発売を考えています」とありましたが結局立ち消えになってしまいました。

スマッシュ・ウエストHPに連載されているコラム「特殊音楽の世界」26回で石橋正二郎さんもどっきりレコードを取り上げておられます。
つづく
注1.DOLL NO.60 1990年10月号所載 京都パンク・シーン1978〜1990年!!より抜粋。
注2.DOKKIRI CONCERT出演バンド/アルコール42%、INU、ウルトラビデ、チャイニーズ・クラブ。
注3.DOKKIRI RECORD発売ギグ出演バンド/アルコール42%、INU、チャイニーズ・クラブ、変身キリン。
注4.ODWARA ♯3 PUNK PARTY出演バンド/INU、ODWARA、変身キリン、UPメーカー。