実録 関西パンク反逆の軌跡「竹埜剛司インタビュー その6」

竹埜剛司(たけの・つよし)は京都深草にあるライブハウス アニーズ・カフェの店長。15才で京都初のパンク・バンドにして当時世界最速と評されたSSのベースを担当。その後はチャイニーズ・クラブ、ラ・プラネット、イディオット・オクロック、変身キリン、アイ・ラブ・マリーと関西パンク創成期の需要バンドのベーシストを歴任した。
今回は竹埜剛司インタビューその6です。



▶チャイニーズ・クラブ脱退後の音楽活動について教えて下さい。

「プレゼンツという名前でどっかで演った覚えがありますね。正式なバンドではなくユニットでしたが。」



▶1980年3月20日クルセードでザ・プレゼンツとチャイニーズ・クラブが対バンしています。
次がラ・プラネットですか?

「フレンチ・マーケットというサーカス&サーカス系列のライブハウスでイベントがあってビデに『竹埜君も出ない?』と誘われたんです。Wケイコの片割れの手塚恵子が歌を歌いたいと言うので彼女をボーカルにして僕がベースを弾いてギターは恋のKOパンチの三谷君に頼んで誰かの紹介でベラミの専属ドラマーに取り敢えずそのライブだけ叩いてもらって。彼は同級生なんですがジャズ畑で僕達の音楽を説明しても理解が出来ないというか楽譜が無いと叩けない人で大変でした。何とか1回目は終了」



▶フレンチ・マーケットは1981年1月10日に開店しています。ラ・プラネットは情報誌のライブ・スケジュールでは同年5月25日フレンチ・マーケットでリラダンズと対バンした記録しかありません。このライブは観に行きました。ラ・プラネットに女性バイオリン奏者がいて良くそんな人を見つけて来るなと感心しました。

「それが2回目のライブです。メンバーは手塚恵子と僕と当時高校生でジャンク・ジャングル・ジャンルでバイオリンを弾いていた圭子、ドラマーがいた様な気がしますが思い出せないです。バイオリンが入ったのがライブの一週間くらい前で練習が2回しか出来なくてヒヤヒヤしたのを覚えていますね」



▶ラ・プラネットの曲は竹埜君が作詞作曲ですか?

「そうです。手塚恵子がこんな感じで歌いたいと言うのを聞いて詞はバタイユのマダム・エドワルダなんかから引いていました。毒々しい表現を柔らかく変えて。曲はそういうゲームみたいな感覚で作ってました。当時は変身キリンと掛け持ちしていました」



▶竹埜君は変身キリンに1980年春にベースで参加して82年冬まで在籍しています。本田久作(vo,g)、須山公美子(k,vo)、田中栄次(lg)、竹埜剛司(b)+ドラマーでバナナ倶楽部月例演奏会をウエストウッドで企画していた81年夏頃までが変キの絶頂期だったと思います。

「僕が入った頃はドラマーの高畑千穂ちゃんの実家で淡路にあった高畑医院で練習していました。その後のドラマーがしのぶちゃんでした。べードラを踏めないのでまるでベルベットやん(笑)、面白かったですね。田中栄次君がギターで居たんで以心伝心でテレビジョンぽくなってしまう。須山さんはロックっぽくなってうるさい、自分でバンドを組むと辞めて行きました。辞める、辞めないでミーティングをした訳ではなくて本田君から『須山さん辞めてしもたし』と事後報告だけ。薄々は判っていたけどいきなりでしたね。
田中君が辞めたのはもっとショックでした。本田君と『あれ、誰がギター弾くの?』、『俺でええやん』のやり取りがありました。結構な勢いでキー・パーソンが辞めて行きました」



▶1981年6月21日ウエストウッド、7月25日フレンチ・マーケットで本田久作(vo,g)、須山公美子(k,vo)、田中栄次(g)、竹埜剛司(b)、イディオット(drm)という豪華メンバーで集大成的なライブを行った後、須山さんと田中君は脱退しています。

「その当時アイ・ラブ・マリーにいたドラマーの中村峰子が最後の頃の変身キリンに入りました。
法政大学で本田君、中村峰子、僕のトリオで演奏した事があります。エフェドリンでラリラリだったけど後で聞くと結構好評で他のバンドの人から格好良かったです、圧巻でしたとか褒められました。本来の変身キリンではないアグレッシブでヤバいムードでした。マントヒヒでもこのトリオで演りました。」



▶チラシにある1981年8月22日です。

「本田君が天王寺に来たからはしゃいでリハする前から『どて焼き食いに行こう』と酒を呑みだして、それにつられて呑んでいたら全員ベロンベロンに酔っ払って呂律が回らなくなって非道かったです。中村峰子はへべれけでゲロ吐きながらドラムを叩いて(笑)、どパンクな演奏でした。
対バンがすきすきスウィッチだったんですけど佐藤(幸雄)さんは『えっ、変身キリンってこんなバンドだったのか』と驚いたでしょうね(笑)」



▶3マンでもう1バンドは須山さんのロープスでした。

「それからボーヤ(菅野直樹)が入ります。彼は『あまとりあ』という自称裸のラリーズみたいなバンドのギタリストでした。ろくでなしで僕達がたまっている時にいつも呑んだくれてる年配の人で本田君が仲良くなって『ボーヤ入れるし』、『絶対まともなギターは弾けないし止めた方がいいよ』、『じゃあ他に誰がおるねん?』。僕は本田君だけがギターで充分と思ってたんですけど、本田君は『もう一人居た方が良い』。



▶変身キリンのEP盤「8月4日に」について聞かせて下さい。

あのレコードは芦屋のスタジオエイトでレコーディングしました。スタジオはエンジニアの木下真和さんの実家の一画にあって彼の家にみんなで一泊して。録音に飽きて深夜に近くの神社で缶蹴りした覚えがあります。
僕がラリって中村峰子の体中にチョコレートを擦り付けてはしゃいでて、その辺の住民が凄い暴力的な何かが行なわれていると勘違いして通報されて警察が来て録音に参加出来なくなり頭士君が急遽ベースを弾いてくれました。
レコードが出る段になってパーソネルを何て表記するという話になりました。本田君が久作だし昔の名前が良いのかなと思って僕のおじいちゃんが百太郎やしそれにしといてと。



▶EPは1982年5月17日にリリースされました。レコ発ライブは9月4日京都のLive in Fou。メンバーは本田(vo,g)、中村(k,vo)、竹埜(b)、ボーヤ(g)、近藤ユウ(drm)。対バンはアウシュヴィッツ。

「本田君は自分でボーヤを入れるって言っちゃった以上意地があるんで切れなかったんでしょう。
彼はDee Bee’sで山本公成っていうサックスプレーヤーと一緒に演ったけど入が悪くて気持が腐ってましたね」



▶それから本田君は孫家邦を頼って東京に行き変身キリンの関西時代はは終わりました。
竹埜君の実家が本屋だった事は音楽活動に何か影響を及ぼしましたか?

「僕の親は山科で竹野書店という本屋を営んでいました。店は京都薬科大学の学生が山科駅から通学する道すがらの小さな商店街の一画にありました。貸店舗のちょこっとしたスペースなのでバックヤードが全く無いんですよ。在庫は近所にあった実家の空き部屋に置いてあってそこから運んでいました。
今だったら本はアマゾンで注文するんでしょうが、当時は薬大の学生が『こんな本を読みたいんです、取り寄せして下さい』と頼みに来ていました。僕はそういう本を眺めて『こんなんがあるにゃ』と普段は本棚に並んでいないコアな本を知りました。母親も取り寄せを頼まれた本を他にも需要があるかも、と何冊か注文していました。
週刊本とかは毎日の様に東販から配達に来るんですよ。新町通り沿いに東販の3階建て位のでっかい本の倉庫があって、僕は中学生の頃から使いっぱしりで『竹野書店から来ました』と出入りしていました。在庫を見せてもらえる特権があって半日位かけて好きな本を選んで台帳に店の判子を捺して持って帰るんですよ。
読む読まないに関わらず興味のある本が家に置いてある状況だったので面白そうな本は大体知っていました。


ニューウェイブ・バンドを演っている人はロックマガジンで松岡正剛さんの連載を読んで一気にそっちに行くのが多かったですけど。

本田君は文学青年じゃないですか?僕に本の話題を振って来ても何でも答えられていたんです。『竹埜、お前何でそないよう知ってるねん、俺付いて行けへんわ』(笑)。本田君は饒舌なんでどんどんあれ知ってる?これ知ってる?と話しを振って来て盛り上がるんですよ。変身キリンに参加してしばらくは本田君と深夜に電話で5時間位ざらに話していました。うちの父親がめっちゃ怒って『何でこんなに電話代が高いねん、4万円もある』(笑)。
あの人、仕事してへんし暇じゃないですか?電話を切りよらへん。こっちからライブの予定とか尋ねる電話をかけたら『それでやー、こんな話知ってる?』と喋り出したら止まらへんから切る機会を失っていまって。」



▶変キのメンバーだと田中君は大阪外大でSF研究会に所属していました。

「あの人もよう知ってますね。ブラッドベリとか好きで詳しかったです」



▶須山さんは仏文やし。

「須山さんは一家言ありますからね、『私はこう思うの』と言い出したらもう口を挟めへん(笑)」



▶林直人君も読書家でした。彼と文学の話はしましたか?

「林君とは無いですね。アウトサイダーな感じでちょっと怖いイメージだったので。岡市さんの方がよく話しましたね」

つづく