特殊音楽の世界44「映画と音楽」

 今回は映画と音楽の関係について。

 以前、「特殊音楽家と映画」というタイトルで映画と音楽の関係について書きましたがその続編のようなものです。

 今回は日本映画のことを中心に(一つは洋画)紹介します。

 まずカンヌ国際映画祭で脚本賞他4賞を受賞した話題の現在公開中の映画「ドライブ・マイ・カー」のことを。

 実は映画はまだ観ていません。未見の映画のことを書くのは気が引けますが、音楽を担当した石橋英子さんのこのインタビューを読むと、とても面白く興味深いことがたくさん語られているので取り上げることにしました。

まずはサントラのトレイラーを。

 上述したインタビューはこれ。

https://www.cinra.net/interview/202108-ishibashieiko_ymmtscl

 映画と映画音楽の関係についてとても興味深く大事なことがたくさん語られていますね。

特に面白いと思ったのは

”監督自身も「映画のなかの音の位置」みたいなことをよく考えてらっしゃる方だと思うので、音楽がそれらの音の一部として機能することができたんです。そのことにとても助けられました。”

という部分。

 インタビュー中でも引用されているジャック・タチの「プレイタイム」(‘67)では、SEとしての音がSEでもあり「音楽」とも捉えることができるように思えるところが多々あります。

SEの音質や音量をコントロールして、極めてエクストリームな「音楽としてのSE」と言っても言える特異な「映画音響」を作った映画だと言えます。

 そのことがよくわかる部分がこれです。

 椅子に座る音やバッグのジッパーを開ける音等の「映画の中の音」がありえないほど音量も大きく、しかも極端に音質も調整されています。

最初の方は外の車の走行音がバックに流れていますがいつのまにかそれはなくなり、後半は謎のノイズがバックに流れています。

 肖像写真の目線等々、計算され尽くした映像ですが、これコメディなんです。コメディだからこそ計算されているのかもしれませんが。

「映画の中の音」であるSEと「映画の中における音楽」の関係について深く考えさせられる映像だと思います。

これを観た後、石橋英子さんのインタビューを読み返すととても面白いです。

 「映画の中の音」「映画の中における音楽」について考えると絶対に無視できないのが武満徹の映画音楽です。

 わかりやすい例としてはやはり「怪談」(’64)ですね。

 映像と音楽、音響の非同期性ということは武満の映画音楽でよく言われることですがやはり特徴的なのはその「音」ですよね。

 例えば1話の「黒髪」ではドクロを見た後の「映像としての音」= SEは一切消されています。その代わりにテープで作った「あたかも壁や床が壊れているような音」がタイミングをずらして挿入されています。

 壁や床が壊れたと思える音をテープで作り、しかもそれをタイミングをずらして挿入することで異世界へ一気に連れ込んでくれます。

そして一番肝心なのはその「音」がSEでもありながら「映画音楽」でもあることです。

またテープのヒスノイズでさえも効果的に使われている部分もあります。ヒスノイズもまた映画の中のSEでもあり「映画音楽」でもあるのです。

 映像と「音」「映画音楽」との関係について考えるときにけっして無視できないのがこの「怪談」だと思います。

 未見の方は是非一度ご覧になってください。

 映像における音楽の力がどれだけ強力なのか、よくわかる例を一つ。

 61年制作の関西の貧困住宅(スラムと表現されてます)の記録映像です。

http://www.kagakueizo.org/pre/movie.html?0687%2Fslum.mp4&fbclid=IwAR1eQWDCWekcZqALagcuYyAXIld6HY-ymHAT5nTLIFgzkoRV8rNPVp__FlQ

一柳慧、高橋悠治両氏の音楽ですが、音楽は素晴らしいのにその力がすごすぎて映像が音楽に引っ張られているように思えます。

 映像は強烈なのに、あの音楽がつくことによって映像によって受けるイメージを固定化させているように思えます。

 武満徹の映画音楽でもうひとつ。この音楽は武満徹映画音楽全集にも収録されていません。ただ映画としてとても面白い作品なので紹介します。

 「渇いた花」(’64)

文芸ヤクザ映画と言ってもいいのか、ちょっと変わったヤクザ映画ですがここでも武満の映画と音との冷静な距離の取り方は面白いです。

スタイリッシュな映像と音との関係を意識して観ると面白いと思います。

 しかしその時代を代表する風俗として音楽を捉えている映画も面白いんですよね。

 例えばこの「非行少女ヨーコ」(’66)

ジャズが若者のメインカルチャーだった時代の映画で、ジャズの生演奏もたくさん取り入れられています。

 タイトルバックでは音楽の八木正夫のバンド演奏がそのまま収録されています。

 オシャレでモダンなその演奏シーンは、ジャズがメインカルチャーだった時代を十分に感じさせてくれます。

 ちなみにジャズ・ピアニストでもある八木正夫は網走番外地他数多くの映画音楽を手がけ、あしたのジョーの主題歌の作曲者でもあります。

 映像と音の関係に深く嵌まり込むことなく、メインカルチャーをそのまま質よく取り込んだような映画もやはり面白いんですよね。

 ここで一つ、とても貴重な映像をご紹介します。

 映画の中で現役のフリージャズミュージシャンの演奏が見られます。

 フリージャズも当時の若者にはとって最先端の文化だったのでしょう。

 加山雄三主演の「さらばモスクワ愚連隊」(’68)での冨樫雅彦の演奏シーンです。

日本フリージャズ界不世出の天才冨樫雅彦は、この2年後に下半身不随になります。その後も動かすことができる上半身だけで演奏を続け、数々の名作をリリースしています。これは全身を使った演奏が見られるとても貴重な映像です。

 ちなみにこのバンドのピアノは上述した八木正夫です。

 最後にその映像のみならず、映像と音楽の関係も特異な映画を紹介します。

 足立正夫監督の「略称・連続射殺魔」(’75)。

1968年に、4都市で起きた射殺事件の犯人である当時19歳だった永山則夫の生い立ちから逮捕までを、永山が目にしたであろう「風景」をただ撮り続けた映像と、バックにドラムとサックス(冨樫雅彦、高木元輝)のフリー・ジャズが延々と流れるだけの映画です。

 若干のナレーションはありますが86分間、延々と風景とドラムとサックスのフリーな演奏が流れます。

 「永山基準」と呼ばれる死刑適用の判断基準ともなったその事件のことをもしご存知ない方は調べてみてください。

ただ風景を写しているだけの映像なのに永山則夫の人生を追体験しているように思える極めて特異な映画です。

 この映画における音楽もとても特異な位置を占めていると思います。強烈な音楽なのに観ているうちに映像の「風景」とだんだんと同化していくように思えます。

 今ではなかなか観ることが難しい映画ですし、楽しい映画でもないですが機会があれば一度体験して観るのも面白いと思います。

 :レーベル、企画を行うF.M.N. Sound Factory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。