実録 関西パンク反逆の軌跡 その8「イディオット・オクロック、コンチネンタル・キッズ、アイ・ラブ・マリー」

竹埜剛司(たけの・つよし)は京都深草のライブハウス アニーズ・カフェの店長。1978年、15才で京都初のパンク・バンドにして当時世界最速と評されたSSにベースを担当。その後はチャイニーズ・クラブ、変身キリン、ラ・プラネット、イディオット・オクロック、アイ・ラブ・マリーと関西パンク創成期の重要バンドのベーシストを歴任した。
今回は竹埜剛司インタビューその7です。


イディオット・オクロック
「イディオットから『螺旋階段の練習にJOJO(広重)が来なくて困っている、誰か居ない?君演ってよ』と誘われたんです」


▶1980年前半の話ですね。

「忙しいんでどうしようか迷っていました。それからイディオットは僕がスタッフをやっていたファッティ・キャットに『金が無いしツケで呑まして』と来る様になりました。彼に店のボランティア・スタッフだった曽我晃次を『コーちゃん、ベース弾けるんやったら演りいや』と紹介しました。コーちゃんは嵯峨美術短期大学出身で僕の10才くらい上でした。彼はイギー&ザ・ストゥージーズが好きで僕が知り合った頃はイギー、イギーと言っていましたからイディオットとは相性が良かったんじゃないですか?
彼はメンタル的にバランスが悪いんで躁の時は煩い位なんですが鬱になると何をするのも邪魔臭い(笑)。練習にも来たり来なかったりだったみたいでイディオットが『コーちゃん、連絡が取れへん、ライブのブッキングもままならん』とぼやいていました」


▶コーちゃんがイディオット・オクロックを抜けた後釜が竹埜君でした。メンバーはイディオット(vo,g)、頭士奈生樹(g,cho)、竹埜剛司(b)、柴山伸二(drm)。
イディオットがギターを弾き始めてサウンドがヘビーになって行った時期です。このメンバーで1982年3〜4月に3回ライブを演っています。
私は竹埜君の次の次のイディオット・オクロックのベーシストでした。ドラマーはコーちゃんでしたが彼は曲名はおろか曲調やテンポとか何も覚えてないんですよ。

「そういう所ありますね」


▶でも本番は何となくこなすんです。

「雰囲気でね(笑)。ある意味で器用ですよね。ドラムまで叩くとは思ってなかったです」

コンチネンタル・キッズ前夜
「篠田君が爛ちゃんを連れてファッティ・キャットに遊びに来たんですよ。僕が18才で爛ちゃんが28って話をした覚えがあるので1981年です。爛ちゃんはスペシャルズみたいな2トーンのミニのワンピースを着て白黒のハイヒールを履いて髪型はB52’sみたいに盛っていて1年前なら居ったけど流石にその頃の京都にはもういないタイプでした。あの頃はレンジが早いんで半年もしたらダサいイメージになってしまうんですよ。後はヤンキーが真似して着てる位。ライブでも無いのにそんな格好してんの?え〜で引いてました。
しばらくして篠田君から『前に連れて来たあの娘がボーカルでバンドをやるんでベース弾いてくれよ』と頼まれました。篠田君の家に練習で行ったら磯野君も居ました。その頃はラ・プラネットの他に変身キリンも手伝っていてかなり忙しかったので段々面倒くさくなって3回目位からすっぽかしだしたんです。その内に爛ちゃんがベースを弾き始めて弾きながら歌えへんからボーカルの男の子を入れて」


▶コンチネンタル・キッズの初代ボーカリストの月泉秀(つきいずみ・しゅう)ですね。

「爛ちゃんがベースを弾くようになったのは僕が練習に行かなくなったからですよ」


▶コンチのライブ・デビューは1981年5月5日フレンチ・マーケットでした。爛子さんはベースを始めて3ヵ月でデビューしたそうです。やむを得ずだったんですね。彼女は本当はボーカルを演りたかったのでコンチと並行してスペルマを始めたと。

「月泉がコンチに入った頃は僕がファッティ・キャットからミーン・マシーンというカフェバーに移った頃で彼等はよく呑みに来てました。ミーン・マシーンはフレンチ・マーケットの隣の隣のビルの奥にありました。フレンチまで歩いて1分(笑)。観たいバンドだけ覗きに行ってました。夜はスタッフが僕一人だったのでその間は常連客に店番をお願いして。
フレンチ・マーケットのブッキングの人もサーカス&サーカスに元居てはって知り合いなんでチャージ無しで入れてくれました。ドリンクは頼みましたけど。


▶奥野哲也さんですね。今は京都でティー・ボーンという録音スタジオを経営してはります。

アイ・ラブ・マリー
「アイ・ラブ・マリーは松田洋君がギターでした。彼は嵯峨美でコーちゃんの2つ、3つ後輩でした。彼はブルース上がりで色々なタイプの曲を弾きこなせる技量がまだありませんでした。こんなギターの弾き方もあると口で説明するより人のプレイを見た方が判るかなと思って頭士君に『しばらく一緒に演ってもらえませんか?』とお願いしたら快く『いいよ』と。
(和田)しのぶちゃんはパントマイムに目覚めて変身キリンを辞めると言い出しました。松田君、頭士君、僕のアイ・ラブ・マリーでドラムが見つからないんでしのぶちゃんに『演ってよ』と頼んだんですよ。『一回だけやで』と引き受けてくれました。


▶1982年10月31日拾得ですね。対バンはイディオット・オクロック。私がベースでした。

「その時は自然な流れだったけど、本田君にしたら『しのぶちゃんはロックバンドを辞めると言って変身キリンを抜けておきながら何で竹埜のところでドラムを叩いてるんだよ』と面白くなかったと思います。
しのぶちゃんが本番前に『めちゃ緊張するわ』と手の平に人と書いてペロペロ舐めとって『何してんの?しのぶちゃん』、『気を鎮めてんにゃ』(笑)。
本番では頭士君が物凄い勢いでギターを弾きまくっていました。拾得の客はブルース好きなおっさんばかりなんで耳を塞いでステージから目を背けて酒を呑んどって『早よ止めろや』とか野次られて超険悪なムードてした」


▶当時の拾得は出演バンドに関係なくおっさん連中が飯を食ったり酒を呑みに来ていましたからね。

「居酒屋ノリ(笑)。あのライブは面白かったですね。演りながら笑いが込み上げて来ました。ざまぁみやがれと(笑)。
頭士君がまったく気にせず涼しい顔で凄い心臓してるわと感心しました。良かったな、パンクで(笑)。嫌われてたもんな」


「アイ・ラブ・マリーはビート・クレイジーでもビデ君が仕切るイベントに出演する事が多かったですね。
田畑(満)もちょっとだけ入っていました。その頃はジョナサン・リッチマン&モダーン・ラバーズみたいでした」


▶1982年8月6日、20日、27日にどらっぐすとぅあで竹野百太郎、タバタ、松田ヒロシの連名で「粉々の王子のためのかぐわしき月の乙女たち」というイベントがありました。

「アイ・ラブ・マリーはイコール僕で松田君や田畑とアートで遊んでいた感じなんですよ。アイ・ラブ・マリーでライブに誘われると僕の回りに居る人の中で都合がつく人が集まって何か演ると。ちゃんとしたバンドと言うよりユニットでしたね。難点はその都度集まったメンバーで出来る事しか出来ない。自由度は高かったですが定着しなかったのが問題でした。
最終型は中垣君ていう30前で松田君より少し年上の初心者ドラマーと松田君と僕のトリオでした。フラワー・オブ・ロマンスみたいなドラム中心で不協和音でオルタナの極み。中垣君はその頃僕がバイトしていたミーン・マシーンの常連客でした。毎日来てはブラック・ニッカ、ボトルが2800円だったかな?をほぼ一本空けて帰るんですよ。広島に居る頃はイギー&ザ・ストゥージーズみたいなバンドを演っていて歌が歌いたいって言っていたのを冗談で『ドラマーが居ないし叩いてくれる?』と誘ったら乗ってきたんですよ。ライブが決まっていて一週間くらいしか無いんで深夜にスタジオに入って練習しました。出鱈目な叩き方なんですけどパワーが凄いんですよ。バスドラムのミュートを開放するんでうるさいの何の。それはそれで面
白かったですけど。
アイ・ラブ・マリーは僕が東京に行って不在中に松田君がコンチに入り中垣君が死にかけて広島に帰って空中分解しました」


▶竹埜君は1978年に15才でSSに加入して20才前に演奏活動を止める訳ですから早熟ですよね。正にアンファン・テリブル(笑)。


つづく

次回は竹埜剛司インタビュー番外編「注文すべき人々との出会い」。