実録 関西パンク反逆の軌跡 その9「注目すべき人々との出会い」
- 2021.10.05
- COLUMN FROM VISITOR
竹埜剛司(たけの・つよし)は京都深草のライブハウス アニーズ・カフェの店長。15才にして京都初のパンク・バンドにして当時世界最速と賞されたSSのベースを担当。
その後はチャイニーズ・クラブ、ラ・プラネット、変身キリン、イディオット・オクロック、アイ・ラブ・マリーと関西パンク創成期の重要バンドのベーシストを歴任した。
最終回の竹埜剛司インタビューその8は番外編として彼と交流があった関西パンク創成期の個性豊かな人々について語ってもらった。因みに登場人物は全員十代後半です。
【フューとアーント・サリー】
「1978年10月10日京大西部講堂のブランク・ジェネレーションにSSで出た時に森谷弘美さんと知り合ったんですよ」
▶アーント・サリーのフューですね。
「篠田君はその頃にはバイクを卒業してバモスホンダっていう黄色い軽のジープに乗ってました。雨が降ってたのかな、そのジープの内で出番待ちをしていたんですが屋根が幌で寒かったのを覚えています。
そしたら女性が『私は大阪でバンドをやっているんです。今日出演するんでしょう?今後こういうライブがあったら一緒に活動しませんか?』と話し掛けて来て名刺をくれたんです。それが森谷さんで他のメンバーにも紹介しました。篠田君とかトミーは見た目が怖いんで(笑)、多分僕が一番声を掛けやすかったのかな?
彼女は小心者、こわがり(笑)。その時のイメージは小さい人、ビッケ程ではないけど僕より小さい感じ。ショートヘアーで。それが年末に東京で会ったらすごい背が高くて、『あれっ、僕と一緒くらいやん』と」
▶フューは「最初はカヴァも含めて、速くてやかましい曲をやってたんだけど、すぐにやめて、オリジナル曲を作りだしました。さまにならないし、カッコ悪いと思ったから。SSのライヴを観てとてもかなわないと思ったんですよ」(クイック・ジャパン39号掲載 PHEWインタビューより)と発言しています。
「マイ・ジェネレーションのザツいカバーを演っていました。まだその頃はベーシストがおじさんでチラシにはベース/ザッパと書いてあって笑いました。髭をはやしていたからですね。
1978年12月25日S-KENスタジオ『クリスマス・ギグ』のアーント・サリーのライブをワーストノイズのジュネが女の子を二人連れてステージの真ん前で観ていてたんですよ。彼がウケて大笑いしていてえらい盛り上がってるなと思いながら観ていました。
僕等は打ち上げには参加しないで青山のアジア会館に帰りました。真夜中にフューが激オコで『話がある』とビッケと一緒に僕等の部屋につかつかと入って来て『今日、前でゲラゲラ笑ってた金髪の男おるやろ?私らそんなオモロい事演ってたか?』『いや、いつもの通りやったけど』、『ムカつく、笑っていた訳が知りたい』。30分位怒りが収まらなくて朝まで居られても困るんで『会うたら聞いとくわ』で部屋へ返しました。
ジュネに正したらあれは自分が非常に演りたかった事で『いゃ〜先に演られてるやん、俺』とウケて大笑いしてしまったと。
1979年5月にヴァニティからアーントサリーのアルバムが出ました。フューは阿木譲さんとつるむ様になってストリートからいなくなり、どらっぐすとぅあのイベントにも出なくなりました。
その頃にイディオットが作った曲が『She』です」
▶♪彼女は精神病院に行った 黒い革靴と帽子を残して、という歌詞はフューの事だったんですね。
「コーちゃんの代わりに手伝いでイディオット・オクロックに入ったその日に頭士君から聞かされました。」
【腐れおめこ】
話が戻りますが、それから10日後くらいかな、フューに『腐れおめこというバンドを紹介するから会ってきたら』と勧められました。僕らも他のバンドとつるんでライブが出来たらいいなと思っていたので『丁度ええやん』と連絡先を教えてもらって篠田君と二人で練習を見学に行きました」
▶1979年の始めですかね。
メンバーは町田康(vo)、林直人(g)、田オショウ敬介(b)、西森武史(drm)。実質INUですね。
「林君が入ってまだ一ヵ月も経ってない時。彼はついこの間までRUDEってバンドでボーカル演ってたって言ってました。まだ雰囲気がグラム系の感じ。髪は長くて肩までありましたね。
町田君の第一印象はヨレヨレ、異様に汚い。服も洗濯されていなくてその辺で寝っ転がったりするんで泥とか付いているんですよ。ジョン・レノンみたいな黒くて丸いメタルフレームのサングラスをしているんですけど真ん中でバキッと割れているのを安全ピンでむりやり留めていて左右のレンズが上を向いたり下を向いたり(笑)。まるで狂人の様で『何やこいつは、変な奴やな』と。彼は僕と同い年で身長も同じ位なんですが凄い猫背で僕の顎位しかないんですよ。練習の時にジョニー・ロットンを真似してましたが普段からそうで『お前、そんな姿勢でしんどない?』と真面目に尋ねたら『いつも猫背やからこれが一番楽いんや』。
西森君はスポーツ刈りで銀縁の四角い優等生みたいな眼鏡をかけていました。後に背が高くなったけどその時はまだ発育過程で僕と一緒位でした。彼女に作ってもらったお手製のキルトのバッグにドラムセットを入れてました。エレキギターでThomasとかTomsonとか売ってた二光通信販売ってあったでしょう?彼のドラムはそういう通販で買ったらしくて普通のよりちっちゃいおもちゃみたいなセットでライブの時も持って来ていました。ライブハウスにあるドラムはこれと違うんで演り辛いんや、バッグも作ってもらろたし使わな申し訳無いしって言ってました。変な奴でした。
腐れおめこは変な人達という強烈なイメージがありますね。
1番強烈やったのはオショウ。寄って来ただけでアンパン臭い(笑)。ずっとマスクをしていてガーゼにシンナーを染み込ませて常に吸ってる状態。何かを問いかけても反応が遅いというかタイミングがズレてました。練習もすっぽかすんで町田君が『また今日も来よらへんわ、うっとしい』。
翌年にINUのライブで小間(慶大)君がベースを弾いていたので『あれ、オショウ辞めたん?』と町田君に尋ねたら『辞めたっちゅうか、来いひんにゃ』。結局うやむやになって去って行ったみたいです」
▶それは1979年5月21日サーカス&サーカスのNO WAVEです。小間君からオショウ君が来ないんでJOJO君にベース借りて弾いてビッケさんにギターを頼んだと聞きました。
「あの頃の関西のバンドはハプニングが多かったですね」
▶話が飛んだので元に戻しましょう。
「腐れおめこの練習場所は元は会社であったであろうビルでした。
何にも無い倉庫状態の場所に機材を持ち込んでいました。オショウはまったくヤル気が無くて林君はギターを初めたばかりなんで弾けないんですよ。パブリック・イメージみたいなベースの反復リズムにギターがキャッキャッとコードじゃない不協和音でアクセントを入れる程度で『こんなんでええの?』と。それでもオーディエンスは僕等だけやのに一所懸命アプローチしてくれて面白かったですね。『飯喰うな』、『ガンペキ』、『めくら犬』、『馬場がカマタに負けよった』とか演奏していたのを覚えています。
当時、僕等は高校生でみんなガキンチョなんですよ。町のチンピラ(笑)。あの連中は大阪の東成区出身でザツいんですよ、感じが。東成区のヤンキーの兄ちゃんがロックバンド演ってんねんな、みたいなムードがありました。後に出て来るアナーキーみたいな判りやすさは無かったですけど」
▶「INU/牛若丸なめとったらどついたるぞ」のジャケット写真でもオショウ君はマスクをしていますね。
「東京ツアーの時も常にマスクにシンナーを含ませていたかは別として彼の一つのスタイルですね。アイコンというか大阪のパンクのひとつのあり方でしょう。当時はマスクをしている人が珍しかったですからね。ブラックジーンズに白いマジックでおめこマークを書いていました」
▶後に北田昌宏君がINUの時に使っていた黒いレスポールにもそのマークが書いてありました。
「初めの内はメンバーは皆んなどっかにワンポイントで書いていましたね。一番初めに見た時ある種パンクやけど下品なバンドていうイメージがありました。大阪っぽい、パンクという何かを表現する時にこれが大阪人の発想なんやなぁと。
僕はその頃は全然お酒が呑めなかったんだけど前の日に篠田君の部屋で朝まで付き合いで呑まされて二日酔いで頭がガンガンしてたもんで練習を観ていても朦朧としたり目が覚めたりでした。
2時間か3時間で練習が終わり起こされて林君が付き合っていた岡市幸子さんの家に行って呑もうという話になリました。彼女にアウトサイダーというミニコミを作ってるという話を聞きました。
また呑むのかと思いながら行って氷なんか無いんでトリスを湯呑み茶碗で回し呑み、つまみも無しで腐れおめこの4人、岡市さんに篠田君と僕を交えて7人で寝そべりながら朝まで喋ってました。町田がへべれけになって寝てしまって林君が町田の髪の毛をライターで焼き切って『こんな奴はこの体でええんや』、『え〜、何てバイオレンスな』(笑)。町田君の髪型はぼっさぼさで長いところと短いところが差が激しい虎刈り、ある意味パンクヘアだったんやけどこういう感じで焼き切られてるんやなと判って面白かったですよ」
【ビデ(ウルトラ・ビデ)】
関西NO WAVE東京ツアーの1979年3月28日チッキンシャックの時にね、楽屋でビデがベースのチューニングしていて僕が『あれっ、チューニングしてんの?そんなんいるん?』と冷やかしたら『音楽にとってチューニングは基本だよ、君』と怒り出して高説を垂れようとしだしたんですよ。じっと見てたらチューニングをやっと終えたと思ったらペグにセロテープをぐるぐる巻き出して『何してんの?』と尋ねたら『折角一所懸命チューニングしたから狂うと困るんでね』(笑)、『あんたね、その時点でもう狂ってるし』。さすがビデやわ(笑)、彼の真髄はここにあると思いましたね。
ビデのファッションが何を狙っていたかというと『傷だらけの天使』の萩原健一なんですよ。白いバギーを履いてオープンカラーのシャツ着てダブルを羽織ってるんですが田舎臭くてギリギリの所で外してんねんな」
▶四角いサングラスに角度がついてましたからね(笑)。
「それヤンキーやろ?
ショーケンはジャン=ポール・ベルモンドを意識しているんですよ。
ビデが選ぶのはライト・グレーなんですがベルモンドはキャメルとかベージュなんです。彼が被ってるのはキャスケットだけどビデはハンチング。大分イメージが変わるんですね。ベルモンド、ショーケン、ビデと下るとここまでセンスが変わってしまうのか(笑)」
▶伝言ゲーム(笑)。靴も白いエナメルでした。
「コンビの靴やったらぎりぎりベルモンド感があるんやけどエナメルは違うやろ、いきなり大阪のチンピラになってるやん。口まで出かかったけどビデのプライドが傷つくやろし言えませんでした(笑)」
▶同志社大学新町別館小ホールのクロス・ノイズの時、ビデ君がその格好で受付に座っていて何事かと思いました。
「パンクのコンサート違うんか?
大学構内で何の興行やねん(笑)」
【どらっぐすとぅあ】
「どらっぐすとぅあでは人を倉田江美なんかの少女漫画の登場人物の名前で呼ぶのが流行っていました。ジョジョとかロージーとかどんな美男美女かと思って会ってみたら君が?と絶句する体の人が多かったです(笑)。今にして思えばあそこはオタクの始まりですね」
終わり
次回からTaiquiこと富家大器(元ウルトラ・ビデ、アイン・ソフ)インタビューを連載します。乞ご期待。