実録 関西パンク反逆の軌跡 その10

Taiquiインタビューその1「嵐を呼ぶ男」

Taiquiこと富家大器(とみいえ・たいき)は1978年にビデ・バンドにドラマーとして参加し1980年初めまでウルトラ・ビデで活動。80年代半ばにベラフォン結成後、アイン・ソフに加入。現在はサイケデリック・ジェット・セット、不死蝶などでも不定期に活動中。

「私は京都の朱雀高校に通っていました。音楽ファンの多い学校で、1級下に平松君というキーボード奏者がいて彼とは音楽仲間でプログレのレコードを貸し借りする仲でした。学校は違ったけど、その平松君の同世代の友人に藤原英則(ビデ)君がいて彼等はシンセ・ユニットを組んでいました。その内に自然に一緒に何か演ろうという流れになったんです。
そういえば当時平松君は千本中立売の近くに住んでいました」

▶「どらっぐすとぅあ」のそばでJOJO広重君の家も近所ですね。

「そんな感じですね。私の家は当時白梅町の近くにあって高校は二条城のそばでした。「どらっぐすとぅあ」はちょうどその中間なんですよ。それでよく立ち寄ってから家に帰っていました。
後から知ったのですが中塚敬子も朱雀高校の様でしたね」

▶彼女も「どらっぐすとぅあ」人脈でBide&Idiotのドラマーでした。このユニットは関西パンク勢では初めて東京で演奏しています。1978年8月27日s-kenスタジオ「Blow up東京ロッカーズGIG」でした。ビデ君は行動力がありますよね。

「彼は本当に行動力があったと思います。それも含めて若気の至りなんでしょうけどね」

▶コウイチロウ君は「渡邉浩一郎/まとめてアバヨを云わせてもらうぜ」ライナーノーツによれば「1976年春、京都に転居」とあります。

「はい、たしか彼は日吉ヶ丘高校に通っていました。結局卒業はしなかったような。北白川に下宿していて独り暮らしだったのでよく遊びに行っていました。不思議な、独特の雰囲気を持った少年で、もう亡くなっているから言うけど彼は部屋でも当時から酒ばっかり呑んでいたんです。そこで石橋(正二郎)君と会う事もあった。コウイチロウ君は石橋君と仲が良かったから。JOJO君の家にも行ったしビデのところにも。お互いちょっと珍しいレコードなんかを持ち寄ってね、そういう交流でした」

▶ウルトラ・ビデのメンバーは皆な偶然にも今出川通り周辺の自転車で行き来出来る範囲に住んでいたんですね。

「そうなんですよ。考えている事や好きな音楽、価値観なんかは微妙に違っていたと思うけど、当時はまあ割合仲良くやってました」

▶ドラムを叩き始めたきっかけは?

「これといって特にないのですが、他になにかできる楽器があったわけでもなく、叩くのが面白いと思って始めただけで。ドラム・セットを持っていた訳では無いし高校の時に軽音楽部にも属していなくて部室に押し掛けていって人が居ない時に叩いたりしていた程度です。皆が通る道で、高校の連中とはローリング・ストーンズの『ブラウン・シュガー』とか演奏していました。ああいう曲は初心者でも出来たりするでしょう?プログレとか聴くのは聴いていたけどドラマーとしてのキャリアは殆ど無く、そういった意味ではウルトラ・ビデからです。ともかくわーっと叩いてスキルどうこうより勢いだけでそういう事が出来るのが本当に楽しかった」

▶1978年4月23,24日に京大西部講堂でデレク・ベイリーがEEU/阿部薫(sax)、近藤等則(tp)、高木元輝(reeds)、吉沢元治(b)と共演しています。石橋氏によればどらっぐすとぅあに出入りしていた人達がこぞって観に行き感化されたと。君も同行しましたか?

「行ったかもしれませんがはっきりとした記憶は無いですね。ジェイミー・ミューアの入っていたインカスから出たエバン・パーカーのアルバムは持っていましたが」

▶「The Music Improvisation Company 1968-1971」ですね。デレク・ベイリーも参加しています。

「私達はともかく貪欲に面白い音楽や世間の基準からはみ出した者達を追いかけてプログレッシブ・ロックやらフリー・ミュージック、即興演奏のレコードを聴いていたので、そういうのなら自分達の演奏スキルに関係なく出来るかもしれないと勘違いして(笑)。

パンクを評価していたのはビデと石橋君ぐらい。パンク・ロック演ろうやという流れになったけど実際のところ全員がプログレッシブ・ロックのファンで、パンクは多分他には誰もまともには聴いていなかったと思います。
但し『ノー・ニューヨーク』は皆で面白がっていました。ブライアン・イーノがプロデュースしているのもあって安心感があって。それでニューヨークではもしかしてとんでもない事が起こっているのではと言った感覚はありました。

Bide/1979年6月2日「クロスノイズ No.0」@京大西部講堂

そのうちにビデ・バンドで1978年11月27日に同志社大学EVE祭の『キャバレー・ボルテール』という企画で教室で演奏しました。高校生にしたら、大学の学園祭なんか出ていいの?と思うくらい大変な事でした」

▶大音量で演奏してスピーカーを飛ばして観ていた人がどんどん居なくなったらしいですね。

「そんな滅茶苦茶やったり暴れた覚えは無いですが」

Taiqui/1979年6月2日「クロスノイズ No.0」@京大西部講堂

▶君はやってないけど他のメンバーが(笑)。

「そうだったかな、全く覚えてないね。それから大阪で私が参加出来ないライブがありました。しんのすけ君という人が代理のドラムスだったと後から聞きました。私は会った事が無いけど今はどうしているのかな?彼の演奏は『ウルトラ・ビデ/インプロヴィゼーション・アナーキー』に収録されています」

Taiqui/1979年6月2日「クロスノイズ No.0」@京大西部講堂
Taiqui/1979年6月2日「クロスノイズ No.0」@京大西部講堂

▶1978年12月30日ギャルソンの「神経切断ギグ」でのライブ・テイクですね。アウトサイダー誌主催のイベントでした。

この日がウルトラビデ名義の初ライブです。それからいきなり1979年3月の関西NO WAVE東京ツアーです。地元でもほとんどライブ経験が無い10代の若者達が東京をツアーするって無謀ですよね。

「そうそう!しかも渋谷の屋根裏とか当時は本当にハードルが高かったし、ライブハウスに出たのもこのツアーが初めてで。若いから勢いで何事も出来ただけで、本当は気持ちの整理が付かないまま『いいのかな・・・』と思いながら演っていた記憶がありますね。
東京ツアーでは吉祥寺のライブハウス「マイナー」なんかに出ている人達が思い切りよく演奏しているので、自分たちもこんな風に演っても良いんだと思ったりしたかな」

▶ツアーの手応えはありましたか?

「ウルトラ・ビデで注目される事を演ってる感じはまったく無かったです。広重君が非常階段で耳目を集めるのはもっと後の事だし」

▶ツアーに参加したアーント・サリー、INU、SS、アルコール42%の印象はありますか?

「INUの町田君はそれなりの迫力があってステージでも本当に存在感があった。バンドとしての完成度があったかは別としてですが」

▶「INU/牛若丸なめとったらどついたるぞ」はこのツアー中の1979年3月25日渋谷・屋根裏での演奏です。このライブ盤を聴いたら彼は鉄砲玉ですね。東京がナンボのもんやねんと。

「例えば彼等は難波から名古屋まで近鉄で行ってたんです。それだけ大阪愛が強いのかな?なるべく新幹線に乗りたくないとか(笑)。
アーント・サリーのPhewも独特の雰囲気で何というか才女感がとても強かったですね。
後のバンドはごめんなさい、正直あんまり印象に残っていません。
東京で覚えている事といえば工藤冬里と一緒に移動するときに、ここでは言えないんですが、かなりワイルドな行動を取ったりするんですよ。「そういうのやめようよ」的な(笑)それで、ちょっとややこしい人だなあって思ってました。その後10年くらい前に久々に出会って『やあやあ、懐かしいよね?』みたいに話かけたところ、どうも私のことはまったく覚えてない様子でしたけど、その反応は謎です(笑)」

つづく

※”特殊音楽の世界”石橋正二郎氏から前回の連載に関して「ビデがチューニング後にペグをテープで固定していたのはベースではなくギター」とご指摘頂きました。当方の確認不足でした。お詫びして本文を訂正します。