特殊音楽の世界47 「渡邉浩一郎 マルコはかなしい-渡邉浩一郎のアンチクライマックス音群」発売に寄せて

21年12月、渡邉浩一郎の「マルコ(原タイトルはコの◯囲い)はかなしい-渡邉浩一郎のアンチクライマックス音群」という2枚組CDが発売されました。

https://diskunion.net/portal/ct/detail/1008382737

渡邉浩一郎(ここでは京都時代に彼が望んでいた呼称、コウイチロウと表記します)は、(オリジナル)ウルトラ・ビデ、そしてマヘル・シャラル・ハシュ・バズの初期メンバーでもあり数多くのグループ/セッションで活動しながら90年に他界しました。

彼のことは私の連載の過去記事でも触れています。

そこでも書いている通り、その特殊な感性と独特ものの捉え方は、周りの同世代の若者たちに大きく影響を与えました。

まずは今回の2枚組CDのトレイラー映像を。

コウイチロウ自身の編集による60分テープをそのまま収録したdisc1は、まだ「渡辺浩一郎(Vl, electronics 他)堀田吉範(g、他)」およびその周辺のメンバーによる80年頃と思われる音源を中心としたもので、disc2には前述の私の過去記事にもあった「ビデ・ガレージ・コンサート」の録音を素材にしたサウンド・コラージュ「ガレージ・セッション1977」(これがすごく面白いです)も収録されています。

彼がいなければ非常階段やインキャパシタンツ、マヘル・シャラル・ハシュ・バズの音も、今とは違っていたものになっていたかもしれません。

本人はもう覚えていないと思うのですが、INUに続いてフナを解散した頃に偶然あった町田(康)くんが「もしもう一度レコーディングするような機会があればコウイチロウに参加してほしい」と話していたことを覚えています。それが叶うことなく彼はこの世を去ってしまいました。

コウイチロウが関西にいたのは74~79年までですが、その頃の周りに居た人間は皆彼の独特の才能と感性に一目置いていたと思います。

彼の知識は音楽に限らずとんでもなく幅広く、私も大きく影響を受けました。歌謡曲、現代音楽、インプロ、ノベルティ・ソング等々、一見脈絡もない幅広さでしたが今から考えると彼の「面白がり方」は一本筋が通っているように思えました。そしてその「面白がり方の筋」の正体がなんだったのか漠然として未だ見つけることはできないのですが、私には大きく影響を与えました。

90年に彼が亡くなったあと有志で限定300枚のメモリアル・アルバム「まとめてアバヨを云わせてもらうぜ」が制作されました。

後述するGESOさんのインタビューにあるとおり、雑誌「ユリイカ」でそのCDについて言及されたりしたことも影響したのか発売後数年経って密かに話題になりました。

そして13年にリイシューされ21年に再発と版を重ねています。

そのトレイラーがこれです。

渡邉浩一郎がどういう人物であったのか、今回のCDの監修を務めた第五列のGESOさんのインタビューをまず読んでみてください。

https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/30370

ここにもあるように彼は東京出身でありながら京都の高校に通っていました。

関東人と関西人の感性と気質をうまくミックスしたような人間で、しかもGESO氏のインタビューにもある通りある種の品の良さがあるので、どんなにひねくれたことをやってもギリギリ嫌味にならないような節度も持ち合わせていました。

前述した過去の連載記事でも書いたタッチ・シンセやウルトラ・ビデで使っていたブラウン管TVのモニター外装内に仕込んだシンセ等、自作楽器もよく作っていました。

そのTVモニターに仕込んだシンセを彼は「カッコええやろ1号」を名付けていました。70年代終わりの流行りを考えればTV内に仕込んだシンセなど「おしゃれ」にしてしまうとおもうのですが、それを関西弁であえて「おしゃれ」から遠ざけていたことは、彼の何重にもひねくれた独特の感性をよく表していると思います。

グループ名にもそれは現れていました。

「まだ」「他」というグループもやっていたのですが、「まだ」はライヴ中に他のバンドから「あいつらまだやってるよ」と言われるから、「他」は情報誌(昔はライヴ情報を掲載する情報誌というものがありました)に自分たちのバンド名がなかなか載らないため「他」にしたら必ず名前が載るから、という理由だと聞きました。

京都時代の彼についてはこのサイトでの西村明さんの連載での(オリジナル)ウルトラ・ビデのドラマー冨家大器さんのインタビューも参照してください。

貴重な写真も証言もたくさんあります。

79年に彼が関西を離れてからは時々電話で話す程度の付き合いになってしまったため、東京に戻ってからの活動について私はあまり知りませんでした。

それについては小山景子さんのこのインタビューで詳しく述べられています。

https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/30590?page=3

関西にいた頃、彼はトートロジー(同語反復)に凝っていて、それは言語にとどまらず音においても反復で意味が変容し遂には意味も無くなるようなことに興味があるように思えました。

こういうこともありました。

過去連載にも書きましたが、ヴァニティ・レコードがデモ・テープを募集していた時(ヴァニティ側から話が持ちかけられたのかもしれません)コウイチロウは行きの阪急電車の車内音を録音したカセットを無編集で提出しました。

彼からしたら本気の音源だったらしく、断られたことを残念そうに笑って話していたことを覚えています。

その頃はまだフィールド・レコーディングの手法も概念もそれほど広まってはいない時代でした。

彼がやろうとしてことがフィールド・レコーディングかどうかは別にしても当時そんなことは周りの誰も実行どころか思いつきもしませんでした。 

彼は役に立たない、意味のないものの中に面白さを認めながらも、余計な価値をつけず役立たずであることはそのままに、しかし役に立たないからの美しさや面白さを追求していたように思えます。

そのことは所謂「おたく」と大きく違う点だと思います。そしてその捉え方は間接的だとしても関西音楽シーン独特の「スカム」な感性にもいまでも大きく影響を与えていると思います。

※彼は「レッツゴー役立たず」という曲も作っています。(前述の「まとめてアバヨを云わせてもらうぜ」に収録)

石橋正二郎:レーベル、企画を行うF.M.N. Sound Factory主宰。個人として78年頃より企画を始める。82~88年まで京大西部講堂に居住。93年にレーベルを立ち上げる。KBS京都の「大友良英jamjamラジオ」に特殊音楽紹介家として準レギュラーで出演中。ラジオ同様ここでもちょっと変わった面白い音楽を紹介していきます。