実録 関西パンク反逆の軌跡 その12「Taiquiインタビュー その3/ベラフォンとアイン・ソフ」
- 2022.02.04
- COLUMN FROM VISITOR
Taiquiこと富家大器(とみいえ・たいき)は1978年秋にビデ・バンドにドラマーとして参加、80年初頭までウルトラ・ビデで活動。80年代半ばにベラフォン結成後、アイン・ソフに加入。現在はサイケデリック・ジェット・セットや不死蝶などでも不定期に活動中。
▶ウルトラ・ビデ解散後はメンバーの中で君だけが構築的な音楽を志向します。本業のデザインや建築との関連はあるのですか?
「そうなんですよ。『建築は凍れる音楽』と言いますね、ルネサンス時代は幾何学的なアプローチで・・・って大学の講義か、ウソです!美しい誤解。そうしておいたら良かったかな!?(笑)。
私は音楽の基礎的、理論的な素養がまったく無いので、結局のところキャリアをスタートした頃にウルトラ・ビデで演っていたアプローチのまんまなんです。決められた事を毎回しっかり再現するというのが、例えばプロの料理人です。私は毎回微妙にそこはニュアンスで演ろうとする。その時のお客さんのノリやハコの音響、お天気、体調。いろんなファクターが絡んできて、一定ではない要素が人より少し多めだと思います。だから構築的とは真逆で、むしろ情緒的と言うか。ホントはドラマーとしてはあまり褒められたものではない(あるいは使いにくい)のかも知れませんが(笑)仕方の無い事なんです」
▶観ている側としてはその方が面白いです。例えば後期キング・クリムゾンのライブでビル・ブルフォードは毎回ドラミングを変えていてファンは興味が尽きません。
「ありがとうございます。本当にそうなんですよね!大好きだったソフト・マシーンのジョン・マーシャル然り、ピプ・パイル然りで、私も若い頃にそういう洗礼を思い切り浴びて『あ、こういうの演っていいんだ!』とか『こんな風なのがやっぱりかっこいいよね!』みたいに思って育ったので自然にそうなってしまいました」
▶ウルトラ・ビデ以後の音楽活動を教えて下さい。
「割合と気分次第で色んなバンドに流動的に出入りしています。
1980年5月から10月までTTT+Reoで活動しました。ボーカルが当時京都でグラム・ロック的な人気のあったストラングル・ホールドにいたReo君、ギターが田中稔裕君、ベースが田茂井正君でした」

▶田中、田茂井、富家だからTTTですね。
「その次が三十三間堂だったかな。元々ディープ・パープルみたいなハードロックのバンドで、ドラマーとして高校の一級下だった岡崎君が加入していたのですが、彼の後任として演ることになって。だけど私が入った頃にはパワーポップみたいなバンドに変わりつつある頃だったような。81年4月から6月までしか居なかったけれどライブも頻繁にやって京都・大阪を始め関西圏ではかなり人気がありましたね、加入してすぐシングル盤『セイ・グッバイc/wあなたに会える今夜は』(1981年10月10日キングレコードよりリリース)を録音したので初レコーディング・メンバーということになります(笑)。その頃はハードロック系のミュージシャンとの交流が多かったような」

▶関西ではニューウェーブ・ブームの後にハードロック人脈が巻き返してメタルが盛り上がりました。
「私は紆余曲折を経て1980年に大阪芸術大学の環境計画学科に入学するのですが、学食には色んなクセのありそう連中がたむろしていました。同じ学科の後輩でいつも食堂でベースをブリブリ弾いていた男が居ました。彼は後にデッドエンドに入りジョー君として燦然と世間に登場します(笑)。彼のベースはすごく良くて、こう何かミック・カーンを彷彿とさせるようなセンスもあって」
▶あのクレイジー・クール・ジョーが食堂で?
「山の中の大学なので食堂がサロンなんです(笑)。ベースはもちろん生音でしたが音がごっついんです。芯があって喧騒の中でも通るんですよ。
彼は私が環境計画学科の教務補助職員として一年間残ってからもまだ学生で残っていたかな。後のブラックペイジの主宰者、小川文明君やなんかともその食堂で知り合い大いに音楽談義をしたものです。
その後スターレス(大阪の同名バンドとは無関係)という、大阪の魔璃鴉みたいなのをレパートリーとするプログレハード系バンドに一瞬加入します。そこのキーボード担当だった垣光隆君という仏教大学の学生とインストのメロディアスなプログレを演りたいと意気投合して先述のTTT+Reoのギタリストの田中君を引き合わせてベラフォンを結成します。ベースは二人ほどレギュラーがいましたが同志社大学の小野君に落ち着きました。最初はキャメルの『ルナ・シー』とかイタリアのロカンダ・デッレ・ファーテの曲などを演っていたな」

▶ネット検索したら君がリーダーとありましたが?
「私がたまたま色んな人達とセッションしてメンバーを集めて来た経緯や、ライブ活動を他の皆んなより多く演って来ていて、たまたま組織としてのリーダー的な立ち位置になっただけでそのへんはあんまり厳密に決まっていた訳ではありません。私はバンドの方向性を示していたけれど音楽的には皆んなが平等に意見を出していました」

▶バンド名の由来は?
「これはほんとにシャレみたいなもので、皆んなドイツのベラフォン・レーベルの音が好きだったんですよ。これってビューティフル・サウンドみたいなことじゃない?みたいな至って軽いノリです(笑)」
▶誰が作曲していたのですか?
「結構共同作業です。私も断片的なフレーズを提示して『これで続きをまとめてくれない?』てな感じでスタジオに持っていったり。初期にはキーボードとギターがそれぞれ精力的に書いていました。垣君はキャメルみたいなふわっとしたメロディアスでファンタジー・シンフォ志向、田中くんはもうちょっとエッジの効いたサウンド。曲調が異なっていてバンドの音楽性に幅が出たと思います。
ベラフォンは1985年6月に『ラビリンス』というソノシートを作ってプログレ雑誌『マーキー』の元編集部の中藤正邦さんが主宰していたモノリス・レーベルからリリースされました。
この盤はもう私の手許にも残ってないのですが2007年にアイン・ソフでメキシコのプログ・フェスに出演した折に現地民が『サインしてくれ!』と持って来た時にはホントびっくりしました(笑)。
中藤さんの縁で東京でもシルバー・エレファントとかで何度かライブを演ってます。
しばらくして小野君が脱退したので『Firefly』(注1)のレコーディングは私が既に参加していたアイン・ソフの鳥垣正裕さんにベースをゲストとして手伝ってもらいました。
その後、田中君が就職などでギターを続けられなくなって、しばらくして解散。垣君をその後アイン・ソフに紹介しました」
▶垣さんが参加したアイン・ソフの演奏は『スタジオ・ライブ・トラックス ’80s&’05』で聴けます。様相としてはキャメルにキャラバンのリチャード&デイブ・シンクレアさんが加入したキャラメルですね。アイン・ソフとの関わりについて聞かせて下さい。
「1979年の『乗物図鑑』レコーディングの時に阿木譲さんから『君はどちらかと言うと天地創造(アイン・ソフの前身バンド)なんかの方が向いているんじゃないか?』といみじくも指摘されました。
その頃の私は天地創造なんかは上手いミュージシャンがテクニックに走っていて本質的な音楽を演っていないと勝手に思い込んでいました。テクニック至上主義に懐疑心をいだき過ぎた初心者ならではの思い上がりだったのでしょう。
事実1980年にリリースされたアイン・ソフの1stアルバム『妖精の森』はかなりテクニカルな印象でした。レコーディングの時はキーボードの服部真誠さんが譜面ガチガチのスタジオ・ミュージシャンみたいなタイプで他のメンバーとはあんまり合わなかったらしいと後から聞きました。でも、そんな状態でよくあれだけの名盤を作ったなと。すごく良く出来てますよ。あれは服部さんの力がとっても大きいと思うな。彼は凝り性で宅録感覚で音色をたくさん重ねて行かれたと伺っています。私は84年頃にアイン・ソフの母体と接触するんですよ。前述の大阪芸大・食堂仲間のベン君が紹介してくれました。彼は自称キーボード・プレイヤーで天地創造の元メンバーと言う触れ込みでしたが、どちらかといえばコアなファンという感じの人でした。暫く疎遠になっていますが確か彼は今は高円寺でマッチング・モヲルというカフェを経営しているはずです。
アイン・ソフは『妖精の森』のリリース後は活動休止状態になっていたのですが、私と知り合って周辺のメンバーでセッションを開始、アイン・ソフと名乗ってはいないけれどリハーサルは定期的に続けてはりました。ベーシストが固定していなくて鳥垣さんを含めて数人が出入りしてキーボードの藤川喜久男さんを呼び戻そうとか試行錯誤している内にキングからレコーディングの話があってするすると日程が決まり1986年に2ndアルバム『帽子と野原』がリリースされました。
私はアイン・ソフへ加入前は、このバンドは絶対に譜面至上主義だと思い込んでたんですよ。入ってみたら全く違いました。何人かのメンバーは実際ほとんど譜面で演奏してもいるんですが、もう少しアローワンスもあって、だから私みたいなのでも受け入れてくれた部分もあったと思います」

.▶アイン・ソフとか隣(雅夫)さんのだててんりゅうは世代的にクリックのかっちりしたリズムの割り方では無くてメンバーでうねって行くノリを重視しているでしょう?
「アイン・ソフはメンバー4人がイコールでは無くて人によって演奏へのアプローチが違うんですよ。
ベースの鳥垣さんはプロで例えば演歌のバックを演っておられた方なので譜面でシッカリカッチリ堅実に決めていきたいタイプ。
キーボードの藤川さんが不思議な人でね、ホンマモンのガチ天才です。どこかでどうやって覚えはったかコード譜でやり取りはしてはるんだけど、一向に練習もしていない、それどころか音楽を全く聴いていないし、音楽についての知識も無い。なのに人の書いた曲をすぐ弾かはるし思いつくままに曲が出来上がる。頭の中の構造がどうなっているのか全く想像も付きません!
山本要三さんはどちらかというと譜面派に近いポジションかなと思います。それでシッカリ押さえて決めていく曲とかなりフリーなインプロに近い部分と両面ある貴重なバンドだったと思います」

▶時代的にレコーディングはクリックに合わせて叩かざるを得ない状況になりますがどうでしたか?
「そこは世間のイメージとは違って演れば出来る(笑)訳ですが、あまり好んで演ろうとは思わないです」
▶山本さんはリーダーですから音のイメージを持ってはると思いますが演奏はメンバーを信用してうねりに委ねるおおらかさがあるのがロック的です。
「藤川さんの才能をおおらかに活かしてあげるのがバンドとして良い形なんですけど山本さんは自分の曲はここはこう弾いてという指示も結構ありますから藤川さんとしては若干面倒なんじゃないかな(笑)。
今はちょっと休んでますけれど、また無理なく活動出来ればいいかな」
▶ちょっと?大分長いで(笑)。
アイン・ソフは君が最年少なんやから皆さんお元気な内に活動再開して頂きたいです。
つづく
注1.ベラフォンの1stアルバム「Firefly」は1987年にメイド・イン・ジャパン・レコードからリリース。
パーソネルは田中稔裕(g)、垣光隆(k)、富家大器(drm)、ゲスト:鳥垣正裕。
Taiquiさん出演イベントのご案内
「爆音レコード・コンサート/私も知らないキョーフのプログレ・ドラマー特集」
2月23日(水祝)17時開演
サケデリック・スペース酒游舘
滋賀県近江八幡市仲屋町中6
電話09019601264
e-mail sakedelic1960@softbank.ne.jp
ドリンク代600円〜
つまみ持ち込み可
♪酒游舘のライブ用音響機材を使ってレコードを爆音で鳴らします。ナビゲーターは本稿でインタビューに答えて頂いているTaiqui氏。
酒游舘のある近江八幡はJRびわこ線新快速で大阪から1時間、京都から30分。近江八幡駅北口から近江バス長命寺方面行きで大杉町で下車。駅方面に徒歩5分。