実録 関西パンク反逆の軌跡 その15

「ほぶらきんとの出会い」
坂本葉子インタビューその1

ほぶらきんは時代劇meetsSFな歌詞、童謡や特撮ヒーローTV番組の主題歌の様に親しみやすいメロディで頭ノリの楽曲(しかも一分程度で終る)、応援団を思わせるバンカラな歌唱、疾走感と破壊力漲る演奏、抱腹絶倒のライブ・パフォーマンスにより世界に知られる唯一無二のバンド。
メンバーは森下太朗(vo)、黄之瀬英史(g)、木村隆浩(k)、山本進(b)、青木宝生(drm)。全員が滋賀県立膳所高校の同級生で麻雀仲間。高校卒業後の1979年にバンド結成。
ほぶらきんは音楽性だけで無くレコード制作の方法もユニークだった。
大津の西武百貨店は1976年開店。アネックスにディスク・ポートという滋賀県唯一の輸入レコード店があった。この店はMY RECORDというプライベートなレコードを制作するサービスを行なっていた。代金さえ払えば結婚式の記録だろうがオジサンのカラオケだろうが何でもレコードにしてもらえた。
彼等はここで1979年秋に1stEP「こっぷらきん」、1980年春に2ndEP「キング・ホブラ」を50枚ずつ制作した。
レコードはメンバーが手売りした。

坂本葉子はほぶらきんファン・クラブ会長にしてほぶらきんのソノシート二枚組「ゴースンの一生」をリリースしたオルセン・レコードの主宰者。
彼女にほぶらきんとの関わりを語ってもらった。

▶ほぶらきんとの出会いは?

「ロックマガジン主催のレコード・コンサートです。青木宝生(たかお)さんがシングルを持って来てはりました」

▶かけてくれと。

「売り捌きたかったんですね。レコードを聴かせてもらって皆んなびっくりしました」

▶プロモーションを兼ねて来てはったと。さすがは近江商人。
田中栄次君は私の高校時代の友人で後に変身キリンに加入します。彼の記憶によれば青木さんはこのレコード・コンサートで『皆んな高い金を払うて輸入盤(1980年前後のヨーロッパ盤の新譜LPは3000円が相場)を買うのを止めて自分達が作った音源を交換したらええんや』とアピールされたそうですが?

「その場で言うてたかもしれませんがはっきり覚えていません。その発言は他のところでもしてはったので。
とにかくあそこは全然喋らんとガーっと入り込んで音楽を聴く人ばっかり来てたんですよ。だからその中で青木さんみたいにわーっとよう喋らはる存在にびっくりした覚えはありますね。ほぶらきんの音も衝撃やったけど」

▶阿木譲さんがレコードをかけて青木さんがコメントする事はありましたか?

「阿木さんから『お前どうなの?』と振られたら、ですね。『こんなん何とかですわ』とか言ってたかも。
あの場は参加者が積極的に意見を述べる雰囲気では無かったんです。
阿木さんが『これはロンドンで買って来た何とかで』とレコードをかけて皆んなふーんと聴いて『次は何なに』で。普段はラジオでもかからない貴重なレコードをありがたく拝聴する機会という感じでした」

▶1978年3月に阿木さんがDJだったKBS京都ラジオ「ファズ・ボックス・イン」が終了しました。情報に飢えていた阿木信者が集まって謹んで承ると。

「うんうん(笑)。
美川俊治君はあの頃半分スタッフで居てました。面白いなと覚えているのは阿木さんがトーマス・リアとロバート・レンタルが二人で作ったシングルをかけて美川君に『トマス・リアってどんな人なの?』、『ロバート・レンタルの友達』。『じゃあロバート・レンタルは?』、『トマス・リアの友達』(笑)。
皆んなちょこっとだけクスッと笑って。あまり冗談の通じない所でしたね」

▶ロックマガジンVol.25に1979年4月15日の第4回レコード・コンサート参加者の写真、名前、年齢が載っていました。青木さんは年上でしたね。

「十代が多かったです。青木さんは大学の三回生か四回生で二十代だったのであの中では上の方かな。もっと上の人も居はったかもしれないけどそういう人は地味にしてはったので」

▶自己紹介は無かったのですか?

「あったかも。でも名前と年齢を云う程度でした。こんな人も来てはると思った事は無かったです。
須山公美子さんが『今度自宅でレコード・コンサートを開きます』と告知してはったりしましたね。スパークスの『No.1イン・ヘブン』がかかった時に彼女が『皆んな何で踊らないんですか?こんな楽しい音楽なのに』と立ち上がって言わはって阿木さんが『じゃあお前が踊ればいいじゃない』(笑)」

▶参加メンバーは固定されて行くのでしょう?

「段々固定になって来ますね」

▶ほぶらきんの1st EP「こっぷらきん」は1979年秋にレコーディングされ販売されています。
青木さんは少なくとも79年4月からロックマガジンのレコード・コンサートに参加しておられます。一枚目から持って来てはったのですか?

「二枚目の『キング・ホブラ』からですね。一枚目は青木さんと個人的に話す様になった時に『まだあったら頂戴よ』と二枚目の後に買いました。『じゃあ来月持って来て下さい』と」

▶では「こっぷらきん」はメンバーの手売りであらかた捌けていて二枚目は新たな販路を開拓しようと考えはったのですかね?

「レコード・コンサートは青木さんが来だしてから、というかほぶらきんがかかってから雰囲気が変わって来て。
最後の頃は喫茶店では無くてロックマガジンの事務所で体育座りして聴いていました。他の人達はしーんと聴いているのに青木さんと私、私の友達で『ゴースンの一生』を一緒に作った西尾実和子さん他数名と車座になってお菓子を食べながらわーわー喋っていました。
阿木さんに『お前等、ちょっとくらい静かにせんかい!』と怒られた事がありますけどね。
阿木さん自体は最初から『レコード鑑賞するだけじゃ無くてここで友達を作りなさいよ』、『君達、そんな俯いてレコードばっかり聴いているだけじゃ無くて隣に可愛い女の子がいたら声を掛けてお友達になってみたらどう?』とか『もうちょっと皆んなで会話してみたら?』と言っていたのが最後には『お前ら黙れ!』と怒鳴るくらい一部で盛り上がって。

▶阿木さんらしい俺様なエピソードですね。

「私達だけじゃ無くて10人位はお喋りさんがいましたね」

▶美川君も含めて?

「彼は事務所に場所を移した頃には足を洗っていました。合わなかった部分があるのでしょう」

▶坂口卓也さんは?

「その頃はまだ面識が無かったんでね、いらっしゃっていても判らなかったのかもしれません。知らずに喋っていたかも」

▶彼がほぶらきんを最初にメディアで紹介した人でしょう?

「HEAVEN誌ですね。
坂口さんとはもっと後やったのかな?いつ誰とどの様にして知り合ったのかはっきり覚えて無いんですよ。友達の友達が自分の友達やったとか実は自分やったとか(笑)。誰かを紹介されてもこっちの伝手やったのか別ルートやったのか記憶が曖昧なんです。網の目の様に人脈が繋がっていたので」

▶関西パンク揺籃期ですね。登場人物も少ないし。

「言うてみたらそうですね。

美川君はロックマガジンで知り合ったのが林直人君の中学校の同級生で友達やったと後で知ってびっくりしました」

▶林君とは既に交流があったのですか?

「無かったです。アンバランス・レコードからほぶらきんの『インドの虎狩り』が出るとなって初めてマントヒヒに会いに行きました。林直人って名前も全然知らなかったです。私がINUを知った時にはもう辞めてはりましたしたから。
美川君は見た目が特徴的やから、この子は小学生やのにNMEを読んでいてスゴイなと思っていたら大学1回生やったという(笑)」

▶誰が林君に青木さんを紹介したのですか?

「美川君かもしれへんし坂口さんかも?」

▶1980年11月27日同志社大学の教室で開催されたほぶらきんの初ライブ(注1)には沢山の人が詰めかけていました。同年9月に出たロックマガジンVol.33の付録がほぶらきんの『村のかじや』ソノシートでした。いったいどんな人間がこんな奇天烈な音楽を演っているのか皆んな興味津々だったのではないのでしょうか?

「あの頃はもう知名度があった訳なんですね。その辺が判らなくて」

▶他の出演者全員が観ていましたからね。

「可笑しかったのはロックマガジンのソノシートとかアンバランスから次のを出してもらえるとなった時に彼等自身はすごい懐疑的というか『騙されてるのと違うか?』と思っていたみたいです。
青木さんに聞いた話ではロックマガジンからソノシートが出る事になった時に森下さんが阿木さんに向かって『お前は青木が好きなんか?』と叫ばはったらしいです。

▶阿木譲と森下太朗が会話したという歴史的事実が信じられないです。

「会話は成立していないと思いますよ(笑)。
アンバランスから出してもらえるとなった時には『何かされるん違うか?』(笑)。自分の身体を捧げなあかんと信じてはった節があって(笑)。半分冗談かもしれませんが自分達でも信じられない部分があったみたいです」

▶ほぶらきんのメンバーで青木さんの他に音楽に詳しい人はいたのですか?

「青木さんぐらいです。ロックマガジンに載っている様なインディーのレコードを聴いてはったのは。
森下さんは実際には色々聴いてはったみたいですが音楽について語る事はまったく無かったので。
ベースの山本さんは普通に聴く人でした。輸入盤までは行かないにしても」

▶そういうメンバーのほぶらきんが過激なパフォーマンスを行なう非常階段やスターリンの対バンに突然放り込まれます(注2)。
訳が判らなかったでしょうね(注3)。

「びっくりしたでしょうね。
マントヒヒも天王寺界隈の周りの環境とかに大分驚いていたんです。初めてあそこに行った時は青木さん一人かな?他にメンバーもおったかもしれへんけど帰って来て私に『えらい怖い所やん』て言うんですよ。
次に行った時にあの当時の大阪でああいう街並みは無くは無かったし『普通のとこやん?』と言うたら森下さんが『お前はここが普通に見えるんかー!』(笑)。
石部の自然に囲まれた人からしたら別世界だったんですね。『俺等とんでもない所に連れて行かれるんやないか?』みたいな恐怖感があったみたい(笑)」

▶滋賀県の農村部にある石部町で生まれ育って京大に入り自宅から通学して麻雀仲間とバンドを組むという、言うてみたら狭い世界でのほほんと過ごしてはったのがカルチャー・ショックを受けはったと。

「ほぶらきんのメンバーは青木さん、森下さん、黄之瀬さんの京大組に京都工芸繊維大学、滋賀大もいてはりました」

▶皆さん滋賀県一のエリート校の膳所高出身やからね。

「街のど真ん中にある大学には皆んな行ってはらへんから。京大が辛うじて街中かな?
森下さんは工学部で院に進まはりました。すごく頭が良いはずなんですけどね、ステージのまんまの人なんですよ(笑)。ライブではアホするけど普段は真面目とか良くあるじゃないですか?まったく違いますね。不思議な人ですよ。
青木さんはある程度判るんです。頭が良くてちょっと理屈っぽくいけど面白いところがあって。
太朗さんは頭開けて脳みそ診ても絶対判らん人ですね(笑)。

▶世の中には努力しなくても頭が良い人がいますから。

「いますね、すぐ判っちゃうと。
私の印象からしたら京大ってそういう感じがあって。東大は努力家で」

▶官僚的な?

「そうそう。京大は天才型でドロップアウトしはる人もいてはりますし」

▶京大の軽音楽部は何でこいつが京大生なんや?ワシ等と変わらんやん、みたいな奴ばっかりでしたね。ところが歳月が経つとそいつ等が教授とか博士とか甚だしくは大学の学長になっていたり歴然と差がついて来るんですよ。

「独特な校風ですよね。吉本のロザンは京大出でお笑いやってますし。賢いのは得やのを全然判っていない(笑)。それを利用しないところが潔さかなと思います」

▶東大卒はプライドを持っていると思いますが京大卒は私の知る限り無いですわ。

「京大生は京大に価値を認めていない感じがありますね」

つづく

注1.「キャバレー・ボルテール NOISE FOR EUTHANASIA(変態音波展)」@同志社大学至誠館24教室
ほぶらきん以外の出演バンド/非常階段、まだ、YOUTH IN ASIA、ROSE TEA CEREMONY。

注2.1981年4月19日「Answer’81 Part2」@磔磔
ほぶらきん以外の出演バンド/アウシュヴィッツ、C.MENI+ネオ・マチ ス、非常階段、スターリン。

注3.青木「ほなスターリンいれてもらえ!!」
森下「あんなんかなん、あんなんかなん!(笑)あいつよりまけてるし。」
ほぶらきんインタビュー(PELICANclub1982年8月号)