実録 関西パンク反逆の軌跡 その17
- 2022.07.08
- COLUMN FROM VISITOR
坂本葉子インタビューその3「ゴースンの一生」
ほぶらきんは時代劇 meets SFな歌詞、童謡や特撮ヒーローTV番組の主題歌の様に親しみやすいメロディで頭ノリの楽曲(しかも一分程度で終る)、応援団を思わせるバンカラな歌唱、疾走感と破壊力漲る演奏、抱腹絶倒のライブ・パフォーマンスにより世界に知られる唯一無二のバンド。
メンバーは森下太朗(vo)、黄之瀬英史(g)、木村隆浩(k)、山本進(b)、青木宝生(drm)。
全員が滋賀県立膳所高校の同級生で麻雀仲間。高校卒業後の1979年にバンド結成。
ほぶらきんは音楽性だけで無くレコード制作の方法もユニークだった。
大津の西武百貨店は1976年開店。アネックスにディスク・ポートという滋賀県唯一の輸入レコード店があった。この店はMY RECORDというプライベートなレコードを制作するサービスを行なっていた。代金さえ払えば結婚式の記録だろうがオジサンのカラオケだろうが何でもレコードにしてもらえた。
彼等はここで1979年秋に1stEP「こっぷらきん」、1980年春に2ndEP「キング・ホブラ」を50枚ずつ制作した。
レコードはメンバーが手売りした。
1980年秋、ロックマガジン33号の付録として4曲入りソノシートをリリース。
1981年8月、3rd EP「インドの虎狩り」をアンバランス・レコードからリリース。
1982年1月、4th EP「ホームラン」をアンバランス・レコードからリリース。ライブ盤。
1983年4月、ソノシート2枚組「ゴースンの一生」をオルセン・レコードからリリース。
坂本葉子はほぶらきんファン・クラブ会長にしてオルセン・レコードの主宰者。
彼女にほぶらきんとの関わりを語ってもらった。
▶『ゴースンの一生」は滅茶苦茶暗い話でしょう?
「通して聴いてもどういう一生やったのか判らへんという(笑)」
▶登場キャラクターの説明を読むと皆んな性格が歪んでますね。
「あの性格分析は青木さんです。半分洒落なんですけどね。ああいう勉強を大学でやってはったから」
▶よくよく考えてみると底が知れないとんでもないカルマを秘めた物語です。
「私には暗さも判って無かったかもしれないですね」
▶2009年に「ゴースンの一生・ライブ」が独立した形でリイシューされて良かったですね。スタジオとライブで2回続けて聴くとつくづく深い話やなと。CDのゴールド・ロック・シリーズ「ほぶらきん」(以下GRS)でだーっと聴いてしまうとどこからが「ゴースンの一生」か判らなくて印象がぼやけてしまいます。
「一つ一つの曲として聴いてしまうんでね。どこからどこまでがゴースンなのかピンとこない。元々のソノシートで持っている人で無いと。初めてGRSで聴かはった人は解説にこの曲からこの曲までこのアルバムと書いてあってもそこまで気にしないでしょうから」
▶CD全体でマグマやゴングみたいな壮大な神話体系に思えてしまうんですよね。今回のLPリイシューでもその点が心配ではあります。
「ゴースンだけで出た事でほぶらきんの作品の中でも特異な物やったと判って頂けると思います」
▶位置付けとしては外伝ですね。
「1982年12月29日『今年の締めくくり的フェスティバル』で発表しはった時は全部新曲やった訳ですからびっくりしましたよ。こっちは森下さん一人で『魚うり』でも歌うのかなと思っているじゃないですか?それが全部今まで聴いた事の無い曲やったので」
▶ほぶらきんの作品をリリースしていたアンバランス・レコードが活動休止したので坂本さんが自分で出さねばと使命感に燃えてはった訳ですね。
「今度ソノシートを作るからそれ用に音源を持って来てとお願いしました。元々はカセットで来ましたから友達に頼んでオープンリール・デッキに落としてもらいました。2トラ38とか全然考えてはらへんかったので」
▶スタジオ録音のオケはライブと一緒なんですか?
「演奏をし直さはったのか私は判らないです。気にもしていなかったですけど」
▶オケのキーボードは木村さんですか?
「木村さんでは無いと思いますよ。ライブではキーボードを弾いてはったけど。その辺もどうでも良かった(笑)。
結局一番キーボードが上手かったのは(森下)太朗さんなんですよ。坊っちゃん育ちやったのかな?歌いながら両手で弾きはったし。だから太朗さんが全部独りで演ってはると思います。
木村さんは『マラ出しガンマン危機一髪』とかを歌うてはる可愛らしい声の人です。ライブではキーボードを弾くよりコーラスを付ける方が多かったです。
スギサクが入ったのは木村さんが学校の先生をしてはったのでツアーが出来ひんかったのと森下さんをボーカルに専念させる為でした。
ほぶらきんのメンバー・チェンジはいい加減なんですよ。誰々が忙しいから代わりに誰それが入ったとかね(笑)」
▶それでも演奏のボルテージが保たれているのは麻雀仲間ならではの信頼感があったからでしょうか?
「うーん、言うてみたら誰が演ってもいいんですけどね(笑)」
▶森下さんが歌うてはったらほぶらきんになる?
「それもね〜、ほぶらきんはレコードでもライブでも森下さんだけが歌うてはった訳では無いですからね。
森下さんは今でこそカリスマ的なボーカルと言われていますけど、アルバムで『どまぐれじんぎ』は井上英雄さんが歌うてはるし「ピコリーノ」は青木さんの弟やし誰が歌うのもそんなにこだわってはらへんかったのかもしれません」
▶ソノシートのスライド写真はライブでも使用したのですか?
「あれは滋賀県の田舎の方で衣装を着て皆んなで撮影したそうです。どくろ忍者の中の人が青木さんのお父さんやったとか(笑)。
スライドの投影は『今年の締めくくり的フェスティバル』では無理でしたけど1983年3月20日『正調ほぶらきん音頭』の時はバックに映して今はこの人の話だと説明するのに使っていました。それをジャケット製作の時に流用して」
▶ソノシート二枚組500セットは勝負に出た感があります。捌ける目算はあったのですか?
「実はソノシートの生産最小ロットが500枚で、それ以下では作れなかったんです。『在庫が残ってもまぁ別にええわ』という気持でした。製作費全部持ち出しで回収できなかったとしても構わないという、道楽のつもりで作りました。お蔭様で完売しました。
因みに塩ビ盤なら最小ロットは50枚からだったんですが、30cmLP50枚だと一枚あたりの原価が2,300円でしたね」
▶オルセン・レコードの命名の由来は?
「オルセンは当時阪神タイガースに在籍していたリチャード・オルセン投手の事です。私が阪神ファン、青木さんが中日ファンで常に対立してまして(笑)、青木さんに付けられた社名です。
対抗して「いやや!藤王レコードにする!」(注:藤王康晴。当時中日に在籍)と反論しましたが却下されました。
オルセンも藤王も、最初は期待されるもその後はあまりぱっとしない選手だったんです(笑)」
▶「ゴースンの一生」以外にオルセン・レコードでリリースした作品はありましたか?
「ありません。『ゴースンの一生』を出すためだけにでっち上げた様なレーベルなんで。だからこそソノシートで発表とか500セットリリースとか無茶が出来たんです。次に繋げようという意思が無かったので、インディーズのレーベルとしては邪道だったかもしれません」
※写真はすべて1982年12月29日「今年の締めくくり的フェスティバル」森下太朗ソロ@スタジオ・ワン
撮影/坂本葉子
つづく