実録 関西パンク反逆の軌跡 その18

「坂本葉子インタビュー最終回」

ほぶらきんは時代劇 meets SFな歌詞、童謡や特撮ヒーローTV番組の主題歌の様に親しみやすいメロディで頭ノリの楽曲(しかも一分程度で終る)、応援団を思わせるバンカラな歌唱、疾走感と破壊力漲る演奏、抱腹絶倒のライブ・パフォーマンスにより世界に知られる唯一無二のバンド。
メンバーは森下太朗(vo)、黄之瀬英史(g)、木村隆浩(k)、山本進(b)、青木宝生(drm)。
全員が滋賀県立膳所高校の同級生で麻雀仲間。高校卒業後の1979年にバンド結成。
ほぶらきんは音楽性だけで無くレコード制作の方法もユニークだった。
大津の西武百貨店は1976年開店。アネックスにディスク・ポートという滋賀県唯一の輸入レコード店があった。この店はMY RECORDというプライベートなレコードを制作するサービスを行なっていた。代金さえ払えば結婚式の記録だろうがオジサンのカラオケだろうが何でもレコードにしてもらえた。
彼等はここで1979年秋に1stEP「こっぷらきん」、1980年春に2ndEP「キング・ホブラ」を50枚ずつ制作した。
レコードはメンバーが手売りした。
1980年秋、ロックマガジン33号の付録として4曲入りソノシートをリリース。
1981年8月、3rd EP「インドの虎狩り」をアンバランス・レコードからリリース。
1982年1月、4th EP「ホームラン」をアンバランス・レコードからリリース。ライブ盤。
1983年4月、ソノシート2枚組「ゴースンの一生」をオルセン・レコードからリリース。

坂本葉子はほぶらきんファン・クラブ会長にしてオルセン・レコードの主宰者。
彼女にほぶらきんとの関わりを語ってもらった。

磔磔を異世界宇宙に、、、



▶ほぶらきんのライブは1980年から1983年にかけての実質2年半に僅か9回のみです。露出が少なかったので摩滅しなかったのかも?

「それはあると思います」

▶神秘性を帯びたままで。

「謎の(笑)」

▶はてなブログ(注1)によれば森下さんは曲のストックがあった様なのでもっと聴きたかったと思う反面、身の引き方が絶妙のタイミングだった気もします。
ほぶらきんが音楽活動を休止したのはメンバーが就職したからですか?

「就職して居住地がバラバラになってしまったからかもしれません」

▶もしほぶらきんで商売しようと思うていたら続かなかったでしょうね。しょうもなくなったなと飽きられて終わり。

「うーん、笑わせようと思うてやってはったんじゃ無いんで。こんなんしか出来ひんとあんな歌を歌ってはったんで(笑)。
それがもしあの時点でメジャー・デビューして、舞台に出たら人が笑う様な曲を作らなあかん様になっていたら詰まらなくなったと思いますね。
ほぶらきんはお笑いバンドじゃ無いんです」

▶ナンセンスな事をやっていますから笑わせようという意識はあった訳でしょう?

「いわゆるコミックバンドじゃ無いという意味です。面白い事をしようという意図はあったやろうけれど媚びる所は無かったんでね。
前回これでウケたから今度もしよかという感じや無くて自分達がこれ面白いやん?てなってそのまま演ってた感じかな。
新宿ロフトのDVDにあった寄席で演目をめくるみたいに曲目を書いた紙を剥がしていくのも本人達にしたら判りやすいからとかMCの代わりやと思うてやってはっただけなんですけど観ている方はめくるだけで面白いし、森下さんがうまい事めくられへんで『あ〜』とか言うてるのがまたウケる(笑)」

「めくり」が見えます。題目は「私はライオン」



▶デビュー・ライブの時は森下さんが曲間に酸素吸入器を使うだけで爆笑でした。黄之瀬さんがあぐらをかいてギターを弾いているのも衝撃でしたしイントロを間違えるだけでウケていました。

「うんうん、『ほなもういっぺん』言うて(笑)」

▶何でこんなにウケるのか自分達でも不思議やったのでは?

「そういう部分はあったと思いますよ。ウケるのとウケさせるのは違うでしょう?後から出て来た『笑える音楽を演奏するバンド』はウケようと狙って演ってるなとイラッと来る部分があるんです。聴いていて面白くて音楽的にもしっかりしているものもあったけど、それでもこれ演ったら笑えるでしょう?みたいな臭いは感じました」

▶東京の人が演ってる感じ?実は僕達インテリなんですみたいな(笑)。

「あーそれそれ、それが一番イラッと来るかな。本当はねとか、こんな部分もあるんだよとか。ほぶらきんはそれとは違う。
人間じゃ無いかもしれない何か、金勝山(こんぜやま)の狸が人間に化けて出て来た都会でオロオロしているみたいな所がありました。
いい意味で田舎の人?オロオロしているのがまた面白くて(笑)」

▶そこが愛おしいところですね。
ほぶらきんの音楽が時代や国境を越えてインパクトを与え続ける理由だと思います。ほぶらきんの1stEP「こっぷらきん」は関西パンク史上アーント・サリーの同名アルバムに次ぐレコードです。アーント・サリーはヴァニティ・レコードからリリースされましたから真の自主制作盤としてはほぶらきんのが最初です。私は滋賀県民としてほぶらきんに県の文化功労賞を上げたいですわ。

「ほぶらきんの1stと2ndは大津の西武百貨店のマイ・レコードですからね。当時素人がレコードを作ろうと思ったらそういうのしか無かったんですよね」

▶録音スタジオ自体が無かったですから。

「そう、一般に開放されている所は無くって」

▶練習スタジオでミキサー卓とカセットテープ・レコーダーがあって録音が出来る様になるのは1980年代になってからです。

「私はバンドが練習する貸しスタジオがあるのも知らなかったんですよ。バンドはお家にガレージがある人しかやったらあかんと思うてたから(笑)。

▶それ以外やと高校とか大学の軽音楽部の練習場。

「あー、そうですね。音を出せる場所が無いとバンドは出来へんと思うてました。貸しスタジオがあると知った時はびっくりした時代でしたからね」

▶私は大学の音楽サークルに所属していたので練習スタジオで1時間いくらでお金を払うのが信じられなかったです。

「でもそうやってね、自分の思い出作りで演歌を歌うとか子供の習い事の発表会の記録とかをレコードにしている所で自分達のオリジナル曲でレコードを作って手売りするって健全な発想ですよ。
その後インディーズ・レーベルが出来始めてバンドが『僕とこも出して下さい』と売り込む傾向があったじゃないですか?お互いにインディーやのにバンドがレーベルにレコードを作ってもらおうと媚びて。
今は自分達で宅録した音源をネット配信したりして手作り感覚に戻って来ていますね」

▶貴重なお話をありがとうございました。


ほぶらきんライブ年表(森下太朗ソロを含む)

1980年11月27日「キャバレー・ボルテール NOISE FOR EUTHANASIA (変態毒音波展)」 共演/非常階段、まだ、YOUTH IN ASIA、ROSE TEA CEREMONY。 同志社大学至誠館24教室

1981年4月19日「Answer’81 Part2」 共演/アウシュヴィッツ、C.MEMI+ネオ・マチス、非常階段、スターリン。 磔磔

1981年5月17日「AUTOMAT」 共演/LD50、ヒステリックス、プルトニウム、リフォーム。 帝塚山学院大学

1981年8月28日「FLIGHT 7DAYS」 共演/アウシュヴィッツ、NG、非常階段。 新宿ロフト

1981年10月10日「NEW WAVE必殺シリーズ vol.8」 共演/リフォーム。 マントヒヒ

1982年2月20日「Pin Head マントヒヒ救済フェス」 共演/アカイノド、電動マリオネット、ナシ、ラフィノーズ。 マントヒヒ

1982年10月30日「LOCK OUT ’82」 共演/アニマルZ、コンチネンタル・キッズ、ゼルダ+モモヨ、4D、プルトニウム、チャンス・オペレーション、ツネマツ・マサトシ&E.D.P.S、ハネムーンズ、4D、P-モデル、プルトニウム、UPメーカー、吉野大作&プロスティテュート。 関西学院大学中央講堂

1982年12月29日「今年の締めくくり的フェスティバル」 共演/アンノン、GYZEN、少年ナイフ、NANA、Die Owan、フロスト、ペコちゃんはエロティックス、RE。 スタジオ・ワン(この日は森下太朗ソロ)

1983年3月20日「正調ほぶらきん音頭」 共演/Die Owan、マルコメX。 アビエックス(この日は森下太朗ソロ)

注1.ほぶらきんとは 音楽の人気・最新記事を集めました – はてなブログ https://d.hatena.ne.jp/keyword/%E3%81%BB%E3%81%B6%E3%82%89%E3%81%8D%E3%82%93

追記
坂本さんのインタビューに関して、ほぶらきんの青木宝生さんに事実確認をして頂く必要が生じました。
やり取りをする中で以下の事実が判明しました。

▶「こっぷらきん」と「キング・ホブラ」の音源はどの様に録音されましたか?

青木「京都市内のスタジオで録音して(オープンリールのツートラサンパチ)、テープをマイレコードに持ち込みました。
最初の録音の時にミキサーの人がちっちゃいちっちゃい音で録りよるのでそれをクビにして、友だちを連れてきて音が割れてもいいから大きな音で録れ、と言って録音しました。
スタジオは『かっちょまつばら』という、どこだかわからない京都市内の地名の場所にありました。
かっちょまつばらは桂千代原町と思われます。『まつ』はどこからきたのか?」

▶ロックマガジンのソノシートの音源は?

青木「阿木譲さんにはオープンリールを渡した。それを阿木さんがミックスダウンして、マイレコードと比べると格段に音が良くなった。阿木さんは青木のことが好きなのでがんばらはったんちゃうか。そんでそのテープをなかなか返してくれんかったので、森下が電話して阿木さんに怒った」