第67回 ”Boy’s Own”, the Complete Fanzines 1986-92: Acid House Scrapes and Capers Frank Broughton, Bill Brewster(編集)

Boy’s Own”, the Complete Fanzines 1986-92: Acid House Scrapes and Capers Frank Broughton, Bill Brewster(編集)
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奥沢のストレンジ・ブティックさんで写真展をやらせてもらってから、色色と過去のことを思い出してます。

ストレンジ・ブティックさんで、一番思い出したのは、パンク時代の『狂乱娼館』というファンジンです。『狂乱娼館』とググれば画像が出てくると思います。

お姉さまたちがロンドンに行って、レディング・フェスティヴァルや色んなライブを観て来たことが書かれたファンジンでした。当時のミュージック・ライフ、音楽専科、ミュージック・マガジン、ロッキング・オンに載っていないリアルなイギリスのパンクの状況が分かり、あーこういう風に取材をすればいいんだと、自分の取材スタイルの原点となったファンジンです。

そういえばクリエイション・レコードのアラン・マッギーもファンジンを作っていたなということを思い出しました。名前は確か『コミュニケーション・ブラー』だったと思います。プライマル・スクリームのボビー・ギャレスビーが印刷所で働いていたので、そこでタダでコピーして、50p(今の値段で75円、当時だと250円くらいの感覚ですかね。地下鉄で一駅分くらい、ハーフ・パイント・オブ・ラーガーの値段)で売っていたような気がします。

マッギーから「買え」と言われていたような気がします。その頃のマッギーは英国鉄道で働いていたそうですが、僕は絶対失業保険もらっているロクでもない奴なんだろうなと思ってました。

彼はグレイト・ポートランド・ストリート駅とウオーレン・ストリート駅の間にあるパブの2階を借りて、『リビング・ルーム』というライブ・バンドが一つ出るDJパーティーを月1か週1で始めました。その儲かったお金でクリエイション・レコードを始めたのです。

その頃、僕はグレイト・ポートランド・ストリート駅の前にあるニンジンという日本のスーパー・マーケットで働いてました。僕の最寄り駅はウオーレン・ストリート駅で、あーリビング・ルームやってるなと横目で通り過ぎたり、たまに行ったりしてました。入場料は1ポンド50pだったような気がします。それで200人も入れれば、300ポンドになるんで、バンドに50ポンド払って、会場費と機材費に50ポンドづつ払っても150ポンド残るんで、シングル一枚作れるくらいのお金は出来たのだと思います。

当時の僕の給料が週給75ポンドだったので、2週間分くらいの給料がたった一晩で稼げていたのです。今で言うと10万くらいの感じですかね。アランもよくやったなと思いましたが、僕ものちにアンディ・ウェザオール、アンダーワールドのダレン・エマーソン、ジェフ・ミルズ、デレック・メイ、リッチー・ホウティンなどを日本に呼んでパーティーをやったので、アランがやっていたことがなんとなく心に残っていたのでしょう。

アンディ・ウェザオールもファンジンをやってました。ボーイズ・オウンというファンジンです。当時何が起こっているのかよく分からなかったアシッド・ハウス・シーンの情報が分かるファンジンで僕は大好きで、目にした時は買ってました。アランがやっていた『コミュニケーション・ブラー』よりもいい紙を使うようになってました。彼らが目指したのは日本版もあったロンドンの伝説の雑誌IDです。

ボーイズ・オウン(男の子の物)という日本でいうとメンズ・クラブみたいなダサい雑誌名かと思われるかもしれませんが、名前もIDに影響されていますよね。IDという名前は、自分は何ものかというメッセージが込められていたのでしょう。

メンズ・クラブもダサいという印象しかないですけど日本最古の男性ファッション誌ですし、すごい自分が何者かということを打ち出そうとした雑誌だったなと思うのです。この辺のことはこの連載の第39回『AMETORA(アメトラ)日本がアメリカンスタイルを救った物語』を読めば分かります。スマッシュとも関係が深い麻田浩さんが初めて海外に行った時の取材を載せているのもメンズ・クラブなのです。麻田さんが当時の貴重なフォーク、ロック・シーンを撮ったかっこいい写真がガンガン使われていて、あーこういう人たちが日本に洋楽を持ってきてたんだと分かります。そんな麻田さんの自伝『聴かずに死ねるか!小さな呼び屋トムズ・キャビンの全仕事』もこの連載の第19回で紹介させてもらっています。

話を『ボーイズ・オウン』に戻しますが、IDに影響されていましたけど、そこまですごくはなかったです。初期のIDは表紙がシルク・スクリーンだったんです。どれだけアーティーだったか、たった1000部くらいだったら、シルク・スクリーンでも出来るのです。そして、本当のファッションはストリートにあると、街にいる子がファッションのお手本だと、彼らを主人公にしたのも画期的でした。

『ボーイズ・オウン』今は貴重で全ての号を集めたのが一冊の本『”Boy’s Own”, the Complete Fanzines 1986-92: Acid House Scrapes and Capers』として出てます。現在アンダーワールドのマネジャー、当時は英国航空のカウンターをやっていたスティーヴ・ホールが“みんなはドラッグばっかりやって明日のことを考えてないけど、俺はちゃんと月曜日には会社に行く”みたいなエッセイを書いていたり、何がイケてて、何がダサいかベスト10とか、今読むと笑える話がたくさんあって、楽しいなと思います。

今またパーティーとかやって楽しいんですかね。今だと、機材買って、誰もやらないような所で海賊ディスコとかやるの楽しいんですかね。200人くらい入って、2000円として、40万円、ドリンクの売り上げが10万くらい、合計50万くらい。機材置いておく倉庫代、会場費、機材代の毎月の借金返済、DJへのギャラ払って、10万くらい残るんですかね。騒音がうるさいからどこも貸してくれないすよね。フライヤー代がお金かからなくなっているだけでも世の中進化してますね。

いつも思うんですけど、友達200人いたら、生きていけるんだなと思います。子供の頃は“一年生になったら、友達百人出来るかな”という歌を聴いて、友達百人いらんわと思ってたんですけど、大人になって思うのはこの歌、真実をついてるわです。毎週パーティーに来て、2000円の入場料と700円のドリンク3杯飲んでくれるくれる友達200人おったら普通に生きていけますよ。

あっ、またお金の話になってしまいました。でも何か始めたいですね。まずは百人友達作ることですね。なんか小学校の頃に戻るもんですね。