VOICE OF EDITOR Vol.17

べらぼう

NHKの大河ドラマ「べらぼう」を見ている。

書く方はそれほど得意でないことはわかっていたが、実は編集が好きだったんだなとこの番組を見て再認識した。各方面のいろんな人と連絡を取り、原稿を依頼してひとつの形にするという作業が好きだったのだ。

これは我々プロモーターの作業と似ている。チケットの販売と宣伝を調整し、サウンドテックやライティングテック、ステージマネージャー、マーチャンダイジング、ホテルや交通手段などのリクエストを詳細に聞き手配する。そのひとつひとつの積み重ねが一つのコンサートやツアーという形になる。

これだけアーティストの数が増え、サウンド指向が多様化してくるとマーケティング作業が重要な役割を果たす。日本でどれだけの需要があるのかを判断する材料を掻き集める。あ〜、ビジネスは大変!って、話が逸れてしまった。

若い頃作っていたミニコミが出てきたので自分の記事を読み返してみると、頭のてっぺんから噴火するかと思うくらい酷い文章だった。多くの資料を揃えないと一行書くだけでもその文章は説得力を持たない。それだけに、ここに寄稿していただいている方たちの知識量に多さには頭が下がる。

作っていたミニコミ『ROCK MEDIA

京都でミニコミを作っていた頃、イベントのフライヤーやポスター持っていけば快く置いてくれたり、表の壁やトイレに貼らせてくれたのがロック喫茶やジャズ喫茶だった。イベントのチケットやミニコミは販売委託もできた。その代わり僕たちもよく呑みに通ったもので、マスターとは顔見知りになっていた。四条木屋町を南に入ったところには「飢餓」、「JAM HOUSE」があり、河原町三条近辺には「ポパイ」、「治外法権」、「聖家族」、御所を超えて今出川通りには「ニコニコ亭」、「童夢」があった。アルバイトやミニコミ制作、ライブ企画などで忙しくしていたのでロック喫茶に入り浸ることはなかったが、ギブ・アンド・テイクなお付き合いをしていた。

そんな時代から約10年前に大学受験のために東京で浪人生活中にジャズ喫茶のアルバイトから大学には行かず自らジャズ喫茶「ムーヴィン」をロックの街、高円寺に立ち上げたが上手く行かず、ロック喫茶へ方向転換して成功しそれだけでは終わらず、はちみつぱいというバンドのベーシストとしてもその位置を揺るぎないものにされた和田博己氏の執筆による青春放浪記「楽しい音の鳴るほうへ」は非常に興味深かった。大学には行ったが卒業後も就職できず大学生活の延長線上でいろんな変遷を経てプロモーターという仕事に着いた僕の経歴と重ねて読んでいた。

『楽しい音の鳴るほうへ』和田博己著

彼が中学生の頃に影響を受けた本に小田実氏の著書「何でも見てやろう」が出てきた。僕はその15年後に読むことになる。東京都杉並区の高円寺に21歳の若さで「ムーヴィン」をオープンした彼の生き様には到底及ばないし、彼がそこからパワー・ハウスの陳信輝や柳ジョージ、若い頃の山口富士夫、中津川フォークジャンボリーの岡林信康とはっぴいえんどをリアルタイムで通過したことは僕にとってはもう神の領域だ。言うまでもなく1973年にリリースされたはちみつぱいの「センチメンタル通り」は傑作だ。ムーヴィンはそのリリースからほどない1975年ごろに閉店している。

『何でも見てやろう』小田実著

僕が高円寺に辿り着いたのはムーヴィン開店から10年後のパンク・ニューウェーブが台頭して来た1978年ごろだった。高円寺に編集部を構えていたインディペンデントなニューウェーブ・マガジン、ZOOを尋ねるためだ。表紙もカッコよく、写植で文字を並べ、レイアウトもクールで、広告もバッチリ取ったマガジンは、僕が作っていた手書き版下を印刷しただけのミニコミより数段洗練されていてやはり10年先を行っていた。1972年創刊のロッキンオンや1976年創刊のロックマガジンは文章のクォリティの高さを含めもっともっと先を走っていた。

rock magazine

「べらぼう」は江戸時代のマガジン編集の話だが、まだマガジンのメディアとしての可能性を諦めきれずにいた25年前に作っていたExtreme The Dojo Magazineのことなどを思い出しながら楽しく見させていただいている。まぁ、smashwest.comは性懲りもなく今でも諦めきれずにいるウェブ・マガジンなんだけどね。

Extreme The Dojo Magazine

ではでは、、、。